四話 星の実 (3)
「……ここ?」
小春は足を止めた。
市場で見かけた家々と比べると随分と小さく、壁はところどころ傷み、屋根も古びている。
「煤丸……?」
追いかけてきたものの、勝手に入っていいものかと小春は戸口の前で立ち尽くした。
すると、中から小さな物音がした。
「……母ちゃん」
煤丸の声だった。先ほどまで必死に逃げ回っていた時とは違うひどく弱々しい声。
「母ちゃん、起きてるか?」
小春は戸口に伸ばしかけた手を止めた。
「星の実持ってきたぞ」
煤丸は布団に横たわる痩せ細った母に近づいた。
「……煤丸かい?」
「ああ。母ちゃんの好きなやつだ」
母親は重たそうに瞼を開いた。
煤丸の抱えている星の実を見ると、弱々しくも嬉しそうに目を細める。
「まあ……星の実じゃないか」
「食いたいって言ってただろ?」
「……そうだったねぇ」
煤丸は得意げに星の実を差し出した。
けれど母親は受け取ろうとはせず、じっと煤丸を見つめている。
「煤丸」
「なんだ?」
「……これは、どうしたんだい?──ちゃんとお代は払ったのかい?」
煤丸の耳がぴくりと動いた。
「それは……」
戸口に立っていた小春は事情を察した。
「……盗んだものを食べても、母ちゃんは何も嬉しくないよ……元あった場所に戻しておいで」
煤丸が肩を落として戸口へ向かい、扉に手をかけようとした、その時だった。
ふいに、扉が向こう側から開いた。
「えっ?」
見上げると、先ほど自分を追いかけてきた女が立っている。
「お、お前……!」
煤丸は咄嗟に星の実を背中へ隠した。
だが、小春は怒るでもなく、煤丸の前にしゃがみ込んだ。
「……それ、お母さんにあげたかったんだね──聞こえちゃった。ごめんね」
煤丸はばつが悪そうに俯いた。
「……返すよ──母ちゃんに怒られた。盗んだものなんかいらないって」
煤丸は背中に隠していた星の実を、小春へ差し出した。
「……ごめん」
小春は差し出された星の実を見つめた。
「じゃあ、一回返して」
煤丸は頷いて小春に星の実を返した。
「じゃあ、これは返してもらいました──はい、煤丸どうぞ」
そう言って、小春は星の実をそのまま煤丸に差し出した。
「今度は私からあげる」
煤丸は目を丸くした。
「いいのか……?」
「うん! お母さんに食べさせてあげて」
煤丸は、ぱぁっと表情を明るくし、廬の中へ駆け戻った。
「母ちゃん! これ、貰ったんだ! 盗んだやつじゃねぇぞ!」
煤丸は嬉しそうに星の実を母親へ差し出した。
「だから、食べてくれよ」
「……そうかい」
母親はほっとしたように微笑むと、戸口に立つ小春へ目を向けた。
「あなたが……?」
「あ、はい」
小春は少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう……」
母親は煤丸から星の実を受け取ると、小さな両手で大事そうに持って一口齧った。
「おいしいねぇ……」
「母ちゃん」
二、三口食べ進めたところで、手から星の実が零れ落ちた。
「母ちゃん……?」
「煤丸や──元気でね……」
母親は最後にそう言って、静かに目を閉じた。
「……母ちゃん?」
返事はない。
「母ちゃん……?」
煤丸が恐る恐る母親の身体に触れた、その時だった。
淡い光が、母親の身体から零れ始めた。
「……え?」
小春は息を呑んだ。
光は小さな粒となって、ひとつ、またひとつと宙へ舞い上がっていく。
それとともに母親の身体は少しずつ透けていった。
「母ちゃん……! 母ちゃん!」
煤丸が縋りつく。
けれど、その小さな両手は光の中をすり抜けた。
やがて母親の姿は完全に消え、無数の光だけが廬の中を漂っていた。
その光は煤丸の周りを一度だけ、優しく包み込むように巡る。
「……母ちゃん?」
そして、開け放たれた戸口から外へと流れていった。
光は風に乗るように邑の向こうへ流れていき、やがて大地へ溶けるように消えていった。
光が大地へ消えた直後、聞き覚えのある声が遠くから聞こえた。
「小春様!」
振り返ると、息を切らした松がこちらへ駆けてくる。
「松さん……」
「もう……お一人で行かれてはならないと……」
そこまで言った松は、小春の傍らにいる煤丸と、開け放たれた廬の戸口を見て口を噤んだ。
「……今、光が」
小春は先ほど光が消えた大地へ目を向けた。
「煤丸のお母さんが……消えちゃったんです」
松は静かに目を伏せた。
「……龍脈へ還られたのでございましょう」
「龍脈へ……?」
「はい。神域に生きるものは役目を終えれば肉体を失い、龍脈に還るのです」
その時、小春は思い出した。
──死してなお、龍脈に還ることが出来なかった魂。
「……漂魂」
「はい?」
「昨日見た漂魂も、亡くなった人なんですよね?」
「左様でございます」
小春は光の消えた大地へ目を向けた。
「でも、煤丸のお母さんは還れた」
「はい」
「じゃあ……どうして漂魂は還れないんですか?」
松はしばし答えなかった。
「……この世に、強い悔恨を残したためだと伝えられております」
「悔恨……?」
「果たせなかった願い、伝えられなかった想い──そうしたものが魂をこの世へ繋ぎ止めるのだと」
小春は煤丸を見た。母の遺した星の実を大事に抱え、啜り泣いている。
きっと、煤丸の母にも心残りはあったはずだ。我が子を残して逝くことが、心配でなかったはずがない。
それでも、彼女は龍脈へ還っていった。
小春は泣き続ける煤丸の背を優しく撫でた。なんと声をかければいいのか分からなかった。大丈夫なんて言えるはずもない。
「──母ちゃん、言ってたんだ……。私はどんなことがあっても煤丸のことをずっと愛してるって……」
煤丸は星の実をぎゅっと抱きしめた。
「おいらも、言ったんだ……。母ちゃん大好きだって」
小春はただ頷くことしかできず、やがてその小さな身体をそっと抱き寄せた。
「すまねぇ……必ず礼はするから……。今は少しこのままで居させてくれ……」
小春は煤丸を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
煤丸は小春の胸元に顔を埋め、声を押し殺すように泣いた。
その手には、母の遺した星の実が大事そうに抱えられていた。




