第5話 妻を嫌いになりたい
その男は、店に入ってくるなり、まるで注文でもするような口調で言った。
「妻を愛していた記憶を、全部消してほしいんです」
黒瀬直人は、カウンターの奥で伝票を整理していた手を止めた。
ここ数日、記憶買取店にはさまざまな客が訪れている。
亡くなった娘との最後の一日を消したい母親。自分が人を殺したと思い込んでいた男。そして昨日は、十年間のいじめの記憶を捨てようとした女性。
少しずつ慣れてきたつもりだった。
それでも、客が最初に何を言い出すかだけは予想できない。
「妻を……嫌いになりたいってことですか?」
直人が尋ねると、男は小さく首を振った。
「嫌いになりたいんじゃありません」
「じゃあ?」
「何とも思わなくなりたいんです」
男の名前は柴田浩介。四十二歳。
紺色のジャケットに白いシャツ。顔立ちも服装も整っているが、左手の薬指には指輪がなかった。
神崎宗一郎が向かい側へ座る。
「奥様との記憶をすべて売却したい、ということでしょうか」
「できるんですよね?」
「可能です。ただし、対象となる記憶の範囲を確認する必要があります」
「結婚する前から全部です」
柴田は迷わず答えた。
「出会った日から、結婚して、一緒に暮らしていた十二年間。全部いりません」
直人は思わず口を挟んだ。
「十二年って……長くないですか?」
「だから消したいんです」
柴田は直人を見る。
怒っているようにも見えたが、その奥にあるのは怒りより疲労だった。
「長すぎたんですよ。十二年も一緒にいたから、どこに行っても思い出す」
お気に入りだった店。
旅行先。
毎朝使っていたマグカップ。
近所のスーパー。
テレビ番組。
妻が好きだった歌。
「離婚して半年になります。でも、何をしてもあいつを思い出す」
「離婚の理由は?」
神崎が尋ねる。
柴田の表情が硬くなった。
「浮気です」
◇
半年前。
柴田は仕事の予定が急に変わり、普段より二時間ほど早く会社を出た。
家へ帰る途中、駅前のホテル近くで妻を見かけた。
妻の名前は麻衣。
買い物にでも来ているのかと思った。
声をかけようとした時、一人の男が麻衣へ近づいた。
二人は親しげに話し始めた。
そして。
「抱き合ったんです」
柴田は吐き捨てるように言った。
「俺の目の前で」
もちろん妻は柴田に気づいていない。
男は麻衣の肩へ手を回し、麻衣も男の背中へ腕を回した。
「そのままホテルの方へ歩いていった」
「中に入ったところまで見たんですか?」
直人が尋ねる。
「いや」
「じゃあ……」
「でも分かるでしょう」
柴田の声が強くなる。
「ホテルの前で男と抱き合って、何があるんですか」
「まあ……」
確かにそう見えても仕方がない。
柴田はその日の夜、妻を問い詰めた。
麻衣は浮気を否定した。
しかし柴田には言い訳にしか聞こえなかった。
「相手は兄だと言いました」
「兄?」
「そうです。実の兄だと」
直人は少し眉をひそめた。
「本当に兄だったんじゃ?」
「俺は結婚して十二年ですよ」
柴田は笑った。
「妻に兄なんていません」
少なくとも、柴田は一度も会ったことがない。
結婚式にもいなかった。
妻の両親から聞いたこともない。
「しかも、あの日から妻の様子がおかしくなった。スマホを隠す。帰りが遅い。俺が聞いたら怒る。分かりやすいでしょう」
結局、二人は激しく言い争い、離婚した。
「それでも、嫌いになれないんです」
柴田は俯いた。
「最低な女だって思ってる。俺を裏切った。でも……好きだった頃のことが邪魔をする」
初めて会った日。
二人で暮らし始めた日。
結婚式。
風邪を引いた時、一晩中看病してくれたこと。
「だから、全部消してください。愛してたから苦しいんです」
神崎は静かに頷いた。
「分かりました。まず記憶を確認しましょう」
◇
奥の部屋へ移動すると、柴田は慣れない装置を見て少し緊張した様子を見せた。
「これで本当に分かるんですか?」
「記憶に残っている範囲であれば」
神崎が器具を取りつける。
直人はモニター前へ座った。
「今回はどこから見る?」
「まずは浮気を目撃した日です」
画面が白くなり、やがて街並みが映し出された。
夕方。
柴田が駅前を歩いている。
前方に麻衣。
薄い色のコートを着ている。
男が近づいてくる。
『麻衣』
男が声をかける。
麻衣が振り返る。
表情が変わった。
驚き。
そして、すぐに泣きそうな顔になる。
男が麻衣を抱きしめた。
麻衣も抱き返す。
「ここです」
椅子に座っている柴田が言った。
「これを見たんです」
確かに、事情を知らなければ浮気現場に見える。
だが直人には少し引っかかるものがあった。
「店主」
「何でしょう」
「もう少し前から見れない?」
「どの程度です?」
「五分くらい」
柴田が怪訝そうに直人を見る。
「何かあるんですか?」
「分かりません。でも、最近そういうのばっかりだから」
「そういうの?」
「見えてる場面だけだと、意味が違うってこと」
神崎が映像を巻き戻す。
五分前。
麻衣は一人で歩いている。
スマートフォンを耳に当てていた。
『うん……分かった』
声が震えている。
『今から行く』
電話を切る。
麻衣の目には涙が浮かんでいた。
「泣いてた?」
柴田が呟く。
「知ってました?」
「いや」
映像をさらに遡る。
駅前へ向かう途中。
麻衣がスマートフォンを見る。
画面に表示された名前。
『健吾』
柴田が言う。
「その男だ」
メッセージが表示されている。
『父さんが倒れた。病院に運ばれた』
直人は画面を見る。
「父さん?」
柴田も黙っている。
さらに再生。
麻衣と男が会う。
『お兄ちゃん』
麻衣が言った。
柴田の表情が変わった。
「……兄?」
『親父、意識戻らない』
『嘘……』
『とにかく病院行こう』
麻衣が泣き出す。
男が抱きしめる。
あの場面。
柴田が浮気だと思った瞬間だった。
「ちょっと待って」
柴田が声を上げた。
「でも、そんなはずない」
「何がです?」
「兄はいない。俺は聞いたことない」
神崎が映像を止める。
「記憶をさらに遡りましょう」
「何の?」
「奥様が『兄はいない』と説明している場面です」
柴田は黙った。
神崎が検索をかける。
複数の記憶が流れた。
結婚前。
麻衣が話している。
『兄とは十年以上会ってないの』
『なんで?』
『父親と喧嘩して家を出て、それっきり』
柴田の顔から血の気が引く。
「……嘘だ」
別の記憶。
結婚式の準備。
『お兄さん呼ばなくていいの?』
『連絡先も知らないし。たぶん来ないよ』
さらに別の記憶。
結婚後。
妻の実家。
義母が古い写真を見せている。
『これ麻衣のお兄ちゃん。健吾っていうの』
若い男と幼い麻衣。
「……俺、知ってる」
柴田が震える声で言った。
「知ってた」
直人も画面を見つめる。
「忘れてたんですか?」
「違う……」
柴田は頭を抱えた。
「俺は、兄なんていないって……」
その瞬間、神崎が言った。
「それは、奥様から聞いた言葉ですか?」
「え?」
「『自分には兄がいない』と、奥様が明確に言った記憶はありますか?」
柴田は答えられなかった。
神崎が記憶を検索する。
出てこない。
麻衣は一度も「兄はいない」とは言っていない。
柴田自身が、
結婚式に来なかった。
十年以上会っていない。
普段まったく話題に出ない。
という情報から、
『妻に兄はいない』
という認識を作っていただけだった。
「でも……」
柴田はまだ納得できない。
「じゃあ、なんで離婚する時にちゃんと説明しなかったんだ」
「説明されなかったのですか?」
神崎が尋ねる。
「されてない」
「確認しましょう」
「もういい!」
柴田が叫んだ。
部屋の空気が止まる。
「これ以上、何を見るっていうんだ」
「柴田さん」
「俺は浮気されたんだ!」
直人は柴田を見る。
さっきまで疲れ切っていた男の顔が、今は必死だった。
怒っている。
しかし、何かを守ろうとしているようにも見えた。
「店主」
直人が言った。
「見よう」
「おい!」
「ここまで来たんだから」
柴田が直人を睨む。
「お前に何が分かる」
「分かりません」
直人は答えた。
「だから見るんです」
柴田は何も言わなかった。
やがて目を閉じる。
「……勝手にしろ」
神崎が再生する。
◇
離婚前。
自宅のリビング。
『浮気なんかしてない!』
麻衣が泣きながら叫んでいる。
『じゃあ誰だよ、あの男!』
『兄だって言ってるでしょ!』
『俺はお前に兄がいるなんて聞いてない!』
『何度も話した!』
『嘘つけ!』
『写真だって見せた!』
柴田の顔が強張る。
記憶の中の柴田は怒鳴っている。
『ホテルに入ったんだろ!』
『入ってない! 病院に行ったの!』
『そんな都合のいい話信じられるか!』
『お父さんが倒れたの!』
麻衣が泣き崩れる。
『お兄ちゃんから突然連絡が来て……十何年ぶりに会ったの。あの人も怖かったんだよ。だから抱きしめてくれただけ』
『だったらなんでスマホ隠してた!』
『あなたがお兄ちゃんから連絡来るたびに怒るからでしょ!』
直人は思わず神崎を見る。
映像は続く。
『あなた、何を言っても信じないじゃない!』
『浮気した奴の言葉なんか信じられるか!』
『してない!』
『じゃあ証明しろよ!』
『何をすれば信じるの?』
『知らねえよ!』
麻衣がしばらく柴田を見ている。
そして、小さく言った。
『もう疲れた』
映像が止まった。
部屋の中は静まり返っていた。
柴田の頬に涙が流れていた。
「俺……」
声がかすれる。
「全部、聞いてるじゃないか」
「はい」
神崎が答える。
「でも覚えてなかった」
「記憶そのものは残っていました」
「じゃあ、なんで……」
神崎はモニターを見る。
「あなたにとって、奥様に裏切られたという結論の方が強かったからでしょう」
柴田は何も言わない。
「一度『妻は浮気している』と信じると、その考えと矛盾する情報は受け入れにくくなる」
兄の存在。
父親が倒れたこと。
病院へ向かったこと。
妻の説明。
「全部知っていたのに、あなたの中で重要ではない情報になった」
直人は、高木の事故を思い出していた。
本人が信じていることと、脳に残っている情報が違う。
人は、自分の感情に合わせて記憶の意味を変える。
「記憶って……怖いな」
直人が呟く。
◇
店へ戻ると、柴田は長い間カウンターの前に座ったままだった。
最初に来た時とは別人のようだった。
「どうされますか?」
神崎が尋ねる。
「奥様に関する記憶を売却しますか?」
柴田は答えない。
しばらくして、震える声で聞いた。
「もし全部消したら」
「はい」
「俺は、自分があいつに何したかも忘れるんですよね」
「そうなります」
「楽にはなる?」
「それは私には分かりません」
神崎は淡々と答えた。
「ただ、事実を知らない人間にはなれます」
柴田は俯いた。
「最低だな、俺」
直人は何も言わない。
「浮気されたと思い込んで、話も聞かないで……十二年一緒にいた相手を追い出した」
「まだ、奥さんに確認することはできますよ」
直人が言った。
「離婚して半年だろ」
「今さら何て言うんだ」
「分からない」
「謝って許してもらえると思うか?」
「それも分からない」
「何も分からないじゃないか」
「そりゃそうだろ」
直人は柴田を見る。
「俺、奥さんじゃないし」
柴田が少しだけ笑った。
「でも」
直人は続けた。
「忘れたら、謝ることすらできなくなる」
柴田は黙った。
やがて立ち上がる。
「売るの、やめます」
「よろしいのですか?」
「はい」
入口へ向かいかけて、柴田は足を止めた。
「神崎さん」
「はい」
「記憶って、本当に当てにならないんですね」
「そうですね」
「じゃあ……自分が正しいと思ってることも?」
「疑った方がいいでしょう」
柴田は苦笑した。
「もっと早く知りたかったな」
カラン。
ベルが鳴り、男は店を出ていった。
◇
「また売上ゼロ」
直人が言った。
「経営の心配は不要です」
「最近それしか言わないな」
神崎は棚を整理している。
直人はカウンターへ座り、先ほどの映像について考えていた。
「なあ、店主」
「何ですか」
「人ってさ」
「はい」
「本当に起きたことまで、自分に都合よく変えちゃうんだな」
「変えるというより、意味を付け替えると言った方が近いでしょう」
「意味?」
「柴田さんは、奥様が男性と抱き合う場面を正しく記憶していました」
「でも浮気じゃなかった」
「そうです。映像は正しい。しかし、その映像に『裏切り』という意味を付けたのは柴田さんです」
直人は少し考えた。
「じゃあさ」
「はい」
「血まみれの女が倒れてて、その前に俺が立ってたとして」
神崎の手が止まった。
「それだけじゃ、俺が殺したとは限らない?」
沈黙。
「何の話です?」
「最近見るやつ」
直人は自分の頭を指した。
「山。雨。血。女」
神崎は何も答えない。
「俺が何か持ってる時もある」
「何を?」
「たぶん……ナイフ」
神崎の表情がわずかに変わった。
「でもさ」
直人は続ける。
「それを見た俺が『自分が殺した』って思ったとしても、それって柴田さんと一緒かもしれないんだろ?」
「……可能性だけなら」
「じゃあ、何で毎回思い出すなって言うんだよ」
「黒瀬さん」
「何?」
「知らない方がいいこともあります」
「またそれか」
直人は苛立って立ち上がった。
「最近あんた、そればっかりだな」
「あなたのためです」
「だったら説明しろよ」
「今はできません」
「なんで?」
「今のあなたには、まだ判断できないからです」
直人は神崎を睨む。
「俺の記憶なのに?」
「……そうです」
少し間があった。
その間が、直人には引っかかった。
「本当に?」
「何がです?」
「本当に俺の記憶なのか?」
神崎は答えなかった。
店内が静かになる。
直人は黒い瓶が隠されている棚を見る。
「俺、いつかあれ見るからな」
「お勧めしません」
「止めても無駄だよ」
「そうでしょうね」
神崎は諦めたように息を吐いた。
◇
その夜。
自宅へ戻った直人は、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
テレビをつけても内容が頭に入ってこない。
柴田のことばかり考えていた。
十二年間一緒にいた妻。
確かに見た光景。
確かに聞いた説明。
それでも、感情によって全く違う物語になった。
「記憶は事実じゃない……か」
直人は呟く。
その時。
頭の中に、また映像が浮かんだ。
雨。
山道。
暗闇。
誰かが倒れている。
女。
自分はその前に立っている。
右手。
血。
ナイフ。
『直人……』
女が顔を上げる。
見えそうになる。
「……誰なんだよ」
直人は目を閉じる。
今度は逃げない。
思い出そうとする。
『直人……』
女の口が動く。
次の瞬間。
映像が変わった。
同じ山。
同じ雨。
同じ女。
しかし。
自分の右手には――。
「……何もない?」
直人は目を開けた。
呼吸が荒くなっている。
さっきの記憶ではナイフを握っていた。
今見えた記憶では手ぶらだった。
「どっちだよ……」
二つの映像。
どちらも、自分の記憶のように感じる。
直人は頭を抱えた。
その時、テーブルの上に置いていた銀色の鍵が目に入った。
『M・K』
昨日から気になっている、知らない鍵。
何気なく握る。
すると。
『直人』
今までとは違う声が聞こえた。
明るい声。
『鍵、また忘れてるよ』
女が笑う。
顔は見えない。
『美咲が持ってるからいいだろ』
直人自身の声。
「……美咲?」
口から、名前が出た。
直人は固まった。
知らない名前。
そのはずなのに。
言葉にした瞬間、胸が締めつけられた。
「美咲……」
もう一度呼ぶ。
理由も分からないまま、涙が一滴だけ頬を伝った。
◇
同じ頃。
記憶買取店。
神崎は一本の青い瓶を手に取っていた。
『黒瀬直人/柊美咲』
淡い光が瓶の中で揺れている。
「名前まで戻ったか……」
その隣には黒い瓶。
『黒瀬直人/八年前/殺人』
二本の瓶を見比べる。
「予想より早い」
神崎は机の引き出しを開けた。
中には一枚の古い紙。
そこには八年前の日付と、ある施設の名称が記されている。
『MNEMOSYNE研究所』
そして、その下。
『被験者 K-01』
名前。
『黒瀬直人』
神崎は紙を握りしめた。
「記憶が戻れば……あの日のことも思い出す」
黒い瓶の中で、映像が揺れた。
雨の山中。
血まみれの女。
直人。
ナイフ。
そして。
ほんの一瞬。
同じ場面に、もう一人の人影が映る。
神崎はすぐに瓶を伏せた。
「まだだ」
静かな店内に、神崎の声だけが響いた。
「まだ、彼に見せるわけにはいかない」
なぜなら八年前。
あの山にいたのは、
黒瀬直人と柊美咲の二人だけではなかったからだ。




