第4話 いじめられた十年間
記憶買取店で働き始めてから、黒瀬直人は人間というものが少し分からなくなっていた。
最初に来たのは、事故で亡くした娘との最後の一日を消したい母親だった。しかし彼女は、自分が知らなかった娘の言葉を記憶の中から見つけ、最後には「忘れたくない」と言って帰っていった。
次に来た男は、自分が人を殺したと思い込んでいた。三年前の交通事故を何度も頭の中で繰り返すうちに、いつしか「自分が居眠りをしていたせいで人を死なせた」という記憶を作り上げていた。
人間は、忘れたいと言いながら、最後には記憶を抱えて帰っていく。
それなら、この店は一体何のためにあるのだろう。
「店主」
客のいない店内で、直人はカウンターに頬杖をつきながら神崎宗一郎へ声をかけた。
「何でしょう」
「この店、ちゃんと儲かってんの?」
棚の整理をしていた神崎の手が止まる。
「突然どうしたんですか」
「だってさ、俺が働き始めてから、まともに記憶を売った客いないだろ。娘さんを亡くした人も売らなかったし、高木さんも結局やめたし」
「あなたは経営者ではありませんので、心配しなくても結構です」
「俺の給料に関係するだろ」
「給料はお支払いします」
「ならいいけど」
直人が椅子にもたれた、その時だった。
入口の扉が開き、乾いたベルの音が鳴った。
一人の女性が入ってくる。
二十代後半くらいだろうか。肩まで伸びた黒髪に、派手さのないブラウスとロングスカート。化粧も薄く、街ですれ違っても特に印象には残らないような女性だった。
ただ、妙なことが一つあった。
店へ入ってから一度も、直人とも神崎とも目を合わせようとしない。
「いらっしゃいませ」
神崎がいつもの調子で声をかけると、女性は小さく頭を下げてカウンターの前へ座った。
「相沢結衣といいます。二十八歳です」
「本日は、どのような記憶の売却をご希望でしょうか」
結衣は膝の上で両手を強く握った。何度か口を開きかけ、それでも言葉が出てこない。やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「十年分の記憶を、全部消したいんです」
直人は思わず聞き返した。
「十年?」
「はい。八歳から十八歳まで。小学校三年生から高校を卒業するまでの十年間を、全部なくしてください」
「ちょっと待って。それって人生のかなりの部分じゃない?」
「分かっています」
結衣の答えに迷いはなかった。
神崎は何も言わず、続きを待っている。
結衣は一度だけ深く息を吸った。
「その十年間、ずっといじめられていました」
◇
始まりは、結衣自身にも分からないほど些細なものだった。
小学校三年生のある日、それまで一緒に遊んでいた女子三人が突然話してくれなくなった。昨日までは普通に笑っていたのに、次の日から結衣が近づくと会話をやめ、別の場所へ移動するようになった。
何か悪いことをしたのだと思い、結衣は何度も謝った。
しかし、何について謝ればいいのかさえ分からなかった。
やがて無視だけでは済まなくなった。
上履きがなくなり、探しているとゴミ箱から見つかった。筆箱がなくなり、教室の掃除用具入れから出てきた。体育の授業では誰もペアになろうとせず、給食の時間になると結衣の机だけが少し離された。
「中学校に入ったら、全部終わると思ってたんです」
結衣は淡々と話していた。まるで自分ではなく、どこかの知らない子供の話をしているようだった。
「でも、終わりませんでした。同じ小学校の子が何人もいたから」
中学校では机に悪口を書かれるようになった。
教科書が破られたこともある。
携帯電話を持つようになってからは、学校の外にまで逃げ場がなくなった。匿名のアカウントに写真を載せられ、「気持ち悪い」「学校に来るな」と書かれた。
「先生や親には言わなかったの?」
直人が尋ねると、結衣は少しだけ笑った。
「言いましたよ。母は何度も学校に行ってくれました。先生もクラスのみんなに注意してくれました」
「だったら……」
「その次の日から、もっと酷くなりました」
直人は何も言えなくなった。
誰が先生に告げ口したのか。
クラスの全員が分かっていた。
「高校だけは、誰も私を知らないところへ行こうと思って、少し離れた学校を選びました。でも、中学の同級生が二人だけ同じ高校に来たんです」
その二人が、昔の話をした。
たったそれだけで十分だった。
高校でも結衣は「いじめられる人」になった。
「十八歳で卒業して、それから十年経ちました。今は普通に会社で働いています。職場の人も優しいし、友達もいます。もう誰にもいじめられていません」
「だったら、どうして今になって消したいの?」
直人の問いに、結衣は初めて真正面から彼を見た。
「終わってないからです」
「え?」
「後ろで誰かが笑ったら、私のことを笑っている気がするんです。会社で二人が小声で話していると、悪口を言われている気がする。友達からLINEの返信が少し遅れただけで、嫌われたんじゃないかって何時間も考える」
結衣は胸元を強く握った。
「頭では分かってるんです。誰も私のことなんて見てない。でも身体が勝手に怖がるんです」
十年前に学校を卒業した。
だが、結衣の中ではまだ卒業できていない。
「だから全部消してください。楽しかったことが少しくらいなくなっても構いません。あの十年間を思い出さなくて済むなら、それでいいんです」
神崎はしばらく結衣を見つめてから、静かに立ち上がった。
「分かりました。まず記憶を確認しましょう」
◇
奥の部屋で、結衣の頭に記憶を読み取るための装置が取りつけられた。
直人はいつものようにモニターの前へ座る。
「十年分全部見るわけじゃないよな?」
「強い感情反応が記録されている部分だけを抽出します。それでも、ある程度の時間はかかります」
神崎が装置を起動する。
画面が白くなり、やがて一つの教室が現れた。
小学校。
まだ八歳の結衣が、教室の隅にいる三人の女子へ駆け寄っていく。
『ねえ、今日何して遊ぶ?』
三人は答えない。
『ねえってば』
一人が立ち上がり、結衣を見ないまま別の場所へ歩いていく。他の二人もそれについていった。
小さな結衣だけが、その場に取り残された。
映像が切り替わる。
下駄箱の前で泣きながら上履きを探す結衣。
ゴミ箱の中に、汚れた上履きが入っている。
また映像が変わった。
中学校の教室。
机いっぱいに黒い油性ペンで「キモい」「消えろ」と書かれている。
周囲から笑い声が聞こえる。
結衣は何も言わず、濡らした雑巾で文字を消している。
次は体育館。
『二人組作って』
教師の声と同時に生徒たちが動き、最後に結衣だけが一人残った。
そして高校。
机の中から何枚もの紙が落ちる。
『学校来んな』
『死ね』
『ブス』
直人は思わず顔を背けた。
「……もう十分じゃないか?」
「まだです」
神崎が答える。
「この直後に、強い記憶反応があります」
画面の中。
高校三年生の結衣は床に散らばった紙を拾おうともせず、ただ椅子に座っていた。
泣いていない。
怒ってもいない。
何も感じていないような顔だった。
その時、教室の扉が開いた。
『相沢さん?』
一人の女子生徒が入ってくる。
床の紙を見て、表情が変わった。
『これ……誰がやったの?』
『知らない』
『先生に言おう』
『いい』
『でも、これ酷すぎるよ』
『いいって!』
結衣が突然怒鳴った。
『先生に言ったって何も変わらない! 余計酷くなるだけだから!』
女子生徒は黙った。
結衣は鞄を持ち、逃げるように教室を出ようとする。
その腕を女子生徒が掴んだ。
『離して』
『じゃあ、先生には言わない』
『……何?』
『一緒に帰ろう』
『なんで?』
『一人で帰るの暇だから』
『友達いるでしょ』
『今日は相沢さんと帰りたい』
結衣は怪訝そうに相手を見る。
『なんで私なの?』
女子生徒は少し考えてから笑った。
『なんとなく』
映像が変わる。
二人で歩く帰り道。
コンビニでアイスを買う。
くだらない話をする。
次の日も一緒に帰る。
一週間後。
一か月後。
卒業式。
二人で並んで写真を撮っている。
そして、映像は十年後へ飛んだ。
二十八歳になった結衣。
居酒屋のテーブル。
向かいに座っているのは、あの日の女子生徒だった。
『結衣、誕生日おめでとう!』
小さなケーキを差し出され、結衣が笑っている。
そこで映像が止まった。
「この人は?」
直人が尋ねる。
結衣はしばらく答えなかった。
「真帆です」
「今も友達?」
「親友です」
高校三年生のあの日から十年間。
真帆だけは、ずっと結衣のそばにいた。
「全部消したら……この人と出会った記憶もなくなるの?」
直人が神崎を見る。
「当然です」
結衣が驚いたように顔を上げた。
「でも、真帆とは今も友達です」
「現在の記憶は残ります。しかし、なぜ彼女と親友になったのかは分からなくなるでしょう。最初に一緒に帰ったことも、卒業式も、あなたが苦しんでいた時に彼女だけが隣にいたことも失います」
「真帆の記憶だけ残すことは?」
「お勧めできません」
「どうして?」
「記憶は本棚に並んだ本のように、一冊ずつ独立しているわけではないからです」
神崎は自分の指を一本立てた。
「むしろ、無数の糸が絡み合っているものに近い。一つを無理に引き抜けば、別の記憶まで形を変える可能性があります」
結衣は俯いた。
「じゃあ……私はどうすればいいんですか」
消したい。
だが真帆との出会いは消したくない。
苦しかった十年間と、大切な親友との十年間は、同じ時間の中に存在している。
どちらか一方だけを人生から切り取ることはできない。
「一つ、方法があります」
神崎が言った。
結衣が顔を上げる。
「記憶を消すのではありません」
「じゃあ、何を?」
「感情です」
直人も神崎を見る。
「感情を消す?」
「正確には、弱めます」
神崎は説明を始めた。
人間の記憶には、出来事だけではなく、その時に抱いた感情が結びついている。
犬に噛まれた経験がある人間が犬を見るだけで恐怖を感じるように、過去の経験が現在の身体反応を引き起こすことがある。
結衣の場合も同じだった。
誰かの笑い声。
小声の会話。
LINEの返信が遅れること。
本来なら何でもない出来事が、過去のいじめと結びつき、恐怖として蘇る。
「出来事は残したまま、その記憶に結びついている恐怖だけを弱めることができます」
「そんなことまでできるの?」
直人が尋ねる。
「できます」
「じゃあ最初からそれ教えてやれよ」
「本人が何を残したいのか分からなければ、選択肢を提示する意味がありません」
結衣はしばらく考えていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「お願いします」
「記憶は残りますよ」
「はい」
「辛かったことも忘れません」
「それでいいです」
結衣はモニターに映る真帆を見た。
「この子とのことまでなくなるくらいなら、忘れなくていい」
◇
処置が終わるまで、三十分ほどかかった。
装置が停止し、結衣がゆっくりと目を開ける。
「どうですか?」
神崎が尋ねた。
結衣はすぐには答えなかった。
目を閉じ、過去を思い出しているようだった。
「覚えてます」
「何を?」
「全部です。ゴミ箱の上履きも、机の落書きも、高校の時の紙も」
失敗したのかと直人は思った。
しかし結衣の表情は穏やかだった。
「でも……不思議です」
「どうしました?」
「遠いんです」
「遠い?」
「今までは思い出した瞬間、またあの教室に戻ったみたいだったんです。周りから笑われてる声まで、すぐそこで聞こえるみたいで」
結衣は自分の胸に手を置いた。
「でも今は、ちゃんと昔のことに感じる」
目から涙が流れた。
「十年前なんですね」
「はい」
神崎が静かに答える。
「あなたはもう、あの教室にはいません」
結衣は何度も頷いた。
◇
店を出る前、結衣はスマートフォンを取り出した。
「真帆に電話してもいいですか?」
「もちろん」
数回の呼び出し音の後、明るい女性の声が聞こえた。
『もしもし? どうしたの?』
「真帆?」
『そうだけど。何?』
「今度、ご飯奢る」
『は? 急に怖いんだけど』
「いいから」
『宝くじでも当たった?』
「違う」
結衣は笑った。
「ありがとう」
電話の向こうが静かになった。
『……何が?』
「全部」
『意味分かんない』
「私も分かんない」
『何それ』
二人の笑い声が重なった。
電話を切った結衣は、直人と神崎へ深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
そして店を出ていく。
カラン、とベルが鳴った。
直人は閉まった扉を見ながら、しばらく何も言わなかった。
「記憶を消さなくても、救われることがあるんだな」
「記憶を消すことだけが、この店の仕事ではありません」
「でもさ」
直人はふと気になった。
「恐怖を弱くできるなら、他の感情もできる?」
「例えば?」
「誰かを好きって気持ちとか」
神崎の手が止まった。
「可能です」
「好きだったことだけ消して、思い出は残す?」
「正確には愛情を弱める、ですが」
「便利じゃん。失恋した奴とか全員それでいいだろ」
「そう単純ではありません」
「なんで?」
「愛情を失えば、記憶の意味そのものが変わるからです」
神崎は淡々と続けた。
「毎日会っていた。旅行へ行った。一緒に暮らした。指輪を渡した。そうした記憶から愛情だけを取り除けば、本人には『なぜ自分がそんなことをしたのか』分からなくなる場合があります」
「指輪……」
その言葉を聞いた瞬間だった。
直人の胸の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
「黒瀬さん?」
反射的に胸を押さえる。
病気の痛みではない。
もっと奇妙な感覚だった。
何か大切なものを思い出しかけている。
そんな感覚。
頭の中に、一瞬だけ映像が浮かぶ。
夜景。
テーブル。
小さな箱。
自分の手。
箱を開ける。
中には指輪。
そして向かい側に、誰かが座っている。
女。
顔が見えない。
『……遅いよ』
「え?」
直人は思わず声を漏らした。
次の瞬間、映像は消えた。
「どうしました?」
神崎が尋ねる。
「今……誰かに指輪渡してた」
神崎の表情が僅かに変わる。
「夢でも思い出したのでしょう」
「起きてるんだけど」
「記憶の査定を繰り返していると、他人の映像に引っ張られることがあります」
「俺の記憶じゃないってこと?」
「その可能性はあります」
神崎はそう言ったが、直人には納得できなかった。
あの手は自分の手だった。
そして何より、女の声を聞いた瞬間に感じた胸の痛み。
あれを他人の記憶だとは思えない。
「俺、昔誰かにプロポーズしたことあったのかな」
「私に聞かれても分かりません」
「……そうだよな」
直人は頭を掻いた。
自分の人生なのに、自分が知らない。
最近、そんなことばかりだった。
「今日は帰るわ」
「お疲れさまでした」
直人が扉へ向かう。
その途中、何気なくポケットへ手を入れた。
指先に硬いものが触れる。
「ん?」
取り出したのは、小さな銀色の鍵だった。
自宅の鍵ではない。
「こんなの持ってたっけ?」
鍵には小さな金属製のプレートがついている。
そこに二文字だけ刻まれていた。
『M・K』
何の鍵なのか分からない。
いつからポケットに入っていたのかも分からない。
それなのに。
捨てようと思った瞬間、直人の指が止まった。
胸の奥が、また痛んだ。
「……なんなんだよ」
結局、鍵をポケットへ戻した。
直人は知らない。
その鍵が、かつて自分が何百回も使った鍵であることを。
七年前まで、ある女性と一緒に暮らしていた部屋の鍵であることを。
そして、その女性の名前を――。
今の直人は、もう覚えていなかった。
◇
直人が帰った後。
神崎は店の奥にある引き出しを開けた。
中から一枚の古い写真を取り出す。
白衣姿の研究者たちが並んでいる集合写真だった。
若い頃の神崎もいる。
そして、その隣。
長い黒髪の女性が笑っている。
神崎は写真を裏返した。
研究員たちの名前が手書きで記されている。
その中の一つ。
『柊美咲』
「指輪まで……」
神崎は呟いた。
黒瀬直人から、美咲に関する記憶は確かに抜き取った。
そのはずだった。
名前も。
顔も。
一緒に過ごした時間も。
愛していたという感情さえも。
それなのに直人は、存在しないはずの記憶に反応し始めている。
神崎は写真を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「記憶は消せても……感情までは完全には消えない、か」
そして、棚の奥へ視線を向ける。
そこには例の黒い瓶があった。
『黒瀬直人/八年前/殺人』
神崎は立ち上がり、黒い瓶を手に取った。
「だとすれば……」
瓶の中で黒い液体が揺れる。
「こちらも、いずれ戻る」
一瞬だけ映像が浮かんだ。
雨の降る山中。
血まみれの女性。
地面に落ちたナイフ。
そして――。
『直人、逃げて!』
女性の叫び。
神崎はすぐに瓶を棚へ戻した。
「まだ駄目だ」
誰に言うでもなく呟く。
「あなたがあの日を思い出せば、すべてが始まってしまう」
店内の明かりが消える。
暗闇の中。
黒い瓶と、その隣に置かれた淡い青色の瓶だけが、微かに光っていた。
青い瓶のラベルには、こう書かれていた。
『黒瀬直人/柊美咲』
忘れたはずの女。
消したはずの感情。
それでも直人の中には、何かが残っていた。




