第3話 罪を忘れたい男
「人を殺した記憶は、いくらになりますか?」
店に入ってきた男の第一声が、それだった。
黒瀬直人は、思わず持っていた雑巾を落とした。
「……はい?」
男は四十代くらい。
紺色のスーツに、黒い革靴。
どこにでもいそうな会社員だった。
ただ一つ気になったのは、その顔だった。
ひどく疲れている。
目の下には濃いクマ。
頬も痩せていた。
「だから」
男はもう一度言った。
「人を殺した記憶です」
直人は店主を見る。
神崎宗一郎はいつもと変わらない表情だった。
「まずは、お掛けください」
男はカウンター席に座った。
「お名前を伺っても?」
「高木です」
「高木さん。人を殺した、というのは?」
「三年前です」
高木は自分の両手を見つめた。
「車で、人をはねました」
◇
三年前の十一月。
午後十一時過ぎ。
高木は仕事を終え、車で自宅へ向かっていた。
雨が降っていた。
場所は郊外の県道。
街灯も少ない。
「気づいた時には、目の前に人がいました」
高木の声は淡々としていた。
何百回も同じ話をしてきた人間の話し方だった。
「ブレーキを踏みました。でも、間に合わなかった」
男性は死亡。
二十九歳だった。
「警察の調べでは、私に重大な過失はないということになりました」
「だったら……」
直人が口を挟む。
「仕方なかったんじゃないの?」
高木が直人を見る。
「仕方ない?」
その目を見て、直人は言葉に詰まった。
「人が一人死んでるんですよ」
「……すみません」
「いえ」
高木は視線を落とした。
「警察にも言われました。避けるのは難しかったと」
だが、高木自身はそう思っていなかった。
「あの日、私は疲れていました」
連日の残業。
睡眠不足。
事故直前。
一瞬だけ、意識が飛んだ。
そんな記憶があるという。
「もし私がちゃんと前を見ていたら、あの人は死ななかった」
三年間。
その考えが頭から離れない。
仕事を辞めた。
車も手放した。
眠ろうとすると事故の瞬間が蘇る。
雨。
ヘッドライト。
男性の顔。
衝撃音。
「もう限界なんです」
高木は言った。
「だから、消してください」
「事故の記憶を?」
「全部です」
神崎はしばらく高木を見ていた。
「分かりました。まず査定しましょう」
◇
直人は、昨日と同じモニターの前に座っていた。
椅子には高木。
神崎が装置を取りつける。
「また俺が見るの?」
「それが仕事です」
「まだ二日目なんだけど」
「経験するのが一番早い」
「ブラック企業の言い分だな」
神崎は無視した。
「高木さん。準備はよろしいですか?」
「はい」
装置が起動する。
画面が白くなる。
そして――。
雨。
車のフロントガラス。
ワイパーが一定の速度で動いている。
午後十一時十二分。
高木は運転していた。
ラジオから女性の声。
道路には他の車がほとんどいない。
『疲れた……』
高木が呟く。
目を擦る。
直人は画面を見つめた。
「ここです」
椅子の上の高木が言った。
「この後、私は……」
映像が一瞬揺れる。
高木の目が閉じた。
次の瞬間。
ヘッドライトの中に男がいる。
『うわっ!』
急ブレーキ。
タイヤが滑る。
男の顔。
衝撃。
鈍い音。
画面が激しく揺れた。
「止めて!」
高木が叫んだ。
神崎が再生を止める。
荒い呼吸。
「……これです」
高木は震えていた。
「毎晩、これを見る」
直人も気分が悪くなっていた。
確かに、高木は事故直前に目を閉じている。
「査定額は?」
「事故そのものだけなら、十二万円程度でしょう」
「お願いします」
「待って」
直人が言った。
高木と神崎が見る。
「もう一回見せて」
「何をです?」
「事故」
高木の顔が強張る。
「嫌です」
「ごめん。でも、ちょっと気になる」
「何が?」
「分からない」
直人はモニターを指さした。
「だから確認したい」
神崎が直人を見る。
その表情がわずかに変わった。
「どこからです?」
「事故の十秒くらい前」
映像が巻き戻る。
ワイパー。
雨。
高木が目を擦る。
『疲れた……』
「ここ」
直人は画面へ近づく。
高木の目が閉じる。
一秒。
二秒。
そして、男性が現れる。
「……違う」
直人が呟いた。
「何が?」
「この人、歩いてない」
高木が顔を上げた。
「え?」
もう一度。
スロー再生。
道路脇。
ガードレールの横に男性が立っている。
高木の車が近づく。
その瞬間。
男性は道路へ飛び出した。
「……は?」
高木の口が開いた。
「もう一回」
再生。
男性は確かに車を確認している。
そして自分から車道へ。
「嘘だ」
高木が呟く。
「そんな……」
「もう少し前から」
直人が言う。
事故の三十秒前。
高木は運転している。
目は開いている。
前を見ている。
確かに疲れてはいる。
しかし居眠りしているようには見えない。
「でも俺……」
高木が混乱する。
「俺は寝てた」
「一瞬、目を閉じてる」
直人は答えた。
「でも、この人が飛び出したのはその直後だ」
「違う」
「何が?」
「俺は……」
高木は頭を押さえた。
「俺が前を見てなかったから……」
「警察は何て?」
「避けられなかったって」
「じゃあ、警察の調べとこの映像は一致してる」
高木は黙った。
神崎が口を開く。
「もう一つ、確認してみましょう」
事故直後。
車を降りる高木。
道路に倒れた男性。
『大丈夫ですか!』
高木が駆け寄る。
救急車を呼ぶ。
必死に男性へ声をかける。
その時。
倒れている男性の上着から、一枚の紙が落ちた。
「止めてください」
神崎が映像を拡大する。
紙には手書きの文字。
『家族へ』
高木の顔から血の気が引いた。
「……遺書?」
その後の警察資料でも、自殺の可能性は指摘されていた。
だが高木は、それを受け入れなかった。
「俺は……」
高木の目から涙が流れた。
「知ってた?」
「意識としては、受け入れていなかったのでしょう」
神崎が言う。
「そんなことあるんですか?」
「あります」
高木の中では、
『自分が疲れていた』
『一瞬目を閉じた』
『その直後に事故が起きた』
という三つの事実がつながった。
そして、
『自分の居眠りが人を殺した』
という一つの物語になった。
「でも……」
高木は首を振る。
「俺が殺したことに変わりない」
「そう思うなら、それもあなたの自由です」
神崎は淡々と言った。
「ただし」
モニターを見る。
「あなたが三年間苦しんできた記憶と、実際にあなたの脳に残っていた情報は、同じものではありません」
◇
「どうします?」
店へ戻った。
神崎が契約書を置く。
「予定通り、事故の記憶を買い取ることもできます」
高木は契約書を見ていた。
長い沈黙。
やがて。
「……やめます」
神崎が契約書を下げる。
「よろしいのですか?」
「忘れたら」
高木はゆっくり話す。
「俺はまた、自分を人殺しだと思う気がします」
直人は高木を見る。
「だから、覚えておきます」
「何を?」
「俺が前を見ていたことも」
高木は少しだけ笑った。
「それでも助けられなかったことも」
店を出る。
カラン。
ベルの音。
昨日の母親と同じだった。
結局、今日も記憶を買い取らなかった。
「この店、儲かってんの?」
直人が聞いた。
「ご心配なく」
「二日連続で売上ゼロじゃん」
「あなたの給料程度なら払えます」
「ならいいけど」
直人は椅子に座った。
だが頭の中では、先ほどの記憶が繰り返されていた。
「なあ、店主」
「はい」
「さっきの話」
「何でしょう」
「高木さん、本気で自分が居眠りして人を殺したと思ってたんだよな?」
「そうでしょうね」
「でも、実際に残ってた記憶は違った」
「正確には」
神崎が棚を整理しながら答える。
「脳に残っている情報と、本人が思い出す記憶が違った、ということです」
「同じじゃないの?」
「違います」
神崎は一本の瓶を手に取った。
「人間の記憶は、カメラではありません」
「……?」
「出来事をそのまま保存しているわけではない」
瓶の中の光が揺れる。
「人は思い出すたびに、記憶を作り直します」
「作り直す?」
「感情、思い込み、他人から聞いた話。その時の自分に都合のいい解釈」
「そういったものが少しずつ混ざる」
「じゃあ」
直人は言った。
「本人が百パーセント覚えてることでも、実際には起きてない可能性がある?」
「あります」
「例えば……」
直人は少し考える。
「誰かを殺した記憶があったとしても?」
神崎の手が止まった。
ほんの一瞬。
だが直人は見逃さなかった。
「……何?」
「いいえ」
神崎は瓶を棚へ戻す。
「理論上は、そうですね」
「ふーん」
直人は何気なく笑った。
しかし。
頭の奥。
また、あの映像が見えた。
暗い山。
雨。
血。
「っ……」
直人は額を押さえた。
「またか」
「どうしました?」
「この前と同じ」
血に濡れた手。
誰かが倒れている。
女。
顔が見えない。
直人は必死に思い出そうとする。
すると。
『直人』
女の声がした。
「……!」
映像が消える。
「誰だ……?」
「何が見えました?」
神崎が聞く。
「女」
直人は答えた。
「誰か分からない」
神崎の表情がわずかに強張る。
「血まみれだった」
「それ以上、思い出そうとしないでください」
「なんで?」
「脳が疲れているだけです」
「またそれ?」
直人は神崎を見る。
「店主」
「はい」
「俺に何か隠してない?」
「何も」
即答だった。
だからこそ怪しい。
直人は立ち上がる。
例の棚を見る。
一番奥。
黒い瓶。
昨日と同じ場所にある。
「あれ」
「触らないでください」
「まだ何も言ってないだろ」
「黒瀬さん」
神崎の声が低くなる。
「世の中には、忘れた方がいいこともあります」
「……なんだよ、それ」
「そのままの意味です」
直人は黒い瓶を見つめる。
あれを見ると胸がざわつく。
頭痛がする。
それなのに。
見なければならない気がする。
「じゃあさ」
直人は神崎を見る。
「もう一個だけ教えて」
「何でしょう」
「俺がここで売った記憶」
神崎の目を見る。
「本当に、俺自身の記憶だった?」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
「……もちろんです」
神崎は答えた。
だが。
その答えが少し遅れたことを、直人は見逃さなかった。
◇
深夜。
直人が帰った後。
神崎は一人、店の奥にいた。
机の上には黒い瓶。
『黒瀬直人/八年前/殺人』
神崎はそれを装置へつないだ。
モニターに映像が現れる。
山道。
雨。
血。
倒れている女性。
その前に立つ直人。
右手にはナイフ。
神崎は映像を止めた。
直人の顔を拡大する。
「記憶とは、事実ではない……」
神崎が呟く。
そして。
「あなた自身が、それを証明している」
画面の中。
血まみれの女性の唇が動く。
『直人……』
映像が乱れた。
その一瞬だけ。
別の映像が重なる。
同じ山。
同じ女性。
同じ直人。
しかし――。
直人の右手には、
ナイフがなかった。
神崎はすぐに再生を止める。
黒い瓶を外し、棚の最奥へ戻した。
「まだ早い」
店の明かりを消す。
暗闇の中。
黒い瓶だけが静かに揺れていた。
そこに保存されているものが、
本当に黒瀬直人の記憶なのか。
それとも――。
誰かによって作られた「物語」なのか。
その答えを知っているのは、まだ神崎だけだった。




