第2話 娘の最後の一日
翌朝。
黒瀬直人は、財布の中に入っている札束を見て首を傾げていた。
「……二十五万」
何度数えても同じだった。
十万円でもない。
二十万円でもない。
二十五万円。
昨日まで銀行口座には二千八百四十三円しかなかった。
それが一晩で二十五万円増えた。
もちろん、金の出所は分かっている。
昨夜、路地裏で見つけた奇妙な店。
『記憶、買い取ります』
あそこで自分は何かを売った。
その対価として二十五万円を受け取った。
そこまでは覚えている。
問題は――。
「何売ったんだ、俺……」
直人はベッドに寝転んだ。
思い出そうとしても分からない。
何か大切なものだった気がする。
しかし、それが何だったのかを考えようとすると、頭の中に真っ白な穴があるような感覚になる。
「まあ……忘れるために売ったんだから、当たり前か」
直人は考えるのをやめた。
家賃を振り込み、滞納していた支払いを済ませる。
それでも十万円以上が残った。
久しぶりにまともな食事でもしよう。
そう考えていた時だった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
知らない番号。
「はい?」
『黒瀬直人さんでしょうか』
聞き覚えのある声だった。
「……誰?」
『昨夜の店の者です』
「ああ」
あの老人だ。
『少し、お話したいことがあります』
「また記憶売れって?」
『いいえ』
老人は言った。
『働いてみませんか?』
「……は?」
◇
夜。
直人は再び、あの路地に立っていた。
『記憶、買い取ります』
やはり看板はある。
昨夜の出来事は夢ではなかった。
扉を開ける。
カラン。
「いらっしゃいませ」
老人は昨日と全く同じ場所に座っていた。
「本当に来られるとは思いませんでした」
「電話してきたの、そっちだろ」
「それもそうですね」
老人が微笑む。
直人はカウンター席へ座った。
「それで、仕事って?」
「簡単な助手です」
「助手?」
「受付、清掃。それから記憶査定の補助」
「俺、何の知識もないけど」
「必要ありません」
老人は直人を見る。
「あなたには適性があります」
「適性?」
「いずれ分かります」
またそれだ。
この老人は、質問にまともに答える気がないらしい。
「そういや、名前聞いてなかったな」
「神崎です」
「下は?」
「宗一郎」
「神崎さんね」
「店主で結構ですよ」
「時給は?」
神崎が金額を告げる。
直人は一瞬黙った。
「……やる」
「即答ですね」
「今の俺に仕事選んでる余裕ないから」
「では、今日からお願いします」
「今日から?」
その時だった。
カラン。
入口のベルが鳴った。
一人の女性が入ってきた。
四十代くらいだろうか。
顔色が悪い。
痩せている。
両手で古びた子供用のリュックを抱えていた。
「あの……」
女性は震える声で言った。
「ここで、記憶を消してもらえるって聞いたんですけど」
直人と神崎が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
神崎が立ち上がった。
「どうぞ、お掛けください」
女性は直人の隣へ座った。
膝の上に置かれたリュックには、小さなウサギのキーホルダーがついている。
「どのような記憶をご希望ですか?」
神崎が尋ねる。
女性はしばらく答えなかった。
リュックを強く握る。
そして言った。
「娘が死んだ日の記憶を……全部、消してください」
直人は女性を見た。
◇
女性の名前は水野恵子。
四十三歳。
一年前、当時七歳だった娘・莉奈を交通事故で亡くしていた。
「毎日、思い出すんです」
恵子は俯いたまま話した。
「あの日の朝のことを」
娘と喧嘩した。
朝食を食べるのが遅い。
学校へ遅刻する。
何度言っても支度をしない。
些細なことだった。
だが恵子は仕事のことで苛立っていた。
『いい加減にしなさい!』
娘を怒鳴った。
莉奈も言い返した。
『ママなんか嫌い!』
それが、最後の会話だった。
莉奈はその日の下校途中、交差点で車にはねられた。
即死だった。
「最後に娘に言った言葉が……『いい加減にしなさい』なんです」
恵子の声が震える。
「娘が最後に私へ言った言葉は、『ママなんか嫌い』」
直人は何も言えなかった。
「一年間、毎日考えました」
もっと優しくしていれば。
抱きしめていれば。
笑って送り出していれば。
「もう……疲れたんです」
恵子はリュックを抱きしめた。
「だから、忘れたい」
神崎は黙って聞いていた。
「分かりました」
立ち上がる。
「査定しましょう」
◇
奥の部屋。
昨日、直人自身が座った椅子に恵子が座っている。
神崎が器具を取りつける。
「俺は?」
「こちらへ」
直人は隣のモニターの前へ座らされた。
「査定補助として記憶を確認してください」
「他人の記憶を見るのか?」
「本人の許可はいただいています」
恵子が小さく頷く。
「お願いします」
神崎が装置を起動する。
モニターに映像が現れた。
朝の台所。
小さな女の子がパンを食べている。
『莉奈! 早くしなさい!』
恵子の声。
『食べてるもん!』
『もう八時になるでしょ!』
『分かってる!』
普通の親子喧嘩。
どこの家庭でもありそうな光景だ。
だからこそ、直人には苦しかった。
この数時間後に少女が死ぬことを知っているから。
『毎朝毎朝、いい加減にしなさい!』
母親が怒鳴る。
莉奈が立ち上がる。
『ママなんか嫌い!』
ランドセルを背負い、玄関へ向かう。
バタン。
扉が閉まった。
「ここです」
椅子の上の恵子が言った。
「これが……最後です」
涙が頬を伝っている。
直人はモニターを見ていた。
胸が苦しい。
しかし。
「……待って」
直人は画面へ顔を近づけた。
「今、何か……」
「どうしました?」
神崎が聞く。
「いや」
直人自身にも分からない。
映像が終わる直前。
玄関付近で何か動いた気がした。
「少し戻せる?」
神崎が操作する。
莉奈が玄関を出る。
バタン。
「もうちょっと先」
数秒進む。
誰もいない廊下。
恵子は台所で食器を洗っている。
その時。
玄関の扉が、ほんの少し開いた。
「……ほら」
莉奈だった。
忘れ物でもしたのだろうか。
少女は靴を脱がず、家の中を覗いている。
恵子からは死角。
だから母親本人は気づいていない。
『ママ』
小さな声。
食器を洗う音で聞こえない。
莉奈は少しだけ迷った。
そして。
『さっきはごめんね』
恵子の表情が変わった。
『ママ、大好きだからね』
少女はそう言って笑った。
扉を閉める。
今度こそ、本当に出ていった。
部屋が静まり返った。
「……嘘」
恵子の唇が震えている。
「私……知らない」
神崎が言った。
「当然です」
「だって……こんなの、覚えてない」
「あなたは聞いていませんから」
恵子がモニターを見る。
「では、どうして記憶に?」
「人間は意識しているものだけを記憶しているわけではありません」
神崎は答えた。
「視界の端。小さな音。匂い。本人が意識しなかった情報も、脳には残っていることがあります」
「莉奈……」
恵子が泣き崩れた。
「大好きって……」
何度も繰り返す。
直人は黙っていた。
最初に見た時。
この女性にとって、あの日は人生で最も消したい一日だった。
だが今は違う。
最も消したくない一日になっている。
◇
「どうされますか?」
店へ戻り、神崎が尋ねた。
「予定通り、記憶を買い取ることもできます」
恵子は長い間黙っていた。
やがて首を横に振る。
「やめます」
リュックを抱きしめる。
「消しません」
「よろしいのですか?」
「はい」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも恵子は笑った。
「苦しいです」
「たぶん明日も苦しいと思います」
「これからもずっと、後悔すると思います」
それでも。
「持って帰ります」
神崎が小さく頭を下げる。
「承知しました」
恵子は立ち上がった。
店を出る直前、直人へ頭を下げる。
「ありがとうございました」
「俺は何も」
「あなたが止めてくれなかったら、気づかなかったから」
扉が閉まる。
カラン。
店内に静寂が戻った。
直人はしばらく入口を見つめていた。
「なあ、店主」
「はい」
「変な商売だな」
「よく言われます」
「記憶を買う店なのに、客に売るのやめさせてどうすんだよ」
「私は止めていませんよ」
「似たようなもんだろ」
神崎は微笑む。
直人は先ほどの母親を思い出した。
「忘れたら楽になるとは限らないんだな」
「ええ」
「辛い記憶の中にも、大事なものがある」
「そうですね」
直人は何気なく、自分の頭に触れた。
昨日。
自分も何かを売った。
二十五万円もの値段がついた記憶。
それほど強い感情が結びついていたということだ。
「……俺は」
直人が呟く。
「何を忘れたんだろうな」
神崎は答えなかった。
直人は笑う。
「まあ、忘れたかったんだから別にいいか」
「黒瀬さん」
「ん?」
珍しく神崎から声をかけてきた。
「一つ、覚えておいてください」
「何?」
「記憶を失うことと、過去がなくなることは違います」
直人は眉をひそめる。
「どういう意味?」
「そのうち分かります」
「またそれかよ」
直人は呆れて笑った。
その時。
店の奥から、小さな音が聞こえた。
カタン。
「……何?」
「気にしないでください」
神崎がすぐに答えた。
だが直人は気づいた。
音がしたのは、壁一面に並ぶ記憶瓶の棚。
その一番奥だった。
直人が近づく。
「黒瀬さん」
神崎の声が少し強くなる。
「触らないでください」
直人の足が止まった。
棚の奥。
他の瓶に隠れるように、一本だけ黒い瓶がある。
ラベルの文字までは見えない。
ただ。
なぜだろう。
その瓶を見た瞬間。
直人の心臓が大きく跳ねた。
ドクン。
「……なんだ?」
一瞬だけ。
頭の中に映像が走った。
暗い山。
雨。
誰かの悲鳴。
そして――。
血に濡れた自分の右手。
「っ……!」
直人は頭を押さえた。
「大丈夫ですか?」
「今……何か見えた」
「疲れているのでしょう」
神崎が直人と棚の間に立つ。
「今日は帰ってください」
「でも」
「黒瀬さん」
神崎の目から、いつもの穏やかさが消えていた。
「帰ってください」
直人は何も言えなかった。
「……分かったよ」
上着を取り、店を出る。
カラン。
扉が閉まった。
神崎はしばらく動かなかった。
直人の足音が完全に聞こえなくなってから、棚へ向かう。
奥の黒い瓶を取り出した。
ラベルには名前が書かれている。
『黒瀬直人』
そして。
『八年前――殺人』
神崎は瓶を握ったまま、小さく呟いた。
「やはり……反応したか」
黒い液体の中で、一瞬だけ映像が揺れた。
暗い山道。
血。
ナイフ。
そして女の声。
『直人――』
神崎はすぐに瓶を棚の奥へ戻した。
「まだ思い出してはいけない」
店内の明かりが消える。
暗闇の中。
黒い瓶だけが、微かに光っていた。




