第1話 忘れたい記憶
黒瀬直人は、ATMの画面を見たまま動けなくなっていた。
残高、二千八百四十三円。
「……マジかよ」
思わず声が漏れる。
家賃の支払いは三日後。
スマートフォンには、未払い料金の案内や支払いを催促する通知が並んでいる。
財布を開く。
千円札が一枚。
あとは小銭だけ。
三十五歳。
独身。
仕事は、ない。
正確に言えば、少し前までは働いていた。
だが人間関係で揉めて会社を辞め、その後は短期の仕事を転々としていた。
貯金を切り崩して生活しているうちに、気づけばこの有り様だ。
「終わってんな……俺」
直人はATMを離れた。
時刻は午前零時を過ぎている。
小雨が降っていた。
駅前の繁華街にはまだ人が多い。
酔っ払い。
楽しそうなカップル。
仕事帰りらしい会社員。
自分以外の全員が、まともな人生を送っているように見えた。
直人は人混みを避けるように、大通りから一本外れた路地へ入った。
普段なら通らない道だった。
街灯も少なく、古びた雑居ビルが並んでいる。
「明日……どうすっかな」
誰に聞かせるでもなく呟いた、その時だった。
直人は足を止めた。
路地の奥に、小さな店があった。
古い木製の扉。
曇ったガラス。
窓の上には、小さな白い看板が掛かっている。
そこには黒い文字で、こう書かれていた。
『記憶、買い取ります』
「……は?」
直人は目を細めた。
質屋か何かだと思った。
だが、何度見ても「記憶」と書かれている。
「怪しすぎるだろ」
そのまま通り過ぎようとした。
だが看板の下に、さらに小さな文字があることに気づく。
『査定無料・即日現金』
「現金……」
足が止まった。
今の直人にとって、「即日現金」という四文字には、怪しさを上回る力があった。
「見るだけなら……タダだしな」
自分に言い聞かせるように呟き、扉へ手をかける。
カラン。
乾いたベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
店の奥から声がした。
薄暗い店内。
壁一面に棚があり、その棚には小さなガラス瓶が無数に並んでいる。
瓶の中には透明な液体のようなものが入っていた。
よく見ると、それぞれが淡く光っている。
青。
白。
紫。
中には、ほとんど黒に近いものもある。
「……なんだ、これ」
「お気になさらず」
カウンターの向こうに、一人の老人が座っていた。
六十代くらいだろうか。
白髪を綺麗に後ろへ流し、黒いシャツを着ている。
穏やかな表情。
しかし、なぜか目だけは笑っていない。
「初めてのお客様ですね」
「ああ……まあ」
「本日は、どのようなご用件でしょう」
「いや」
直人は入口を指さした。
「記憶を買うって、あれ何?」
「そのままの意味です」
老人は答えた。
「お客様の記憶を査定し、買い取らせていただきます」
直人は数秒黙った。
そして笑った。
「いやいやいや」
「何か?」
「記憶なんて売れるわけないだろ」
「そう思われる方がほとんどです」
老人は動じない。
「では、こちらをご覧ください」
一枚の紙が差し出された。
直人は受け取る。
査定価格表。
そこには、奇妙な項目が並んでいた。
初恋――五千円から。
成功体験――千円から。
失恋――三万円から。
裏切り――十万円から。
家族との死別――三十万円から。
重大犯罪――要査定。
「……嫌な記憶の方が高いんだな」
「ええ」
老人は頷いた。
「楽しい記憶を手放したい方は、ほとんどおりませんので」
「売ったらどうなる?」
「忘れます」
「忘れる?」
「完全に」
老人は自分の頭を指した。
「記憶そのものが、お客様の中からなくなります」
「そんなことできるわけ――」
「試してみますか?」
直人は言葉を止めた。
老人は微笑んでいる。
冗談には見えなかった。
「査定だけなら無料です」
「……査定だけ?」
「お気に召さなければ、売る必要はありません」
直人はもう一度、価格表を見る。
裏切り、十万円。
失恋、三万円。
死別、三十万円。
頭の奥に、一人の女性が浮かんだ。
長い黒髪。
よく笑う女だった。
「……例えばさ」
「はい」
「昔の恋人とかでもいいの?」
「もちろんです」
直人は口を閉じた。
七年前。
直人には、婚約していた女性がいた。
名前は美咲。
大学を卒業した頃に知り合い、付き合い始めた。
何度も喧嘩した。
何度も別れかけた。
それでも七年近く一緒にいた。
直人は本気で、美咲と結婚するつもりだった。
いや。
結婚するものだと思っていた。
指輪まで買った。
式場の資料も集めていた。
ところがある日。
美咲は突然いなくなった。
電話はつながらない。
部屋も引き払われていた。
家族へ連絡しても、
「こちらにも連絡がない」
と言われた。
警察にも相談した。
友人にも聞いた。
それでも見つからなかった。
最後に残っていたのは、一通のメッセージだけだった。
『ごめんなさい。もう会えません』
理由は書かれていなかった。
浮気なのか。
嫌われたのか。
何か事件に巻き込まれたのか。
七年間。
直人は答えを探し続けた。
だが、何も分からなかった。
「……そういう記憶も買うの?」
「査定できます」
「じゃあ、頼む」
「かしこまりました」
老人は立ち上がる。
「こちらへ」
奥の部屋へ通された。
そこには歯医者で使うような椅子と、見たことのない機械が置かれていた。
「座ってください」
「なんか怖いな」
「痛みはありません」
直人は椅子に腰掛けた。
老人が頭に金属製の器具を取りつけていく。
「査定したい人物のお名前を」
「美咲」
「名字は?」
「……柊。柊美咲」
老人の手が、一瞬止まった。
「どうした?」
「いえ」
すぐに作業を再開する。
「では、目を閉じてください」
直人は目を閉じた。
低い機械音。
その瞬間。
視界が白く染まった。
美咲がいる。
初めて会った日の美咲。
『黒瀬さんって、思ってたより喋る人なんですね』
『それ悪口?』
『褒めてます』
美咲が笑う。
次の場面。
二人で海を見ている。
美咲が靴を脱ぎ、波打ち際を走っている。
『直人! 早く!』
また場面が変わる。
狭い部屋。
喧嘩。
『もう知らない!』
『こっちのセリフだ!』
扉が閉まる。
そして十分後。
『コンビニ行くけど、アイスいる?』
『……いる』
直人は椅子の上で、わずかに笑った。
次。
夜景の見えるレストラン。
震える手で指輪を出す自分。
『美咲』
『……なに?』
『結婚してほしい』
美咲の目から涙が落ちる。
『遅い』
『は?』
『待ってたのに』
最後。
スマートフォン。
『ごめんなさい。もう会えません』
そこで映像が止まった。
直人は目を開ける。
頬が濡れていた。
「査定が終わりました」
老人が言った。
「二十五万円です」
「……二十五?」
直人は思わず聞き返した。
「そんなになるの?」
「非常に強い感情が結びついております」
「二十五万……」
家賃を払える。
当面の生活費にもなる。
頭では分かっている。
だが美咲との記憶を金に換える。
そう考えると、急に怖くなった。
「嫌なことだけ消せない?」
「難しいですね」
「最後にいなくなったところだけとか」
老人は首を横に振った。
「記憶は一本の糸のようにつながっています」
「糸?」
「一部分だけ切れば、別の部分まで崩れる場合があります」
「じゃあ……」
「柊美咲さんに関する記憶を、すべて買い取ることになります」
「全部……」
初めて会った日も。
笑った顔も。
喧嘩も。
旅行も。
プロポーズも。
全部。
「やめますか?」
老人が尋ねた。
直人は黙った。
美咲がいなくなってから七年。
何度思い出しただろう。
何度、
どうして。
なぜ。
自分の何が悪かった。
と考えただろう。
そして今。
自分の銀行残高は二千八百四十三円。
美咲は戻ってこない。
思い出だけを抱えていても、何も変わらない。
「……売る」
老人は直人を見る。
「よろしいのですね?」
「ああ」
「一度失った記憶は、原則として元には戻せません」
「分かった」
老人は数秒、直人の顔を見ていた。
「では、始めます」
機械が動き始める。
美咲との記憶が、今度は逆向きに流れていく。
『ごめんなさい。もう会えません』
文字が消える。
プロポーズ。
指輪。
美咲の涙。
消える。
旅行。
喧嘩。
笑顔。
消える。
初めて手をつないだ夜。
消える。
最後に。
初めて出会った日の美咲。
『黒瀬さん』
美咲が笑っている。
『また会えますよね?』
直人は答えようとした。
だが声が出ない。
美咲の姿が、白い光に飲み込まれていく。
そして。
何もなくなった。
「……終わりました」
声に目を開ける。
老人がいる。
直人は瞬きをした。
「何が?」
「記憶の買取です」
「ああ……」
そうだった。
何かを売りに来た。
しかし。
「俺、何売ったんでしたっけ?」
老人は答えなかった。
代わりに、封筒を差し出した。
中には現金二十五万円。
「うわ……マジで入ってる」
直人は札を数える。
不思議なくらい気分が軽い。
「なんか得した気分だな」
「そうですか」
「また来るかも」
「お待ちしております」
店を出る。
雨はほとんど止んでいた。
直人は封筒をポケットへ入れる。
「とりあえず家賃払って……」
その時。
ドン。
一人の女性と肩がぶつかった。
「あ、すみません」
女性が振り返る。
三十代くらい。
長い黒髪。
直人はその顔を見た。
胸が痛んだ。
「……え?」
呼吸が止まる。
女性は不思議そうに直人を見る。
「大丈夫ですか?」
「いや……」
頬に何かが流れた。
指で触れる。
涙だった。
「は?」
直人自身が一番驚いていた。
「なんで……」
女性も一瞬、何か言いたそうな顔をした。
だが、そのまま頭を下げる。
「失礼します」
女性は歩き去っていった。
直人は、その背中を見つめ続けた。
知らない女。
そのはずだった。
なのに。
胸の奥が、どうしようもなく苦しかった。
店の中。
老人は一人、先ほどの機械から小さなガラス瓶を取り外していた。
淡い青色に光る液体。
ラベルへ文字を書く。
『黒瀬直人/柊美咲/七年間』
老人は瓶を棚へ置く。
そして、棚のさらに奥へ手を伸ばした。
一番奥。
他の瓶とは違う。
黒い液体が入った瓶。
そこにも名前が書かれていた。
『黒瀬直人』
日付。
八年前。
そして内容。
『殺人』
老人は黒い瓶を見つめた。
「まさか、またここへ来るとは」
瓶の中で、映像が揺れる。
暗い山道。
血まみれで倒れている女。
その前に立つ男。
黒瀬直人。
右手には、血のついたナイフ。
老人は小さく息を吐いた。
「あなたは、これも忘れている」
倒れている女性の顔が、ほんの一瞬だけ映った。
柊美咲だった。
老人は黒い瓶を棚へ戻す。
「さて」
誰もいない店内で、老人は呟く。
「今回は、どこまで思い出すのでしょうね」
店の外では、雨が再び降り始めていた。




