第6話 100万円の記憶
その日の記憶買取店は、珍しく客足が途絶えていた。
黒瀬直人はカウンターの内側に座り、何度目か分からない欠伸を噛み殺していた。店に置いてある古い時計を見ると、時刻は午後十一時を少し過ぎたところだった。
「なあ、店主」
「何でしょう」
「この店って、営業時間どうなってんの?」
神崎宗一郎は棚に並んだ記憶瓶を一つずつ確認しながら、振り返りもせず答えた。
「特に決めていません」
「いや、それ店としてどうなんだよ」
「来るべき人が来る時間に開いています」
「何その占い師みたいな答え」
直人は呆れながら椅子にもたれた。
ここ数日で、直人は少しずつこの場所に慣れ始めていた。
記憶を売るという非常識な商売。
人間の脳から記憶を取り出し、瓶の中へ保存する技術。
そして、自分自身から抜け落ちている過去。
初めは何もかもが理解できなかった。
今も理解できているわけではない。
それでも、毎日のように他人の記憶を見るうちに、少なくとも一つだけ分かってきたことがある。
人間は、自分が思っているほど自分のことを知らない。
交通事故を起こした男は、事実とは違う罪を背負っていた。
妻に裏切られたと思い込んでいた男は、都合の悪い説明を自分の中から追い出していた。
そして自分もまた、知らない女の名前を突然思い出した。
美咲。
なぜその名前を知っているのか。
なぜ口にすると胸が苦しくなるのか。
神崎は何も教えようとしない。
「店主」
「今度は何でしょう」
「美咲って女、本当に知らない?」
棚を整理していた神崎の手がほんの一瞬止まった。
「以前もお答えしました」
「知らない?」
「はい」
「……嘘つく時、ちょっと間あるよな」
「気のせいです」
「絶対何か知ってるだろ」
「黒瀬さん」
「はいはい。今は話せません、だろ」
先回りして言うと、神崎は何も答えなかった。
その時だった。
カラン。
入口のベルが鳴った。
直人は反射的に姿勢を正す。
一人の男が店へ入ってきた。
三十代後半くらいだろうか。
明るい茶色に染めた髪。高そうなジャケット。首元には太いシルバーのネックレス。左手には大きな腕時計。
この店に来る客は疲れ切った顔をしていることが多い。
だが、この男は違った。
周囲を警戒するように何度も後ろを振り返りながら、素早く扉を閉めた。
「ここでいいんだよな」
男は店内を見回す。
「記憶を買ってくれる店」
神崎がカウンターへ戻る。
「はい。どのような記憶でしょうか」
「長い話はいらない」
男はカウンターへ近づき、両手を置いた。
「昨日の夜八時から十時まで」
「二時間ですか」
「そう」
「その二時間だけを消したい?」
「違う」
男はわずかに苛立ったように眉を寄せた。
「買い取ってくれればそれでいい。俺の頭からなくなれば、あとはどうでもいい」
直人は男を見る。
「その二時間に何があったんです?」
男の目が直人へ向く。
「聞く必要ある?」
「査定には必要だろ」
「お前、店員?」
「一応」
男は鼻で笑い、再び神崎を見る。
「とにかく査定してくれ。金はいくらでもいい」
「通常はこちらがお支払いする側ですが」
「分かってる」
「では、奥へ」
神崎は男を処置室へ案内した。
直人もいつものようにモニターの前へ座る。
「お名前は?」
「森崎」
「下のお名前もお願いします」
「圭吾」
神崎が装置を準備する。
森崎は落ち着かない様子で足を何度も動かしていた。
「昨日午後八時から十時まで。その範囲で間違いありませんか?」
「ああ」
「何が映っていても、途中で停止を希望される場合はすぐお申し付けください」
「分かったから早くしてくれ」
装置が起動する。
画面が白くなり、やがて映像が現れた。
◇
午後七時五十八分。
高層マンションのエントランス。
森崎がエレベーターに乗る。
画面には二十六階。
直人はモニターを見ながら尋ねた。
「ここ、自宅?」
椅子に座っている森崎は答えない。
エレベーターが止まる。
廊下。
森崎は一室の前へ向かい、インターホンを鳴らした。
すぐに扉が開く。
『遅かったな』
男の声。
中へ入る。
広いリビング。
テーブルの上に酒とグラス。
もう一人、四十代くらいの男が座っていた。
顔にはどこか見覚えがあるような気もしたが、直人には思い出せない。
『金は?』
森崎が尋ねる。
『そこ』
男が鞄を指す。
森崎が開く。
中には札束。
「すご……」
直人が思わず呟く。
神崎は黙って映像を見ている。
『約束通りだ』
『これで全部だな?』
『ああ』
『データは?』
『消した』
『本当に?』
『疑うなら自分で確認しろよ』
森崎が男へ近づく。
空気が険悪になる。
『もし残ってたら俺まで終わるんだぞ』
『知るかよ』
『お前が言い出した話だろ!』
男が立ち上がる。
『声でけえんだよ』
『ふざけんな!』
森崎が男の胸ぐらを掴んだ。
次の瞬間。
男が森崎を突き飛ばす。
森崎がテーブルへぶつかる。
グラスが床へ落ち、割れる。
「おい……」
直人は画面へ身を乗り出した。
揉み合い。
互いに殴る。
男が森崎を押す。
森崎が反射的に腕を振り払う。
男の身体がよろける。
そして――。
ゴッ。
鈍い音がした。
男の後頭部がテーブルの角に当たった。
床へ倒れる。
動かない。
画面の中の森崎が固まっている。
『……おい』
返事はない。
『おい!』
森崎が近づき、男の肩を揺らす。
その手を離した瞬間。
床に赤いものが広がっていることに気づいた。
血。
「……マジかよ」
直人の声が小さくなる。
森崎の呼吸が荒くなる。
『違う』
画面の中で呟いている。
『俺じゃない』
男の頭の下から血が広がっていく。
『俺は……』
森崎が後退する。
その時、スマートフォンが鳴った。
着信名は表示されていない。
森崎は震える手で電話に出る。
『どうした?』
電話の向こうから男の声。
森崎は答えない。
『森崎?』
『……死んだ』
『何?』
『あいつ……頭打って』
電話の向こうが一瞬静かになる。
『そこから出ろ』
『でも』
『いいから出ろ。何も触るな』
『俺がやった』
『違う。事故だ』
『警察に』
『馬鹿か!』
強い声。
『警察に行ったら、何でそこにいたか全部話すことになるぞ』
森崎が黙る。
電話の向こうの男は続けた。
『データも金も全部置いて出ろ。後はこっちでやる』
『でも』
『早くしろ!』
そこで。
「止めろ!」
現実の森崎が叫んだ。
神崎がすぐに再生を停止する。
部屋が静かになる。
森崎は全身に汗をかいていた。
「もういい」
「まだ午後八時半ですが」
「十分だろ」
「査定対象は二時間とのことでした」
「そこまで見なくていい!」
森崎が器具を外そうとする。
「やめる。売らない」
直人は驚いた。
「え?」
「帰る」
「ちょっと待てよ」
森崎は椅子から立ち上がる。
「何だよ」
「人、死んでるだろ」
「だから何だ」
「だから何だって……」
直人も立ち上がった。
「警察行ったの?」
「お前に関係ない」
「関係ないって、今俺ら見たんだぞ」
「記憶を買う店なんだろ?」
「そうだけど」
「だったら黙ってろよ」
森崎の目が鋭くなる。
「客の記憶を警察に売る店なのか?」
直人は言葉に詰まった。
森崎は乱暴に扉を開け、店の出口へ向かう。
「待ってください」
神崎が声をかけた。
森崎が振り返る。
「査定結果だけお伝えします」
「いらない」
「およそ百万円です」
森崎の動きが止まった。
直人も神崎を見る。
「百?」
「はい」
「昨日までの客と桁違うじゃん」
「犯罪に関連する強い記憶は高額になります」
森崎は数秒だけ考えていた。
だが。
「いらない」
「本当に?」
「その記憶を消したら、逆に何されたか分からなくなる」
直人は眉をひそめた。
「何された?」
「何でもない」
森崎は扉を開けた。
カラン。
そのまま夜の街へ消えていった。
◇
「追わなくていいのか?」
直人は店を出ようとしたが、神崎に止められた。
「何をするつもりです?」
「警察」
「何を伝えるのですか?」
「人が死んでるって」
「どこの誰が?」
「さっきのマンションで」
「住所は?」
「……分からない」
「死亡した人物の名前は?」
「それも……」
「森崎さんの記憶を見た、と警察に説明しますか?」
「それは」
「記憶を証拠として提出できると思いますか?」
直人は黙る。
腹が立った。
理屈では神崎の言うことも分かる。
だが納得はできない。
「でも、人一人死んでる」
「そうですね」
「そうですね、じゃないだろ!」
思わず声が大きくなる。
「俺たちは今、犯罪見たんだぞ」
「事故かもしれません」
「逃げてるじゃん」
「それも事実です」
「だったら」
「黒瀬さん」
神崎の声は落ち着いていた。
「この店には、他人には言えない記憶を抱えた人間が来ます」
「だから?」
「我々が記憶を見た瞬間に警察へ通報する店なら、誰もここには来なくなる」
「犯罪者まで守るのかよ」
「守ってはいません」
「同じだろ」
「違います」
神崎は直人を見る。
「私は記憶を買う人間です。裁判官ではありません」
「それでいいのか?」
「良いか悪いかの話ではありません」
直人は奥歯を噛んだ。
「正義を売ってる店じゃないってこと?」
「ええ」
以前、神崎が言った言葉。
今なら、その意味が少しだけ分かった。
だが。
「俺は納得できない」
「構いません」
「え?」
「あなたが納得する必要はありません」
神崎はそう言って、何事もなかったかのように装置を片づけ始めた。
「なんか腹立つな、あんた」
「よく言われます」
「絶対言われてないだろ」
◇
翌朝。
直人は自宅のテレビをつけたまま、コンビニで買ったパンを食べていた。
昨夜のことが頭から離れない。
森崎圭吾。
マンション。
血まみれの男。
そして電話の向こうの声。
「後はこっちでやる……か」
何者だったのだろう。
その時。
『次のニュースです』
テレビのアナウンサーの声。
直人は何気なく画面を見る。
『昨日深夜、市内の高層マンションの一室で、男性が死亡しているのが発見されました』
手にしていたパンが止まった。
「……え?」
画面が切り替わる。
マンションの外観。
「ここ……」
昨夜の記憶で見た建物だった。
『死亡していたのは、この部屋に住む会社経営者の男性で、警察は――』
直人はテレビへ近づく。
死亡推定時刻。
昨夜八時から九時頃。
後頭部に強い衝撃。
「間違いない」
森崎の記憶。
あの男だ。
しかし、ニュースはさらに続いた。
『室内に荒らされた形跡はなく、警察は男性が転倒した可能性もあるとみて――』
「転倒?」
直人は眉をひそめた。
揉み合っていた。
森崎がいた。
それなのに警察は、第三者がいたとは言っていない。
指紋も。
監視カメラも。
何も残っていないのか。
直人はスマートフォンを掴む。
神崎へ電話をかけた。
『はい』
「ニュース見た?」
『何のことでしょう』
「昨日の男!」
直人はテレビの内容を説明する。
神崎はしばらく黙っていた。
『そうですか』
「そうですかじゃないだろ。やっぱり死んでたんだよ」
『ええ』
「しかも事故扱いになりそうだ」
『現時点では、でしょう』
「森崎以外に誰かいる」
『なぜそう思うのです?』
「電話だよ」
昨日の記憶。
『後はこっちでやる』
その言葉が頭に残っている。
「あいつが何かしたんじゃないか?」
『可能性はあります』
「警察に――」
『黒瀬さん』
神崎が遮る。
『昨日お話ししました』
「でも」
『あなたが見たものが、全て事実だという保証はありません』
直人の言葉が止まる。
「……またそれか」
『記憶とは事実ではありません』
「でも今回は映像そのものだろ」
『柴田さんの時も、映像そのものは正しかった』
「……」
『意味を間違えていたのは、見る側です』
「じゃあ森崎の記憶も何か違うって?」
『分かりません』
「便利な言葉だな、それ」
直人は電話を切った。
◇
その夜。
直人が店へ行くと、神崎はいつも通り棚を整理していた。
「森崎、来てない?」
「来ていません」
「連絡は?」
「ありません」
直人はカウンターへ座る。
「昨日の記憶、残ってる?」
「査定のみなので保存はしていません」
「もう一回見たかったんだけど」
「無理ですね」
直人はため息をついた。
その時。
入口の外に、人影が見えた。
「ん?」
擦りガラス越し。
誰かが立っている。
直人が扉へ向かう。
「黒瀬さん」
神崎が止める。
「何?」
「開けないでください」
直人は振り返る。
神崎の表情が、いつもより硬い。
外の人影。
動かない。
「知り合い?」
「いいえ」
「じゃあ何で」
次の瞬間。
人影が離れた。
直人はすぐ扉を開ける。
「おい!」
路地へ出る。
しかし誰もいない。
「……早っ」
地面を見る。
一枚の紙が落ちていた。
拾う。
「何これ」
何かの企業広告。
いや。
名刺に近い。
白いカードの中央に、見覚えのないロゴが印刷されている。
その下。
英字。
『MNEMOSYNE』
「ムネ……?」
読み方が分からない。
その時、後ろから神崎がカードを奪った。
「店主?」
神崎の顔から血の気が引いていた。
「これ、知ってるの?」
「……どこで拾いました」
「そこ」
神崎はカードを見つめる。
「何なんだよ」
「忘れてください」
「またそれ?」
「黒瀬さん」
今度は冗談ではない。
直人にも分かった。
神崎は明らかに怯えている。
「この名前には、関わらないでください」
「名前?」
「MNEMOSYNE」
「知ってるんだな」
「……」
「美咲のことと関係ある?」
神崎は答えない。
「俺の記憶とも?」
沈黙。
それだけで十分だった。
「関係あるんだな」
「帰ってください」
「説明しろよ」
「今日は帰ってください!」
神崎が初めて声を荒らげた。
直人は驚いて黙る。
数秒後。
神崎は小さく息を吐いた。
「申し訳ありません」
「……何なんだよ」
「あなたが今、知るべきことではありません」
「俺が決めることだろ」
「いいえ」
神崎はカードを強く握りしめる。
「少なくとも、今だけは」
◇
直人が帰った後。
神崎は店の鍵を閉めた。
カーテンも下ろす。
そして、先ほどのカードを机の上へ置いた。
『MNEMOSYNE』
長い間見つめる。
「やはり気づかれたか……」
神崎は地下へ続く扉を開いた。
暗い階段。
その先。
無数の記憶瓶が並ぶ棚。
一番奥へ進む。
そこには黒瀬直人の名前が書かれた瓶が何本も並んでいた。
『黒瀬直人/研究所』
『黒瀬直人/逃亡』
『黒瀬直人/柊美咲』
そして。
『黒瀬直人/八年前/殺人』
神崎は一本の瓶へ手を伸ばす。
だが、触れる直前で止めた。
別の棚。
そこには一枚の写真が置かれている。
白衣を着た若い神崎。
柊美咲。
数人の研究員。
写真の後ろには企業ロゴ。
『MNEMOSYNE』
神崎は目を閉じる。
「八年前に終わったはずだった」
しかし終わっていない。
直人が再び店へ現れた。
美咲の記憶が戻り始めた。
そして今。
MNEMOSYNEが店を見つけた。
神崎は黒い瓶を見る。
「もう時間がないかもしれないな」
その時。
店の外。
暗い路地の反対側。
一台の黒い車が停まっていた。
後部座席の男がスマートフォンで誰かと話している。
「確認しました」
男は記憶買取店を見つめた。
「神崎宗一郎です」
少し間を置く。
「それと――」
店から出てきた直人を遠くから撮影した写真。
「K-01も生きています」
電話の向こうから何か指示が出る。
男は静かに答えた。
「了解しました」
通話を切る。
スマートフォンの画面には、直人の顔。
その下に表示されている文字。
『被験者 K-01』
さらにもう一行。
『黒瀬直人』
男は小さく笑った。
「ようやく見つけた」
黒い車は音もなく走り去った。
その夜。
直人はまだ知らなかった。
記憶買取店へ迷い込んだあの日から、自分が過去を探していたのではない。
過去の方が――。
黒瀬直人を探し始めていたことを。




