明日、あなたたちに贈る言葉
「俺は......」
隼人の人生は、誰もが想像し得るものだと、自分でも思っていた。みんなのリーダー、前に立って、王道の男子高校生になる。その日々は、簡単だった。それがずっと続くと思っていたのに、その時計を狂わせたのは、香坂樹里、あなたとの出会いだった。
――本当は学級委員、やりたくないんじゃない?
その瞬間、自分は人間だということを思い出した気がして、自分の鼓動が聞こえ始めた。その音は、自分を、ずっと答え合わせしないでいた琴線に触れさせようとした。
――でも、私は、わかるフリをしたの。
『なりたい』と、『ならなければいけない』と、『本当の自分』。その乖離を知って、どれかに答えを出さなければいけないと思っていたが、その狭間にいることを肯定してくれた。俺は俺のままでいい。嘘をついても、なりたい自分を演じても、自分さえ見失わなければいいと教えてくれた。あの瞬間、時計が狂ったのも、鼓動が聞こえたのも、全て本当の人生の時を刻みだした合図だった。
「俺は、『本当の自分』を贈ってくれました」
全ては、十年前の春。あの日、桜が舞い散る中で、ひらりとその髪を靡かせ、真っ直ぐな信念を携えて、やってきた。十年前の約束も、全て、この瞬間のために繋がっていた。
「俺たちは、たくさん、贈ってもらいました。それは、俺たちの明日に、贈ってもらった、かけがえのないものです」
隼人の言葉は夜の教室に溶けていく。樹里は滲む視界でみんなの顔を見た。
「今度は、俺たちが贈る番です」
その顔は、十年前と同じで、全く違った。幹を伸ばし、枝を蓄え、葉を茂らせた。暗くてあまり見えなくても、その目は淀み無く届いてくる。
「香坂樹里は、先生です」
「演習の時間をたくさんとってくれる数学の先生で」
「細かい所まで見て、声をかけてくれる女子バスケ部の顧問で」
「たまに転びそうになるほど真っ直ぐに走っていて」
「抱いている傷をきちんと見つけてくれて」
「一緒に笑って、一緒に泣いてくれる」
「三年九組の、俺たちの、先生です」
どうしてこんなに真っすぐにいられるんだろう。でもどこか懐かしさもあった。この純真な言葉は、私の言葉と同じ。私が贈った言葉が、彼らの明日の糧となって、そして今、私を夜明けへと導く言葉として贈り返してくれた。
「みんな、最後に行こう。ほら、先生も」
隼人は皆を連れて、教室を後にする。行く先は、一つだった。
携帯のライトを懐中電灯代わりにして、一行はひらけた丘へと出た。レンギョウの木は、黄色く立派に育っていた。夜明けはまだまだ先にある。それでも、樹里が再びその時を迎えられるように、隼人は一番最初にその時を訪れる水平線を目指した。
「はあ......はあ、久しぶりに走ったから息切れちゃったよ」
「しんちゃん、しっかりしなよ。そろそろパパになるんでしょう?」
「そんな、水野には適わないだろ、現役のバスケ選手だぞ?」
皆、息を切らしながらも、心を和ませ、水平線を眺めた。風が心地よく吹いて、月明かりのない夜には星が一層輝いて見える。心なしか、水平線の先がうっすら、違う色に見えた。
「みんな、今日はありがとう」
樹里の声を聞いて、皆はすぐに静まった。
「これから、最後の言葉を贈るね」
最後の言葉、その重みが皆に強くのしかかる。皆の吐息が夜に溶け、そこに樹里は込み上げてきた熱いものを形にして並べた。
「私は、これまでずっと大事にしてきたことがあった。でも、それをあの件で見失って......ううん、見えなくなってしまった。何も。でも、さっきのみんなの言葉で込み上げてきた」
十年前に、生徒たちに贈った言葉たち。それは全て、たった一つの源から生まれていた。
「自分を信じる。それを、私は最後にみんなへ贈る」
隼人たちは、十年の時を経て贈られた言葉を、しっかり噛み締めた。すると、樹里が一歩前に出て、水平線に向かった。
「香坂樹里、私はもう一度......先生になります! そしていつか、十年前と同じように、言葉を贈れるように、もう一度歩き出します!」
叫んだ声は、空と海の溶け出すところへとまっすぐに進んで行く。その先にある夜明けを、まるで引っ張ってくるように。生徒たちは導いてくれたこの水平線の見える丘から、真っ直ぐと歩き出す。その決意だった。
樹里は決して振り返らない。隼人たちはその後ろ姿をただ見つめ、涙を流した。その時、
「あ、流れ星」
「おいおい、ベタ過ぎないか? こんな時に」
「いいじゃん、ベタでも。ほら願うよ」
あのほうき星はどこへ行くのだろうか。皆が空に浮かぶ中、自分だけが真っ直ぐに進んで行く。その果ては、きっと......。手を合わせ、流す涙も、心を充たす感情も、身体の奥で生きる記憶も全部込めて、満天の星の中で駆け抜けるほうき星へ願った。
――この言葉が、明日に届きますように。




