贈ってきた言葉
樹里の話は、隼人たちが日記で知った真実よりもずっと重たくて、苦しいものだった。その苦しさから、誰も口を開く者はいなかった。
「だから私は、教師でいちゃいけないって思った。でも、今日だけは、先生に戻ってもいいのかなって。みんなの前だけでもいいから、帰りたいって。だって、十年前に約束したから」
今日ここに来れたのは皆との約束があったからだと、感謝を伝えるために足を運んだ。もう一度、ありのままの彼らを浴びて、教員人生を終わらせる。
「......樹里ちゃん、これからはどうするんですか」
喜一が聞いたことは、恐らくその場にいた全員が訪ねたかったことだ。樹里の顔は清々しいほどに澄み切っていて、まるで全て燃え尽きたような佇まいだったから。
「私、今日で先生は最後にしようと思う」
樹里の言葉に、音のない悲鳴が確かに響いた。いや、薄々分かっていたことだった。どこか遠くへ行ってしまうような、そんな空気が漂っていた。でも、それを否定したり、引き止めることはできない。きっと耐え難いほどの苦渋の末に決断したことだろう。それを我々が簡単に触れていいものではないことは誰しも分かっていた。それはたとえ、全員が教員を続けて欲しいと願っていても。その時、教室の後方から、震える声が聞こえてきた。
「......先生、それでいいんすか」
皆は一斉にその声の主へと視線を送る。樹里は心音を大きくするのと同時に、久しぶりに体の奥に熱を感じた。
「先生は、先生が先生でいる意味が無いって仰っていましたけど......ひとつ確かなことがあります」
夜明けはまだまだ先にある。でも、そこへ向かおうと、水平線へ導いてくれるような声の主は悠斗だった。悠斗の言葉は、我々の後ろにあるものを全て、追い風にするような力がひしひしと伝わってくる。樹里の感じた熱は次第に増してきて、鼻の奥辺りまで達していた。
「......って、すみません、俺、なんか偉そうに。先生だって、簡単に決めたわけじゃないのに......」
しかし悠斗はいつもの癖で出しゃばってしまったと、ふと怯んでその風を抑えようとした。しかしそれを止めさせなかったのは、やはり彼の隣にいた喜一だった。
「いいじゃん、伝えなよ。悠斗」
薄明りの中、喜一は悠斗に微笑んだ。高校の時と変わらない、そして、いつも大事な時に傍にあった、目尻に皺をよせ、垂れ目で人懐っこい笑顔。喜一のいつもの顔を見ることができて、悠斗の迷いは無くなった。
「俺が......先生に贈ってもらったのは、『青春』です」
――神田君はさ、なんで、主演を引き受けてくれたんだと思う?
大人になることが最善であり、効率的。それに対して無駄で、ずっと避けてきた眩しい光。でもそれは、避けるほどに知りたくもあった。その眩しくて、かけがえなくて、そして張り裂けるほどに痛い青春を、教えてくれたのは香坂先生。その先にあったのは、茨の道と、それでも歩いていけるような力強い仲間だった。
「喜びも、怒りも、後悔も、涙も、痛みも。その感情が全てで、他人の感じたものを自分のことと思えることが青春なんだと教わりました」
悠斗の叫びは、十年前に我々が樹里からもらった言葉に宿る、力がこもっていた。その彼の勇気によって、一人一人と、一線を越え出し始めていく。
「私は、『本当の優しさ』を贈ってもらった」
――でも本当に優しくありたいならさ......怒らないと。
恵那は知らなかった、本当の優しさとは何か。いつもその人と道を合わせ、一人になることを怖がっていた頃には分からなかった。その時、香坂先生は言った。怒りをぶつけろ、等身大の自分をぶつけろと。時には傷ついて、それでもその傷を、いつか愛せるように。
「本当の優しさは、いつも優しくするのではなくて、等身大でぶつかること。それを教えてくれたのは、樹里ちゃんだよ」
恵那に続いて、次は零士が口を開いた。
「俺は、『俺の存在』を贈ってもらった」
――こんな話、聞かなくていいよ。
自分の存在意義を疑って、正しいと思ってやって来たことが全て仇となって返ってきた時。世界中の全てが、大きくて目立つ光に拍手を送る中、先生だけは俺の叫びを聞いてくれて、そしてこのクラスのメンバーが何者にもなれなかった俺を見つけてくれた。
「わかりやすく目立つものに、歓声と拍手が集まる中で、俺の小さな叫びを聞いて、見つけてくれたこと。俺は覚えてますよ」
少しばかりか空気が潤っているのは、皆が感情を溢れ出し始めたからだろうか。夜風がそよそよと吹く中で、次に声を上げるは澪。
「私は、『心』を贈ってもらいました」
――だからこそ、大事にするのよ。あなたの心を。
小学校の頃からずっと憧れてきた世界。しかしそれは夢の中の話だったはず。自分の道は自分では描けないと思っていたのに、もう一度本音と向き合って、夢を見させてくれたのは先生だった。この世界は広くて、たくさんの人がいて、夢があって、そして大事な人もいた。その真ん中にあるのは、何度も手放そうとしたけど、消えなかった本心。
「先生のお節介が、私を連れて行ってくれた。私には縁のないと思ってた、飛行機雲の先に」
茜は樹里の前に出てきて、目を合わせて言った。
「私は、『背中の見方』を贈ってくれた」
――素直に聞いちゃえばいいんだよ。
エースとは、キャプテンとは。色々なものに押しつぶされそうになって、知らぬ間に見失っていた自分の背中。ただ、幼い頃に感じていた純粋な気持ちに、還りたかった。そんな時、遠くを見ていた私の足元を灯してくれた。
「遠くばかりを見ていた私を、あの頃の私に還らせてくれた。どこプレーしていても、私の恩師は樹里ちゃんだけだよ」
茜の目は、高校の時と同じ、強かで己がある。それに加え、あの頃に増して覚悟があった。私はここで生きていくんだと。そしてその道を確かにしたのは、樹里であると言っているかのようだった。樹里は茜の目を見て、いよいよ涙が抑えきれなくなった。その涙を最後に後押ししたのは、隼人だった。




