闇に堕ちていく
ため息をつくのと同時に、私は職員室の扉を開けた。今年の夏ももちろん酷暑で、普通だったら職員室の快適さに幸せを感じてもいいのだが、先日から私を取り巻く黒い感情がこの頃のすべてをどうでもよくさせた。
「あ、香坂さん。面談?」
ちょうどコーヒーを片手に席へ戻ろうとしていた鈴木先生に声をかけられた。面談終わりで黒いスーツを纏う私に対して、鈴木先生はお馴染みのベージュのスーツに、ワイシャツを肘くらいまでまくり上げていた。
「......あ、はい。そうです。あともう少しで終わるんですけど」
いつもはもっと言い返し方ができるのに、この頃の疲弊が隠せずにいるのか、話の膨らまない返し方をしてしまった。
「失礼します、女子バスケ部の三輪です。香坂先生に用があってきました」
本当は少し一息つこうかと思っていたが、部員の声でもうすでに部活の時間が迫っていることに気づいた。
「あ、今行くから」
鈴木先生はもしかしたら何か言葉を返そうとしていたのかもしれなかったが、それを聞くことなく私はすぐに、その部員と体育館へと向かった。
練習を見始めてから一時間が経った頃。ただ事では無い形相で、主任が体育館に飛び込んできた。
「香坂さん! ちょっと」
あまりにも突然だったので、練習中の部員たちも戸惑った様子だったが、ひとまずメニューを最後まで終わらせるように告げ、私は主任について行った。向かった先は校長室。それだけで、事の重大さをわかった気がした。
「香坂さん、この前の面談で薄羽さんに何を言ったの?」
校長は落ち着いた口調で私を問い質した。
「......え、えっと......」
私としては何も後ろめたいことはしていなかったので、何を話したか、そして先方がどんな反応を見せたかも話した。しかし、校長や主任の反応は芳しくない。そして主任は重々しく口を開いて、呼び出した真相を告げた。
「先ほど、薄羽さんの親御さんから連絡があって、薄羽さんが今朝、自殺を図ろうとしたらしい」
自殺......その二文字は、聞いたことがあるはずなのに、私の頭の中に全く受容されなかった。しかもそれが、薄羽さんだということが、それをより、ゲシュタルト崩壊させた。
「幸い大事には至らず、今は事実関係を教頭が確認しているところだ」
しばらくして、私が何故腑に落ちていないのか、原因が分かった。
「......それって、警察や病院からの連絡はあったんですか?」
しかし主任は首を横に振った。
「いや、先方も突然のことでパニックになってたらしく、自宅で発見したからまだ何も行動できていないみたいで。マスコミだったりに嗅ぎつかれないのは不幸中の幸いだな」
ただ、校長たちは苦い顔を変えないでいる。これだけ辻褄の合わない話なのに、何故、先方を疑わないのか。私の黒い感情がふつふつと湧き上がってきて、主任や校長も、黒い塊に見え始めた。その時だった。
「......ちょ、落ち着いてください、ちょっと......」
その声が聞こえた数秒後に、校長室の扉が勢いよく開けられ、空気がガラリと変わった。苦い空気から、痛い空気に。それから目に飛び込んできたのは、教頭の制止を振り切って烈火のごとく乗り込んできた、火種だった。
「あんた、何してくれてんの! うちの子が、うちの子が......あなた、あなた子供育てたことないでしょう、何様のつもりなの? 子供の傷は簡単につけられても、癒すのは簡単じゃないのよ!」
痛く鋭い言葉とともに、怒りや、蔑みや、邪悪なものが全て矢に変わって、私へ投げかけられた。私は今なぜ、薄羽さんの親御さんに詰め寄られてるのか。被害者である八田さんならまだしも、何故薄羽さんに。胸ぐらをつかまれながら、先方の唾と涙を浴びながら、その答えを探した。私は今、何をしているんだろう。その答えを、たった一つでいい光を、私は見つけたかった。ふと横を見る。興奮する先方を宥めながら先生らが言ったのは「申し訳ありませんでした」という敗北の言葉だった。その瞬間、私は黒い感情で何も見えなくなった。右も左も、この場所には私はいない。私のいる意味はない。私は、抗う力をなくしてただ闇に堕ちた。
暑さもまだ残るどころか、夏の終わる気配すらない二学期の初日。私はベッドの中にいた。
「起きないと......」
しかし、身体が重力に全てを委ねてしまっているように、起き上ることを許さなかった。一階からはテレビの音が聞こえる。私は近くにあった携帯を見て、ニュースを眺めた。そのうちの一つに、目の止まる記事があった。
「地元の公立高校に通う高校生が一名、自殺未遂で意識不明。原因はいじめか」
名前や具体的な部分は伏せられていたが、明らかに心当たりのある話だった。結局、教頭が調べを進めたところ、全て薄羽さんの自作自演だったらしいが、騒動は内内で広まり、地元紙にもこうしてリークされた。きっと、彼女の思い描いたストーリの結末だ。私はもう、教師としてあの場所に立つことはできない。それどころか、ベッドから起き上がれやしない。情けないのか、悔しいのか、怒りもあって、悲しみもあって、そして少しだけ、安堵もあった。暗闇に落ちて、もう、何も見えないから、何も気づかなくてよくなった。今頃彼女は、かりそめの包帯でも巻いて、あの笑みを浮かべながら登校しているだろうか。きっと周りには同情してくれる味方がいて、これから三年間、伸び伸びと過ごしていくのだろう。
スマホが鳴り、主任から一件連絡があった。
《八田さん、二学期から登校再会するって。さっき実際に登校してきたところも見かけたよ》
よかった。本当に良かった。肩の荷が下りて、枷が外れた拍子に力が抜ける。私はそれ以降、携帯の電源を切って、目を閉じた。もう、何も見たくなかった。




