黒い感情
梅雨空が、私の鬱とした心をよりいっそう内側に押し込めてしまっていた。来月の頭にはすぐに期末テストがあって、準備に取り掛からなければいけない。そして例のごとく面談もある。一年生は去年と違って保護者も同席するので、それなりの準備も必要だ。それに部活も、間もなくインターハイ予選があって、詰めていかなければいけない時期。それなのに、あの件が最優先事項として、私の前にはびこっている。
「香坂さん、あの件は大事にするつもりはないから、こちらで適切に対処していこう」
「はい。今度の保護者面談で話せればと思います」
私ができることは、なんだろう。すでに私は、今までの手札をかなり使ってしまった。人間観察や、隙を見て話しかけてみるのも効果はなかった。
「あっ......」
ふとパソコンで写真を見返していると、去年の写真が出てきた。藤代君、自分を自分の中で認めて、自分を守る嘘をついた。篠原さん、優しくあるために、正直にぶつかった。沢村君、人の痛みを自分事として思えるようになった。茜、正直に自分の弱みをみんなと共有した。高瀬さん、自分の心を信じられるようになった。嵯峨君、小さな叫びを、仲間に受け止めてもらった。全部、私はその時、真っ直ぐに伝えて、真っ直ぐにぶつかり合った。そうだ、私の最後の取り柄はそれしかない。
期末試験が終わり、今回は中間試験のようなミスもさほど目立たなかった。しかし本題はこれから。七月十三日の今日、私には最大の試練が待ち受けていた。
「失礼しまーす」
「あ、どうもこんにちは、担任の香坂です。本日はご足労......」
「いいよ、そんな堅くならなくて。香坂先生ね、こんな感じなのね」
蛙の子は蛙とはよく言ったものだ。薄羽さんのお母さんは電話越しに話した時と、薄羽さん本人で形成されたイメージで間違いなかった。
「それでそれで、うちの子はどうですかー? 真面目に授業受けてます―?」
「ちょ、やめてよママ」
勝手に盛り上がっているが、今日はそんな話をするつもりはない。もっと深刻な、向き合うべき問題があるのだ。
「あの、すみません。今日はお話ししたい件がありまして。今、クラスメイトの八田さんが学校に来れなくなってしまっていることはご存じでしょうか」
私が話を切り出した瞬間、少しだけ、薄羽さんの目がピクリと私を睨んだように感じた。右手で自分の左手の甲をさするような仕草も始めた。これは、確信犯の証拠だ。
「事情聴取をしたところ、体育祭の前後に、どうやらクラスメイトとSNS上でトラブルがあったらしく」
薄羽さんの様子はどんどんと窮地に追い込まれているような苛立ちを感じる。隣に座る母親は、どうやら事の経緯をしらないようで、ただ愛娘の表情から何かを汲み取るしかなさそうであった。さあ、ここからどう攻めるか。今回のゴールは、彼女のいじめを止めること。しかしそれは、彼女の非を押し付けることではない。彼女自身の新たな行動が必要である。その一歩を動かすきっかけを今日は作りたい。
「......私としては解決ってところまではすぐに行けるものではないと思っていて、だからまずはどう考えていくかっていうところを一緒に話し合っていき......」
その時だった。私に聞こえてきた音が、言葉を紡ぐのを遮り、風が止んだ。
「......っ......うち......」
「ちょ、どうしたの!」
母親の叫びが劈き、私の鼓動は耳元で鳴っているかのように大きくなった。俯く薄羽さんの目からは涙が零れないし、それに声も震えていない。しかしただ、先ほどまで優勢だった風が、気づけば向かい風に変わっていた。
「あんた、何してくれてんの? うちの子があたかも加害者みたいな言い方して、泣かせるなんて」
「......ママ、私やってない。私が八田さんに避けられて、それでうちの友達がうちのこと庇ってくれただけで......」
事前調査ではそんな話出てこなかった。それに、この間八田さんの親御さんが来校した後に見せていただいたSNSには専らそんなやりとりなどなく、ただ一方的に薄羽さんの気に障ったのか、避けだし、それに周りが同調していた。
「あんたありえない。ちゃんと調べたの? それなのに、勝手に決めつけで発言して、教師向いてないんじゃないの? ほんとに、だから公立高校は止めなっていったのよ。ろくでもないのが教師やってんだから」
事実がどんどんと捻じ曲げられていくことに焦りを覚えるも、頭が真っ白になって何も言葉が出てこなかった。いつもどうしていたっけ。去年は......今までの私の経験は......。しかし、私が考える隙も与えないほどに、逆風は増すばかりだった。
「では、改めて後日......」
「後日? 後日も何も、私たちは被害者だって言ってんの。二年目なのに、担任持たせてもらって浮かれてんじゃないわよ。ほら、行くよ」
二人は勝ち誇ったように教室を後にする。最後、教室を出るとき、薄羽さんは母親と笑っていた。さっきまで泣いていたとしたら到底出てこないような顔を見て、私は悔しさなのか、恐怖なのか、絶望なのか、怒りなのか、得体の分からない黒い感情が込み上げてきた。




