空白が孤独になる
「そしたら、採点ミスのあった人はこの時間のうちに持ってきてください」
私がそう言った途端、椅子の音がガタガタとあちこちであがり、多くの生徒がやって来た。
「こんなに......申し訳ない」
担任の五組だけでなく、その他のクラスでも同様だった。やはり、この頃の悪い予感に気をとられ、いまいち採点に身が入らなかったのが原因だろう。とはいえ、それのせいで片付けるわけにはいかない。
「......気を引き締めないと」
自分を戒めるように日記に決意を刻んだ数日後、私が職員室にいる時にちょうど、電話が鳴りだした。私が一番近くにいたので受話器を取ると、予想外の人だった。
「あ、薄羽さんのお母様。はい、いつもお世話になっております」
電話の主は、例の彼女の母親だった。その名前を聞いて私は一気に背筋が凍り、鼓動が早くなる。
「あの、香坂先生ってお若いんですって?」
突然年齢のことを切り出され、その後に続く話がいい話なわけなかった。私は狼狽えるばかりで、先方の思う壺にハマった。きっと電話越しに勝機を悟られた。その後も薄羽さんのお母さんのペースに流されるまま、一方的に採点ミスの件について窘められ、電話は切られた。通話終了後の「ツー、ツー」という音を数回聞いて、私は夢から醒めた気がした。私は思い上がっていたのかもしれない。言葉だけではなく、本当に気持ちを入れ替えないと。再び彼らに合わせる顔が無くなってしまう。去年は上手くいって、周りの評価に浮足立ってしまっていただけで、私はまだ何者でもなかった。
「香坂さん! 今から打ち合わせ、行けそう?」
「はい、すぐに」
この日、私の中で確かに運命の歯車が狂いだしたのが分かった。しかし私は、それを見て見ぬふりをして、ただ自分に鞭を打った。
定期テストが終わると次は一学期のメインイベントである体育祭がやってくる。コロナウイルスがあって、私がいた時よりもだいぶ内容が変わっていたけど、クラス対抗のリレーや大縄跳びは健在だった。去年は、自信を取り戻した藤代君を中心に九組らしく取り組んでいた。結果は残せなかったものの、最後までやり切って、彼ららしく楽しんでいた記憶がある。一方の今年のクラスは、どこか冷めている印象だった。
「はい、おはよう......」
教卓の前では薄羽さんをはじめとした女子たちが着飾ったり、見た目を整えたりしている。男子たちは固まってスマホでゲームをしていた。今から運動をするという気概は一切感じられなかった。
「今日は体育祭なので、このクラス初めての行事ごと、頑張って優勝目指しましょう」
分かってはいたが、私の声も誰に刺さることなく、空に消えていった。むしろ、そんな私の言葉を冷笑する視線すら感じる。
「じゃあこの後、放送が流れたら移動開始してください」
ホームルーム中気になっていたことが一個あった。それは、スプリングセミナーが終わってから最初の頃、薄羽さんたちと一緒にいたはずの子がひとり、その輪にいなかったこと。偶然かもしれないが、それでも明らかに境界線を感じた。例えば、薄羽さんたちがお揃いにしている襷や団扇を持っていない。そのズレが、私にはすごく怖く感じた。
「八田さん、ちょっといい?」
私は隙を見て、彼女を呼び出してみたが、それといった話も聞きだせず、去年のように上手くはいかなかった。しかし、彼女の目を見れば見るほど、私の悪寒が増すばかりだった。
体育祭から二週間が経ちそうな頃、梅雨空の中、私は応接室にいた。横には学年主任と校長。対面には八田さんの親御さんがいた。
「......私の管理不足で、申し訳ないです」
「いやいや、子供たちのことですし、まだ大事にもなっていないので先生を問い詰めるつもりはなくて。でも、一応、昨今色んなニュースを見て、ちょっと心配で」
やはり私の嫌な予感は当たってしまったらしい。どうやら、SNSで薄羽さんたちと八田さんがボタンを掛け違えてしまったようで、それをきっかけにいじめの兆候のようなものが始まったらしい。まだ、具体的に何をされたというわけではないらしいが、グループから疎外されたり、話しかけても無視されたりするらしく、心理面での負担をお母さんに申し出たようだ。
「事前に知らせていただき、ありがとうございます。こういったことは早期発見、解決に尽きますので、私たちも最優先で取り組んでまいります」
私の頭の中には謝罪の言葉しか浮かばず、他は真っ白になっていた。幸い、校長や主任がその場を上手く収めてくれたこと、そして先方の温度感が高くなかったことがせめてもの救いだった。
面談が終わり、私は何とかしなければいけないという思いに駆られた。主任や校長はあまり私を責めたりしてこなかったが、逆にそれが、私の心を不安にした。見放されたのか、過大評価だったと思わせてしまったのか、今は色んな人の優しさが空白となって、私の心を孤独にした。
「なんとかしないと......事情聴取して、薄羽さんたちと面談して......」
きっとこの頃の私は、周りが見えてなかった。孤独な心には、無理矢理に見い出した筋道しか照らされず、あたかもその道を走ることしかできないかのように思わせた。
そして二日後、八田さんは学校に姿を見せなくなった。




