epilogue
電車が入線してくるとき、一緒に風も纏ってくる。その風がある日突然、寒く感じた。
「さっむ」
悠斗はポケットに手を突っ込み、人の温もりで温まった銀の箱に乗り込んだ。その時ちょうど、ポケットに入れた携帯がブーっと鳴った。サムネイルには、「ニュース:来年の夏季五輪、女子バスケ日本代表のメンバーが発表。キャプテンは三体連続選出の水野茜」と出ていた。
「やるなー、水野」
急に寒くなって、身体も縮こまってしまう日々だったが、このようなニュースを目にすると、なんだか体の奥から熱が宿るような気がした。それから視線を前にやると、扉付近の壁ポスターには、新作ドラマの宣伝が貼られていた。主演の女優が、自分たちの馴染みのある風貌で立つ。顔はほとんど見せず、背中で語り掛けているように思えた。下の帯には、主演の名前や出演者の名前に続いて、小さくスタッフの名前も記載されている。
《脚本:沢村悠斗 プロヂューサー:神田喜一》
ふと横を見ると、先ほどの駅で乗ってきた男子高校生二人が同じポスターを見て話していた。
「あー、このドラマ、俺見ようと思ってたんだよね。神田Pと脚本が沢村でしょ」
「あれか、『ペネロペの罪』のチームか。俺、この前配信で見たよ」
高校生にとってはなかなか渋い選択だ。しかし、嬉しいことには変わりなかった。悠斗はまもなく到着した駅で、下車する。それから歩いてすぐの体育館に入った。
「さあ、間もなく試合も終盤です。サンアッシュが一点のビハインドでグレートビーツを追いかける展開。最終第4クウォーターです」
会場に入ればその盛り上がりは五感で感じられた。悠斗は会場を少し見回して、いるはずの顔見知りを探した。
「あ、沢村ー!」
歓声の中で負けない声を上げたのは恵那だった。横には大柄で端正な顔立ちの外国人と左手の薬指を光らせる澪もいる。少しお腹が膨らんでいるようにも見えた。
「あ、沢村君は初めてだよね。こちら、夫のショウです」
「ハジメマシテ、ショウです」
大きな手を差し出してきたので、悠斗はそれを握り、「沢村です」と返した。
「それにしても、沢村が来るなんて珍しいよね」
「なんだよ、嫌味か?」
「チョット、ケンカヨクナイデス」
「ああ、いいのいいの。恵那と沢村君はいつもこんな調子だから」
「沢村は当たりが強いのよ」
「それはこっちのセリフだ」
「まあまあ。でも確かに、ノートまで出してどうしたの?」
悠斗は会場に着くなりノートを出していた。
「ああ、まだ企画も何もしてないんだけど、今度喜一とスポーツものやりたいよなって話しててさ。今日は何か持って帰れればなと思って」
「あー、なるほどね。そういえば今日、初回じゃなかった?」
「そうだよ、私も夜帰ったらリアタイで見るつもり」
「ア、モシカシテ、ミオがミタイッテイッテタドラマ?」
「そうそう。この人が書いてるんだよ」
それを聞くなり彼は元々大きい目をさらに大きくして、それから握手どころかハグまでしてきた。
「ははは、ありがとうな。喜一はそれの都合で今日来れなかったんだけど。よろしくだってさ」
そうこうしているうちに、ブザーが鳴って試合が始まった。オレンジの光に照らされるコートに選手たちが闘志を燃やしながら出てきて、中でも、そのうちの一人に目を奪われる。仲間に必死に声をかけ、そしてプレーで全体を底から引き上げる。
「いけー! 茜!」
悠斗の目に映ったのは、たくさんの歓声を胸に、まるでバスケが大好きな幼い子のような、意気揚々としたプレー姿だった。
「いけるいける」
「あと三十秒......頼む頼む」
ショウはもはや、日本語ではなく英語で必死に応援をしている。会場、ベンチ、スタッフ、そしてコートの選手。全員が気持ちをひとつにして、それが一つの塊になって、茜の手からシュートへと吸い込まれていく。
「これだ......」
悠斗の中で景色が一つに定まった時、ブザーとともに歓喜の声がどっと沸きあがった。
「きゃー! 優勝! 優勝だよ」
「茜ー、ほんとに、ドキドキさせないでよー」
「なんで恵那がそんなに泣いてんのよ」
「ナカナイデ、エナサン」
どこから湧き上がったのか、どこから流れてきたのか、この大きなエネルギーを物語に変えてやろう。悠斗の将来は、また再び、膨らみ始めた。
休憩室のテレビでバスケ中継を見ていた隼人は、デスクへと戻る。その上の携帯に、ちょうど通知が来て、画面がついた。その画面の背景写真には、隼人と、もう一人、優しそうな笑顔を浮かべる男性が映っていた。
「あれ、藤代さん。ホーム画面変えました?」
「ああ、これは親友。この前同窓会で会ってね」
「へー、仲いいですね。でもいつか、奥さんとかお子さんに変わるんだろうなぁ」
「まあそうかもねー」
この会話は慣れてきた。でも、決して嫌な気持ちにもならない。自分はもう少し伸び伸びと生きようと思う。そんな中で、この人懐っこいほどの笑顔を浮かべるこいつとの写真を変えても良いような人と出会った時、その人はきっと自分の中で一生かけて大事にする人になるだろう。それが、自分だ。
隼人はトークアプリを開いて、九組のグループチャットで茜に祝福の言葉を贈った。
グループチャットで隼人から通知が来ていることに気づき、零士もお祝いのコメントを贈った。
「嵯峨君。どうした?」
「あ、教授。自分の高校のクラスメイトが女子バスケのプロリーグで選手やってて。さっきリーグ優勝決めたんすよ。それに来年のオリンピックにも出るみたいだし」
「そうか、そしたら本当は試合見たかったよな」
零士はちょうど出先で、試合自体を見ることはできなかった。今は教授と二人で、明日から開催される研究発表会へ行く新幹線に乗っているところだった。
「そういや、来年のオリンピックは確か、イタリアじゃなかったか?」
「ああ、そうですね。ローマだったと思います。なんで突然?」
「そしたら、来年こそは現地で見てやりな」
そう言って教授はカバンから一枚の封筒を取り出した。それは今朝教授宛てに届いていた世界考古学会議からの通知だった。零士はゆっくりとその手紙を読み進めていくと、目を疑うことが書かれていた。
「これって......ほんとですか」
来年の総会への招待。そして期間はオリンピックとほとんど同じ。場所は数々の文化財が残るローマだった。
「来年は君と、それから霧島君をアシスタントで連れて行こうと思ってね。嵯峨君、先輩として霧島君をよろしく頼んだよ」
こうして巡っていく運命。それはまるで、あの日見たほうき星が進む限り、明日へと導いてくれる気がした。零士は「よろしくお願いします」と、少しばかり目を潤わせながら、頷いた。
「ほら、香坂さん。今日早く上がらないとでしょう? 残り代わりにやっておくから」
「えっ、いいんですか? あと十部くらいなんですけど......」
「今度良いとこのランチ連れてって。ほら、行きな」
時計は八時を回っている。今日は残業をしないつもりだったが、明日の保護者会の資料にエラーが見つかり、こんな時間になってしまった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼します」
「うん、また明日。私も帰ったら録画で見るね」
樹里は同僚に軽く会釈して、職員室を後にした。臨時採用という形で再び雇ってもらったのは、家から電車で三十分の公立高校。校長が鈴木先生の元同僚で、その縁もあって快く迎え入れてくれた。今年の二学期から産休に入られた先生の代わりとして入り、何事もなければ来年も契約を更新してくれるようだ。
職員室の雰囲気も良好だ。特にデスクの近い同僚の先生には助け合いながら、良くしてもらっている。最初は過去に同情されたり、逆にうまく馴染めなかったりするのかもと思っていたが、私らしくいることにした。
私は電光掲示板を見て、まだ最寄りは先であると確認し、カバンから本を出した。背表紙には『教採対策』と書かれている。歩き出しただけで満足してはいけない。常に進み続けて、自分を信じ続けられる明日を探して生きていこうと、心に決めた。
家に着くと、もうすぐ九時になるところだった。私は手洗いを済ませ、すぐにテレビの電源を付けた。それからチャンネルを目当ての局に合わせ、いくつかCMが流れる間にお茶と菓子を用意した。
≪それでは、このまま放送開始になります。スタートまで5・4・3……≫
樹里は一度目を閉じ、開く。画面に映るのは、あの水平線。そこに一人の女性が佇んでいた。髪は長髪で、海の果てから吹いてくる風がそれを靡かせる。目にはまっすぐな光を、拳には強い意志を、心には自分を信じる気持ちを抱いて、彼女はやって来た。これから出会う者たちの人生を変えるものを贈る、それは……。
「……水平線」
――明日、あなたたちに贈る言葉。




