帰る場所
しばらく感じることのなかった鼓動を打ちながら、樹里は家を出た。久しくクローゼットに眠らせていた教師時代の服一式を身に纏い、傾き始めた太陽のもとを歩いた。川沿いの桜は満開を迎えようとしている。今年もこの桜を見て、あれから随分と遠い場所まで生きてしまったんだなと感じる。
駅に着けば、頭で考えなくとも体が自然に並ぶ場所、乗る電車の方向、乗り換えの仕方を記憶していた。数十分して、最寄りの「陽川駅」に着く。
「あ、香坂先生!」
声がした方を向けば、鈴木が駅のコンコースで待っていた。鈴木は少し時間が早いからと言って、樹里と一緒に駅ナカのカフェに向かった。
「どう? 緊張してる?」
頼んだアイスコーヒーを挟んで向かい合う。今、樹里の感じているものは緊張とは違う、というよりも緊張の他に色々なものが混じっているようなものだった。
「野暮な質問だったか。ごめんね」
鈴木はすぐに空気を読んで流れを立て直した。それから鈴木は、なんでもない世間話などで樹里の気持ちを少しばかり和ませた。その会話に併せてゆっくりとコーヒーを飲み干し、そのまま学校へと向かった。
道中、閉校式のパーティーに参加した地元の住民たちや元生徒たちにすれ違った。しかし、樹里はあえて視線を合わせないようにして、その正体をバレないようにした。そしていよいよ、校門の前に立つ。もう二度と見ることのないと思っていた校舎。ここから先の世界に足を踏み入れていいのか、樹里は立ち止まったまま足を動かせずにいた。その時、校舎の一角から拍手の音が聞こえてきた。その音が、単なる拍手の音のはずなのに、どこか懐かしさを感じた。
「香坂先生、大丈夫だよ」
鈴木の言葉を添えて、樹里はいよいよその足を一歩、動かす。そのまま鈴木の後に従って、樹里は校舎へと入った。少し古びたコンクリートの校舎。昇降口の前の掲示板。日当たりが悪いために少し寒い渡り廊下。一つ一つが樹里の記憶に返ってきて、その景色に生きるのはあの子たちだった。
「さて、それじゃあ入るよ」
ついにその時が来た。樹里は十年前と同じく鈴木と足音を共にし、一つの教室で立ち止まった。鈴木は先に教室へと入って、電気をつけ、後ろへ捌けた。教室が眩しく光り、廊下と対照になる。ふと、卒業式の一言が頭の奥で浮かんできた。
――10年後、水平線の見える丘で! また会いましょう!
あの約束を、果たす時が来た。今、私は香坂樹里という高校教師に帰る。
窓や壁には装飾が、黒板には字とアートが仕上がっている。でも、教卓の軋みや、机の傷、隅に残った埃が樹里を一気に十年前へと遡らせた。そして目の前には、あの頃のみんながいる。
「じ......樹里ちゃん」
しんちゃんが堪らずに声を出してしまい、ダムの堰が切れた。皆、一斉に樹里の元へと駆け寄って、最大の歓迎を言葉にした。
「おかえり......樹里ちゃん」
夜空にポツリと浮かんだ一番星が、樹里の心の闇にも灯る。それがまたひとつ、またひとつと増えていって、気づけばその闇は、夜空になっていた。それを否定することも、無理に引っ張り出すこともなく、そのものに温かみと光が宿っていった。
「樹里ちゃん......」
「香坂先生、おかえり」
涙する者、喜びを露わにするもの、その光景にまた、涙を流す者。その純粋な感情に、樹里もまた涙した。見た目は大きくなっている。成長も、この十年の歩みも聞きたい。でも、まずは伝えたいことがある。
「みんな、今日はありがとう」
十年ぶりに恩師の声を聞き、隼人たちは満面の笑みで頷いた。それからしばらくの間、時間を忘れて、これまでのしがらみを忘れて、話したいことを感情のままに話した。
そして話がひと段落着いたところで、樹里は改めてみんなを座らせた。そして四十人の顔を前にして、いよいよ向き合う決心をした。みんなが星を浮かべてくれた私の心に、夜明けが訪れるように。ここからは、私が向き合って、歩き出さなければいけない。
「みんな。私の話を、私の口から話させてほしい」
隼人たちは樹里の覚悟を受け取った。これから話すのは、日記に綴られた過去。恩師の生きた言葉で、それを改めて耳にした。




