二人の足音
いつもの春ならまだ桜は咲かないのに、今年は三月から咲き出した。桃と白の間の曖昧な色が、この陽川高校の校門を埋め尽くし、最後の日を優しく彩っている。校門の前には「閉校式」と書かれた看板が立てられ、式といってもそう堅苦しくない、ホームカミングデーのようなパーティが開かれている。校庭には町会主催の屋台が立ち並び、地元の人たちが賑やかに、学校へと思いを馳せながら談笑している。
隼人はその足を、奥の裏山へと向かわせた。数週間前に来た時と変わり、こちらも桜が咲いている。視界が開け、さざ波の奥に水平線が見える。今日もいい天気だった。
「お、悠斗。来てたんだな」
「おう、隼人。昴はいないのか?」
ここに来たのも、集合時間の少し早めに学校へ着いたのも気まぐれで、今日は隼人ひとりだった。
「うん。なんか準備早く終わっちゃって、早く着いちゃった」
「俺も一緒」
それから隼人と悠斗は、しばらく黙って水平線を眺めた。青というより、灰色に近いような海がずっと遠くまで続いていて、地平線ははっきりと伸びているようで、よく見れば、溶け合っている線は確かではなかった。
「この十年、長かったようであっという間だったよな」
隼人の呟きに、悠斗は頷く。十年という月日は、ぞれぞれを色々な面で変化させた。親になったり、会社で上司になったり、自分を受け入れられるようになったり、夢を叶えたり。各々の道を歩く中で、その原動力の一つにはいつも、香坂先生の言葉があった。
「俺はさ......」
悠斗はそのまま視線を変えずに、話し出す。
「俺は、正直、隼人みたいなのとは仲良くなれないのかなとか思ってたけど、でもやっぱり、流石だなって思ったっていうか」
しかし、そこで悠斗は隼人の顔色を見て、言葉を訂正した。
「あ、えっと。俺は、隼人が俺たちのリーダーで良かったなって思ってる」
「なんだよ今更」
隼人は照れ臭かったので、少し茶化してみたりした。
「隼人は、青春を体現してた。眩しくて、でも、痛みも知ってて」
風が吹いて、桜の花びらが数枚、海へと散っていく。
「......俺、書く。俺たちの物語」
桜が散っていく先はどこなのか。この地平線の先には何があるのか。確かなことなんてなくて、だからこそ、生きている。沢山の出会う人、時間、そして言葉。その一つ一つを携えて、不確かな答えへの道を築いていく。
「ああ、楽しみにしてる」
悠斗は携えたものを形にしたかった。今日この目で見るのは、この物語の最終回。必ず、見届ける。そう、悠斗は心に誓った。
しばらくして、隼人と悠斗は校舎へと戻って行った。
「零士ー! おーい」
零士が振り返ると、そこには虎太郎がいた。虎太郎は零士が気づくなり駆け足で寄ってきて、勢いそのまま、零士の肩に腕を回した。
「ごめんな、この前は都合がつかなくて」
「全然。しんちゃんとかも仕事の都合が悪くて来れなかったらしいし」
「そっか、だから今日主催してくれて、めっちゃ嬉しかった。先生にも久しぶりに会いたいしなぁ」
零士は虎太郎の「先生」という言葉に少し、肝を掴まれるような感覚になった。零士たちの間で、あの日来れなかった九組のクラスメイトには全員話を付けることができた。そして、隼人と昴のおかげで学校側にも申請を通すことができた。あとは、今日の主役である香坂先生。先生が来るかどうかは、鈴木先生に一任していた。後日、説得に成功したと一方があったが、当日来るかどうかという確約はない。精神的な闇は、その日その時によって形を変える。空模様のように、晴れ間を覗かせるときもあれば、気づけば分厚い雲に覆われることもある。
「来ると良いな......ほんとうに」
虎太郎は先日の場にいなかったので、先生の近況について詳しい所は分からない。しかし、零士の顔色を見るに、何となく動向を察することができた。今の彼の言葉に込められた意味を汲み取り、虎太郎は不必要な発言は避けるよう心掛けた。
すると、校庭の奥からしんちゃんや昴、それから恵那や澪たちとこの前は来れなかった数人の姿が見えた。
「零士! 零士ー!」
しんちゃんは零士の姿を見つけるなり、手に持ったチョコバナナをぶんぶん振り回して呼んでいる。
「ちょ、しんちゃん、バナナ吹っ飛ぶから」
もう年齢で言えば三十に近いというのに、その姿は十年前の教室のままだった。それはきっと時が止まっているのではなく、あの教室での時間がそれぞれの体の奥に宿っていて、今日それが呼び起こされたのかもしれない。
「そろそろ準備しに行くよ、ほら。行くよー」
しんちゃんのおふざけもほどほどに制して、九組の生徒たちはいよいよ教室へと向かう。校舎には西日が差していた。
「あ、茜! おつかれー!」
練習を終えて駆けつけてくれた茜も揃い、皆は十年ぶりに九組の教室へと入った。あの頃と同じ、二階の一番奥の教室。入口の扉の上には「三年九組」という札が当時と変わらず掲げられていた。
教室に入ってしばらく、皆は言葉を出さずに教室を眺めた。西日の差し込む教室は薄暗く、オレンジの光だけが並べられた机を照らしていた。チョークの粉が少し残った黒板のサッシ、黒板には何かを消した跡が少し残る。少し傷のついた教卓も、懐かしみを帯びていた。
「みんなお待たせ―」
その声に皆が振り向くと、台車に数個の段ボールを積んで持ってきた喜一がいた。
「たくさん装飾持って来たよー」
喜一は校庭でやっている閉校式で余った資材を町会の人に分けてもらえないか頼みに行ってくれていた。その資材を開けて、皆教室の飾りつけに取り掛かる。
「なんか文化祭みたいだよな」
虎太郎が言うので、零士は振り返って教室を見渡す。黒板にアートを書いたり、壁には風船、折り紙で作ったガーランドを窓際に張り付けたりもしている。零士の目に映るのは、十年前に見られなかった景色だった。
「おいおい、泣くのは早いよ?」
「泣いてないし」
虎太郎が茶化してくれたので助かったが、零士は熱くなった目頭を軽く抑えた。
「お、やってるやってる」
遅れてきた隼人と悠斗も合流して、準備はクライマックスになっていく。傾いていた太陽は、もう間もなく今日の役目を終えようとしていた。その時ちょうど、隼人のスマホに一報が入った。
「鈴木先生、樹里ちゃんと合流できたって!」
その一言で、場の空気は一気に盛り上がった。小さな不安があった零士も、それを払拭することができ、安堵の息をつく。窓の外には一番星が輝いて見えた。
それから数十分して、装飾は完成した。あとは先生たちがやってくるのを待つのみ。しばらくして、遠くからコツコツと歩いてくる音がする。その音は、十年前の春に聞いた、二人の足音だった。
扉がガラリと開き、まずは鈴木先生が入ってくる。そして鈴木先生はすぐに、教室の後ろへと捌けた。そして、次に九組の生徒たちが目に映したのは、待ちに待った者の姿だった。




