贈る言葉 -かけがえのない景色-
「はい、はい......そうなんですね。はい......ひとまず大事にならなくてよかったです。はい......ゆっくり休んでください。はい、お大事になさってください。失礼いたします」
「どうだ、嵯峨の様子は」
嵯峨君のお母さんからの電話が切れたと同時に酒々井先生が職員室へ駆けつけた。
「ひとまず、大事には至らなかったそうです」
連絡を入れてすぐに迎えに来た嵯峨君のお母さんが病院に連れていき、診察を受けることとなった。結果、睡眠不足やストレスなどの過労からくる発熱、貧血を起こしたらしい。
「今は安静にして、休息をとるのが優先だそうです」
「そうか、文化祭の直前だっていうのに。気の毒だな」
「そうですね......嵯峨君、人一倍頑張っていたので」
私も酒々井先生もやりきれない気持ちに駆られる。すると、九組の武田君が職員室にやって来た。
「武田君? どうした?」
武田君は私に少し話があると言って、廊下へと呼び出した。武田君は嵯峨君の友達で、彼のことを一番理解している生徒だ。
「あ、あの......零士、大丈夫ですか?」
「......うん。ちょっと疲れがたまってたみたいで。でも、もしかしたら当日には間に合わないかも」
武田君は神妙な面持ちで、辛そうに話を聞いた。きっと彼も、嵯峨君の頑張りを横目で見てきた。嵯峨君のことを思えば、同情するのも気が引けるだろう。しかし彼はそれ以上に、事の真相を知っているようだった。
「......何かあった?」
私が聞くと、武田君は涙目になりながら、文化祭実行委員のこと、それから知り合いの実行委員に聞いた、嵯峨君が倒れる前にあった騒ぎのことを打ち明けた。
「俺、あいつが実行委員長やりたくて、三年間ずっと頑張ってきたの見たので、新井が委員長になったって聞いて、零士大丈夫かなって思ってたんです。でも、意外と気持ち切り替えてやってるから、零士強いなって思ってたんですけど......俺、気づけてなかっただけなんですね......」
私はふと、夏休みの嵯峨君の様子や、それ以前の彼の様子を思い出した。いつも仕事に追われながら、手には資料。そして藤代君たちと話しただけで、目に涙を浮かべていた。彼の背負っていたものは相当な大きさだっただろう。しかし、それを全て否定され、挙句の果てに絶望を突きつけられた。張り詰めていたものがその拍子に弾けてしまい、その影響が体に及んでしまった。
「そっか。教えてくれてありがとう」
ひとまず、武田君は準備へ帰してあげた。それから私は、校内を歩いて回った。体育館の舞台、中庭のメインステージ、教室棟のクラス企画、文化部の展示企画や、受付本部や外来管理の運営局、それから色鮮やかな装飾たち。陽川高校の敷地一帯が特別感で満ち溢れ、生徒たちは皆、笑顔や各々の思いに没頭している。この舞台を創り、この思いを創ったのは、紛れもない、嵯峨君の頑張りのおかげ。
(この景色、自分の目で見ないと)
明日は来れないかもしれない。でも、明後日なら......。たとえ、世界のほとんどが見えるものを賞賛したとしても、私は、そして九組のみんなは、あなたのことを、あなたの叫びを受け止めて、すくい上げてくれるから。
私は九組の教室に向かう。九組の企画のメイド喫茶も、準備は佳境を迎えているようだった。その中かから私は、再び武田君を呼び出した。
「ねえ、武田君。さっきの気持ち、嘘じゃないよね?」
「......はい、俺にできることがあれば、したいです」
私はそれを聞いて頷いた。これは、九組にしかできないこと。あなたたちにしかできないこと。
「あるよ、嵯峨君にできること」
やはり体調が回復しなかったのか、文化祭初日は嵯峨君の姿は見えなかった。そして二日目にして最終日。
「いらっしゃいませー、間もなく完売になりますー!」
九組のメイド喫茶は好調の売れ行きで、二日目の半ばにして売り切れを目前にしていた。
「いらっしゃいませー、って樹里ちゃん!」
昨日は別の用事で手が離せず、やっとこの時間、顔を出すことができた。
「みんなー! 先生来てくれたよー!」
受付の茜の声に、皆はわざわざ手を止めて手を振ったりして反応してくれた。
「ご注文はいかがしますか?」
声の方へ目を向けると、武田君がメイド姿で立っていた。普段は見ることのない姿なのに、さほど酷くもない絶妙な仕上がりに吹き出しそうになった。
「なかなか様になってるじゃん」
笑いをこらえる私に、武田君は頬を赤くした。
「それで、嵯峨君はどう?」
昨日何枚か写真は送ったそうだが、特にいい返事はなかった。武田君もむやみにするのは違うと思って、それ以降声はかけていないそうだ。
「でもやっぱり、零士に見て欲しいっす。最後だし」
武田君は注文したアイスカフェオレと豆菓子を持ってきてテーブルに置く。
「それじゃあ、最後に一言だけ、声をかけてみれば?」
武田君は頷いて立ち去ろうとする。男性的な骨格がゆるふわコスチュームから覗く後ろ姿を見ると、やっぱり一言いじりたくなってきた。
「え、萌え萌えキュンはしてくれないの?」
私の冗談に「やったら次の数学の試験ニ十点プラスしてくれますか」と返してきたので、ひとまず武田君の様子には安心できた。
文化祭も終盤に差し掛かり、校内放送でグランドフィナーレとなる後夜祭のお知らせが流れ始めた。後夜祭は中庭のメインステージに有志のバンドやパフォーマンスが披露され、最後には実行委員長の締めの言葉もある。二日間の集大成として、多くの生徒たちは気持ちを共有すべく中庭へ集う。
私は人の波に捕まらないように少し外れたところにいた。すると、廊下の奥の方に見覚えのある人影が見えた。
「もしかして......嵯峨君」
私は嵯峨君の方へ向かおうとすると、後夜祭が始まり、バンドの生演奏が大音量で敷地内に響き渡った。中庭の近くに集った全校生徒が、バンドの演奏を合図に足を止めたので、なかなかたどり着けない。私が人をかき分けて彼にたどり着く頃には、バンドの演奏は終わっていた。
「それでは、最後に、実行委員長の新井君より、一言もらいたいと思います」
中庭のステージに上がったのは、皆の星。眩しく輝きを放つ彼に、全校生徒は賞賛の嵐を送った。そして嵯峨君もまた、彼の姿を見ていた。きっと、見たくないはずなのに。
「最高の、最後の文化祭が作れて、これ以上無いです! ありがとうございました」
その言葉は誰よりも、嵯峨君が言いたかったはず。それでも嵯峨君は、自分の傷を抉るのを承知で、新井君の演説を逃げずに聞いていた。そんな彼に私はなかなか声をかけられずにいる。今彼は向き合おうとしているのか、それとも、呆然としているのか。その時、嵯峨君の目から涙が零れた。それから呟く。
「もう、どうでもいいや。どうでも......どうでも」
小さな叫びは、中庭に集う生徒たちには聞こえない。歓声や、拍手の音にかき消され、空気に消えていきそうになっていた。でも、私は、聞こえた。消えゆく嵯峨君の叫びを急いで掴んで、私は彼の肩に手を置く。
「こんな話、聞かなくていいよ」
「先生、そんなこと言っていいんすか......」
ここにいる人たちには届かなくても、私が信じる場所は、きっと、私に聞こえた叫びを受け止めてくれるから。
「行くよ」
私は嵯峨君の手を引いて、一心に九組の教室へと向かった。
「みんな、来たよ!」
私の声に九組の生徒たちはパッと笑顔を咲かせて、彼を迎え入れる。武田君は「おかえり」と嵯峨君を手で招き、プロジェクターの前に座らせた。これが武田君の、私たちのできること。私が嵯峨君に贈るのは、言葉を超越した、かけがえのない景色。
「それじゃあ続きいくよ」
プロジェクターに映るのは、神田君の姿。この舞台の名は『ペネロペの罪』。一度幕を閉じた舞台を、嵯峨君の手で復活させた。つまりこの舞台は......。
「なあ、零士。このステージは、零士が作ってくれたんだぞ」
沢村君と神田君が言う通り。そして、嵯峨君が作ったのはこれだけじゃない。藤代君は九組を連れて、後夜祭から帰る生徒の波を逆らった。もちろん、戸惑う嵯峨君も連れて。そして彼らは中庭に出た。二日間の熱気の残り香がまだ感じられる。夕日に映える装飾に、九組の生徒たち。
「お前が作ったんだぞ」
武田君は嵯峨君の肩に腕を回し、小突いて笑わせた。それからまた、泣いた。
「ほら、零士。最後の言葉」
藤代君に促されるまま、嵯峨君はステージへと上がった。彼は溢れる涙を何度も拭って、ぐちゃぐちゃになった顔で九組のクラスメイトを見る。そして大きく息を吸って、叫んだ。今度は歓声に消えないくらいに強く。
「......最高の文化祭になりました!」
その時、涙を浮かべたのは嵯峨君だけじゃない。この先受験や進路決定があって、気がついたら残りの半年なんて消えていく。その月日は、今までのように輝いていなくて、灰色の、重苦しい時かもしれない。それでも、今日この日の景色を、この四十人は忘れることはなかった。そして私も、忘れることはないと誓った。




