八月の終わり
夏の朝といっても最近は太陽が昇り始めればもう暑くなる。夏休みに入って一週間が経ち、今週から三年生向けの補習が始まる。予備校に通っていない人や、まだ部活が残っている人はこの補習をとるのが恒例だった。
「あ、先生!」
後ろから呼び止められて振り返ると、そこには嵯峨君がいた。
「この前、悠斗から連絡来ましたよ、文化祭のステージの件」
「あ、ほんとう? それはよかった。ありがとうね、調節してくれて」
「いえいえ。それじゃあ、自分は補習に行きます」
「うん、また数学の補習で」
嵯峨君も受験組だが、文化祭実行委員の仕事もあるので、彼もまた学校の補習を取っていた。彼の背負うリュックは荷物がたくさん入っていそうだ。彼の忙しさが伺える。
数学の補習は昼前のコマで、参加率はそこそこだった。もちろん、嵯峨君の姿もある。部活にイベント、最高学年として背負うものが色々とある中、進路決定においても彼らの夏は重要な局面に差し掛かっているのを、彼らの勉強姿からも受け取れた。
「はい、じゃあ数学の補習はここまでにします。お疲れ様でしたー」
私は補習中にインクが切れてしまった赤ペンを買いに行くべくコンビニに繰り出す。夏のこの時間に外を出るのは、なかなかの地獄だった。その道中、最寄駅からの道を歩く藤代君たちの姿が見えた。
(そっか、今日は文化祭準備があったっけ)
コンビニから戻ると、私は昼食がてらに九組を覗いてみることにした。扉をガラリと開けると、嵯峨君の他に先ほど見かけた藤代君や茜、篠原さん、それに沢村君と復帰した神田君の姿もあった。
「お、みんな集まってるじゃん。お昼は食べた?」
「まだでーす」
「じゃあ一緒に食べようよ」
生徒たちは快く私を迎え入れ、一緒に食卓を囲むことになった。
「それじゃあ、いただきまーす」
初めて教師の肩書を背負い、この学校に赴任してから四ヶ月。そして担任になってから三ヶ月。目まぐるしいほどに色々なことがあった。経験が浅かったり、私の手際の悪さで迷惑をかけてしまったこともあっただろう。しかし自然と、九組の生徒たちは私を受け入れてくれた。
「えっ、零士、どうした?」
ふと神田君が嵯峨君の様子に気づく。嵯峨君の目は何故か、塗れていた。その目を見て私は、五年前のあの日を思い出す。
――お兄ちゃん?
暗闇の中で青い光だけがポツリと灯り、打ちひしがれる兄の黒い背中。嵯峨君は今......。
「あっ、いや、これは......うん、なんでもない。大丈夫」
「零士、仕事しすぎで疲れてるんじゃないの? 俺たち手伝えることない?」
「......ありがとう」
あの時、私は兄にどうすることもできなかった。今度こそ、守りたい。きっと、何かがあっても、この教室だけは、心を休められるような場所に。
教室の電気をつけていなかったので、入道雲に太陽が隠れて暗くなる。窓の外に見える園芸部の畑が風で靡いていた。
それから着々と文化祭の準備は進み、クラスも学校も少しずつ色を変えていった。そしてあっという間に八月が終わろうとして、二学期が始まる。とはいえ、最初の土日が本番なので、この一週間は授業ではなく文化祭の準備に生徒たちは勤しむ。
「私ちょっと教室の方見てきますね」
「えーいいなあ」
「戸田先生も行けばいいじゃないですか」
「だって今度の面接練習のスケジュールが組み終わってないんですもん」
ぼやいている戸田先生に私はチョコレートをひとつ差し入れして、九組の教室へ赴いた。
「みんなやってるー?」
少し中だるみの空気もあったのか、私が顔を出して息を吹き返したようだった。すると神田君に呼ばれ、私はそちらへと足を運ぶ。
「ちょっと一瞬買い出し行かないとでさ、篠原さんとこの作業やってほしいんだけど、手伝ってくれる?」
神田君の相変わらずの愛嬌に負け、ちょっと顔を出すつもりが、私はつい座って手伝うことになっていた。篠原さんは黙々と作業を続ける。この前の進路面談以来に二人になったので、最近の様子を聞いてみることにした。
「それで、最近どう?」
「うーん、普通かな」
「そっか」
面談の後、篠原さんは進路を大学進学に決め、予備校にも通いだしたと聞いた。夏休み中、文化祭の準備の合間に勉強をしているところを何度か見かけたので、本人もきちんと覚悟を決めたのだろう。すると、篠原さんの声色が変わった。
「あのさ、樹里ちゃん」
「なに?」
「樹里ちゃんは優しいって思う? 自分のこと」
優しい? 随分と抽象的な質問だった。
「難しいね、その質問は」
横目で篠原さんを見ると、その抽象的な話の奥に、彼女の本当の話したいことがあるように見えた。
「先生、あのさ」
心を露にするのには、少し賑やかすぎる気がした。私は篠原さんに、少し場所を変えようと提案した。




