贈る言葉 -惑星になる-
梅雨寒の日が続き、長袖の羽織物が必要な日々。先日の高瀬さんを皮切りに面談も順調に進んでいる。しかし、期限を過ぎてもなかなか進路調査が提出されない人がいた。
「篠原さんと......沢村君......」
今回はスケジュールとともに進路先の記入もお願いしている。恐らくまだ、決めかねているのだろう。私も進路には悩んだ。唐突に岐路に立たされ、この先一生のルートを今、決めろと言われる。それを二つ返事で決めろと言われても無理がある。気持ちは十分に共感できた。
「香坂さん、今日から留学生来るので、挨拶だそうです」
他の先生に呼ばれ、私はクリアファイルを閉じて、先生方の集うところへ向かった。
インターハイ予選まで約一ヶ月。陽川高校は昨年の新人戦で好成績だったので、地区大会を免除し県大会から登場するシード権を手にしている。この一ヶ月、三年生にとっては集大成の期間になる。職員会議を終えた私は、足早に体育館へ向かった。
「はい、はい!」
「パスのスピード上げて! 足動かす!」
春とは違って、梅雨の体育館には私の声が目立つ。それは私が練習に入っていくようになったからでもあるが、それ以上に、太陽が分厚い雲に覆われているからだった。まるでこの頃の天気のように。
「じゃあ十分休憩」
給水の時間も、前とは違った。咲や美聡は相変わらずだが、その輪に茜がいなかった。また、憧れの眼差しを向けていた後輩たちも、今やすっかり茜を恐れているようだった。畏れではない。恐れだ。チームの雰囲気は明らかに異変ではあるのだが、私は特段そのことについて皆の前では言及はしなかった。
「じゃあねー」
部員たちを見送って、最後に部室を出てきたのは茜。私は、茜にアイコンタクトをとった。
「何かありましたか? あ、今日の練習のこととかですかね」
茜は必死にいつもの部長を演じているようだった。私は首を横に振り、茜を教官室のソファに座らせた。
「ちょっと時間ある?」
茜は何のことだろうと怪訝そうながら頷いた。私は皆の前で取り上げなかった話題を話すべく、例のノートを取り出した。栞を挟んでいたのはこの三か月間の茜を私なりに綴ったページ。茜はこのノートの正体を知りたそうにしていたので、私はやっと打ち明けた。
「私、この三ヶ月、皆のことを見て、ここにメモして分析してたの。もちろん、茜のこともね。それでさ」
でも、ここに書いてあるのは私から見た茜。それだけでは見えない部分がある。茜の声で、今茜が見えている景色を知りたかった。
「今の茜の、声を聞かせて。心の声」
まっすぐに伸ばした私の視線は、ゆっくりと茜の心を解していった。その鎧の綻びから、ひとつ、彼女の本音が滲み出る。
「......私は、戻りたい。ただ、純粋にバスケをすることが楽しかった、あの頃の私に」
そのたった一つの願いは、私の心にも染みた。その気持ち、忘れてはいけない初心。どんな逆境に立たされても、まだ茜は、希望を捨てていなかった。孤独の星に、たった一つの光を。
「私は、キャプテンをやめたいわけじゃない。エースの荷を下ろしたいわけじゃない。むしろ、やりきりたいです。......でも、今の私には......私は、キャプテンしっか......」
「茜!」
それ以上言わせない。茜は、彼女はまだ終わってない。こんなにも強くあろうとして、傷ついても、押しつぶされそうになっても、光を手放さなかった。その光を私は失わせたくない。
「今その言葉を言ったら、もう、戻れなくなるよ。あの頃の自分に」
「樹里ちゃん......私は、見えない。自分のことが......」
茜は声を震わせる。その震えは、涙とともに溢れ出した傷と、茜の背負うプレッシャーの重み。そしってそれは、五年前に同じ背番号を背負った私も、抱いていた。
「苦しいよね、エースとか、キャプテンとか」
茜は初めて、自分の心を代弁してくれた安心感でポロポロと粒を落とす。私はタオルを差し出して、そっと彼女の肩に手を置いた。
「......うん、私は......っ......隼人みたいに輝けない......」
そっか、茜と藤代君は付き合いが長いんだっけ。確かに、リーダーとしてみれば彼が光のように感じて、その分自分を影だと思ってしまうかもしれない。逆境を乗り越え、立派に学校へ戻ってきたから余計に。でも、私は彼の弱さも見た。
「......藤代君、凄いよね。でも、彼は、決して自分のことを強いなんて言わないと思う。彼も、自分を認めてあげたから、また歩き出せたんだ」
「隼人が......?」
茜は顔を上げる。私は一ケ月前に目にした、彼の涙を思い出す。
――俺は......っ......俺のままでいいってこと......?
彼もまた、皆のリーダーを担うべく、鎧を着た。でもその内側は、柔らかく、尊い、ひとりの人間だった。
「うん。エースだってキャプテンだって、弱さも傷も抱えてるし、自分で自分の背中なんて見られない」
私も自分を見失いそうになった。そんな時、信じたのは......。
「そんな時はさ......」
先輩が教えてくれた、かけがえのないもの。私たちは、ひとりじゃない。私たちは、恒星ではなく、惑星になるんだ。孤独に光るのではなく、光を共に共有して、共に輝く。
「素直に、聞いちゃえばいいんだよ。だって、咲も美聡も、信頼できる仲間なんでしょ? 二人の前で、百獣の王でいる必要は無いんじゃない?」
茜に贈るのは、それを思い出させる言葉。
「きっと、二人も待ってるよ。茜のこと」
それを聞いた茜はやっと自分を曝け出して、めいっぱい泣いた。まるで子供のように、そして、あの頃に戻るように。それから一礼して帰っていった茜の後ろ姿、私が見たのは、春の頃に見たような大きな背中だった。




