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贈る言葉 -小さな願い-

 あの頃、私には皆が持っている感情が持てなかった。その時が来ると信じて待っていたけど、来なかった。寂しくて、欠けている気がして、間違っている気がした。でも私には、ひとつ力強かったものがあった。


「私の高校時代は、感染症が大流行したから、たぶん一般的に想像される高校生の青春ってのはあまりなくて、そこか人が近づきにくい環境だったんだ。でも私は正直、あの環境が心地よかった」


 当時を思い出しながら、私の心の内を明かす。未曽有の事態に誰もが混乱していたとき、必然と人の距離が空いた。それは人間関係にも反映して、きっと今まで以上に、人と人が触れ合うことが難しかった。でも私はそれが、ちょうどよかった。私だけが取り残されている気がしなくて、自分の欠けているところを世界のせいにできた。


「でもやっぱり......」


 茉莉たちとの会話。そこにはきちんと、高校生らしいものがあった。それを話している時間も嫌いじゃなかった。今でも大切な記憶。でも、その舞台に私は上がれなかった。私は口にしたお茶をテーブルに置き、その表面を見つめた。


「それが私のことって思うと、分からなかった。誰かを好きになるとか、付き合いたいとか、そういうの全部」


 藤代君の目が段々と色を変えている。瞳は細かく震えていた。


「先生も......好きって何か分からないんですか......」


 私は今までで一番小さな藤代君の声を聞いた。間もなくして涙を一筋流す。


「わからない。でも、私は、わかるフリをしたの」


 私は茉莉や芽衣たちに合わせ、いち女子高生を演じた。先輩のことが好きみたいな、ありふれた高校生を。それは、君も同じでしょう?


「嘘ついたの。あの子が好きなんだとか、あの子と付き合いたいとか。そうすれば、周りに浮かないし、空気も喜ぶでしょ?」


 私が先輩を好きだというと、茉莉たちはこぞって楽しそうに話してきた。別にそれだけの関係じゃないけど、間違いなく、空気は喜ぶ。時代も、環境も、境遇も違うだろうけど、きっと藤代君も、空気のために、周りのために、そして第一に自分を守るために、藤代隼人の鎧を着ているのではなかろうか。


「段々、社会的にも色々な言葉が生まれて、私も納得するセクシュアリティが見つかった。私の場合はアロマンティックかな。でもね、私思うの。それは言葉に過ぎないし、ストレートじゃないからってカミングアウトする必要もない」


 私が藤代君に贈る言葉。それは、私の二十数年生きた道から芽生えた小さな願いだった。


「できるだけ嘘はつかない方が良いけど、できるだけでいいんだよ」


 彼はその瞬間、堰を切ったように涙を溢れさせた。


「俺は......っ......俺のままでいいってこと......?」


  彼の小さな叫びが聞けた。それは確かに、心の奥底からほろりと落ちた、本心だった。私はゆっくりと頷く。すると彼は涙を拭って、私に視線を合わせた。その目はさっきとは違う、澄んだ色をしていた。

綺麗な目だった。


「......先生が前に、学級委員やりたくないでしょって言ってきた時ありましたよね。あれ、図星でした。俺は......きっと学級委員になることで......普通の男子高校生になれるって......そうすればみんなのリーダーになって、昴たちと同じ輪に括ってもらえて......自分はおかしくないって思えてた......でも本当は普通じゃない......」


 彼がやっと鎧を脱いで、生身の藤代隼人で心を開けた。でも私はそこで彼の言葉を止めた。ここから先、聞いて受け止めるのは私じゃない。彼の道に光を示すのは......。


「話したい人にだけ、話せばいいんだよ。藤代君が選んだ人なら、きっと受け止めてくれるから」


 その時、ちょうど藤代君のお父さんが部屋に戻ってきた。その背中の後ろには、もう一人いる。私はその者と視線を合わせ、頷いた。


(君たちなら大丈夫)


 荷物をまとめ、私はお父さんに挨拶をして藤代家を後にする。最後に一度だけ藤代君と目が合ったので、私は少しばかりの力を贈った。






 中間試験も終わり、あっという間に五月が過ぎ去っていった。この学校に赴任してからはや二ヶ月、そして担任になってから一ヶ月。できるかできないかではなく、やるかやらないかという天秤に全てをかけるようにしてここまでやって来た。生徒たちの顔を見て、空気を見て、真っ直ぐに向き合う。それっぽい偽善の言葉ではなく、心の扉を開いた距離感を。その姿勢が少しずつ、生徒たちの間でもよく受け取られるようになってきて、調和が上手くとれるようになってきた。


「はい、みんなおはよー」


 教室に入るとちょうど目の前に藤代君と日高君がいた。藤代君はまたあの時に戻ることができたようだ。その鎧は、今度はしっかりと彼の身に馴染んでいる。


「藤代君、日高君おはよう」


「おはようございます」


 二人は目に己を宿した笑顔で、挨拶を返す。それを見て私は、ひとつ肩の荷が下りた。


 定期試験が落ち着くこの時期から、始まることがある。それは二者面談。三年生の二者面談は、主に進路について確認をとる。


「今日から面談があるのと、今日のロングホームルームは文化祭のクラスの出し物について話し合いをしてください。OK?」


 私は調整し終えた面談の日程表を黒板に貼る。私も改めて、面談の順番を確認した。


「今日の面談は......高瀬さんからかな」


 藤代君の一件、そして最近距離感がうまく掴めてきたことから、九組の他の生徒たちにも観察眼を向けるようにしてみた。そうして見ると、九組は実に色の豊かなクラスで、かつクラスとしての結束力も近年にしては強く感じた。私が高校生活を過ごしたのがあのコロナ禍で、ろくに行事もなくうやむやに卒業せざるを得なかったがゆえに、余計に光って見えるのかもしれない。ただ確かに、羨ましくもあった。

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