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目の前の君と

 中間試験の問題も作り終わり、今日からいよいよ担任としての生活が始まる。今朝は五月晴れで、縁起は良さそうだ。


「おはよう」


 ホームルームに入ると、生徒たちはガラガラと席に座り始める。そんな中、今日は人の影が見えない席があった。その席は、藤代君だった。






「先生―、隼人今日も休みなんすか? 最後の大会なのに部活にも来ないし」


 翌朝も彼の席は空いていた。彼と同じ剣道部の日高君が寂しそうな目で訴えかけてくる。


「うん。体調不良って連絡入ってたよ」


 一応、彼は音信不通の無断欠席というわけではなかった。きちんと保護者から正当な欠席連絡があるので、それ以上詮索する意味はない。しかし確かに、彼のいない教室はどこか、欠けている気がした。きっと日高君も同じ気持ちなんだろう。


「香坂さん、藤代って今日も休みっすか?」


 職員室に戻ると、戸田先生が話しかけてきた。


「はい、体調不良らしくて」


「まいったな、学級委員長に仕事の依頼が一個あったんすけどー、まあ副委員長に回しますわ」


 なんだか申し訳なく思ってから、なぜか戸田先生がトリガーになって、ふと、この前の藤代君の噂話が脳裏に過った。あの時、詳しくは聞こえなかったけど、何となく胸騒ぎがした。その時と同じざわめきが心に蘇る。彼と話した時、彼が抱えていたもう一つの顔。それはもしかしたら本当の顔かもしれなくて、いつもは「藤代隼人」という鎧を身にまとっているのかもしれない。そう思うと、私の心にすとんとひとつの答えが降りてきた。


――休みの理由、別にあるんだ。


 一限のチャイムが鳴り、校舎は静かになった。私は職員室の窓から、少しの間、遠い目で空を見た。彼の叫びを聞いて、その気持ちも理解できた。私にはあと、何ができるんだろう。思いつくのは一つしかなかった。私をそこに歩かせる、それだけだ。



 放課後、少しでも藤代君のことを知れたらと、誰かに話を聞くことにした。その話を聞く相手として選ぶのは、もちろん日高君一択。部活やクラス、藤代君といる時間がいちばん長いのは彼のはず。私は彼に会うべく、部活前に剣道部の道場に向かおうとした。その時、


「うわっ」


 段差に気を取られ、下の階から駆け上がってきた一人の生徒とぶつかった。彼も驚いているが、その顔を見て私も驚いた。


「だ、大丈夫? 日高君」


「すみません、大丈夫です」


 一目見れば、彼の様子が変なのは分かった。額に汗が滲み、その目は今にも泣き出しそうで、積もったものが込み上げてきているようだった。


「どうしたの? 何かあった?」


 私が声をかけると、彼は切らした息を整えながら、私に縋るように言った。


「先生、一つお願いがあるんです。……先生! 隼人に伝えて欲しいんです」


 それから彼は、藤代君に起こっていること、例の噂の詳細を話した。彼はいつも素直で、裏表が無いような生徒だった。そんな彼が必死に言葉をぶつけてきた。彼が打ち明けた、藤代君を襲う妙な噂。それを疑う余地はなかった。


「……でも、俺は……そんなのどうでもよくて。俺は俺が見てる隼人が隼人だし……その隼人は何を隠してても、俺が見てる限りは、隼人なんだよ……なのにさ……」


 日高君は言葉を詰まらせた。私は彼が並べる言葉に涙腺を刺激された。なんと綺麗で高尚な気持ちなんだろうか。


「日高君は、藤代君にどうして欲しいの?」


 私は最後に、彼の奥底の気持ちを引っ張り出す。


「……戻ってきて欲しい。一緒に授業受けて、昼食べて、喋って、稽古して……俺の毎日に、親友としていて欲しい……」


 その時、私はひとつの道が見えた。彼を救う光は、この言葉かもしれない。それは、私がいくら伝言しようと、伝わらない。日高君のその口から紡がれて初めて、光になる。


「わかった。でも伝えるのは私じゃない。日高君の言葉で伝えて、日高君の耳で、藤代君を受け止めな」


 私はポケットからハンカチを出して日高君に渡した。彼はそれを受け取り、溢れた感情を拭いた。






 翌日、私は放課後に藤代家へ向かった。そこに至るまでに、私もわかったことがあった。調査書から藤代君は片親で、お父さんが男手ひとつで養っているそうだ。家庭がどうこうという話に結び付けたいわけではないが、彼なりに、父親に心配をかけぬよう育ったことが、今の彼の鎧を形成したのかもしれない。


 家に到着すると、ちょうど藤代君のお父さんが出迎えてくれた。お父さんの顔は昭和の男前な顔で、そのキリっと整った顔は、藤代君を彷彿とさせた。


「あ、どうもこんにちは」


「すみません、突然。時間大丈夫でした?」


「とんでもない、ちょうど帰宅したところです」


 私は周りを見回す。帰りのホームルームで見たきり、日高君の姿は見えなかった。彼が来るかどうかは分からない。でも私は心配はしていなかった。彼に委ねた行く末は、きっと。


 藤代君のお父さんは私をリビングへ案内した。


「今、隼人連れてくるんで、ちょっと待っててください」


 その間、私はぼーっと外を眺めた。閑静な住宅街に、時々近所の人だろうか、歩く人影があった。少しばかり眺めていると、遠くの方に見慣れた制服の男子が見えた。私はそれを見て、胸をなでおろした。


「えっ......?」


 声がしたのと同時に扉が開いた。そして数日ぶりに彼の姿を目にする。寝癖が少しついていて、いつもよりも少し、人間らしかった。それからお父さんは一言添えて、私にお茶を出した。


「すみません、早速なんですが......藤代君と二人で話させていただけませんか?」


 私はまず藤代君の鎧をしっかりと外してあげようと思った。きっと、場の人数は少ない方が良い。お父さんは快諾し、リビングを後にした。


「先生、今日はどうしたんですか」


 その時、外していた鎧を藤代君は急いで身に纏った気がした。これでは教室で話すのと変わらない。今日、私が向き合いたいのは、()()()()ではなく、目の前の君。私は彼がその気になるまで少し時間をかけてから、話を切り出した。


「とりあえず、元気そうでよかった」


 まずはありふれた話で場の空気を作った。彼も拍子抜けしたようで、いつもの調子を崩しているようだった。それでも並べる言葉は、藤代隼人の言いそうな言葉だった。きっと何か警戒しているのだろう、心の扉は重いままに見えた。それなら私が......。


「今日来たのは、何か探りに来たというか、そういうのじゃなくてね。そうだな、まず私の話をしようと思って」


 それから私は記憶を遡らせる。沢山のしまわれた記憶の棚の中からひとつ、私を形作る記憶を引っ張って、扉を開けた。


「私ね、恋人できたことないんだ」

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