岐路
私はノートを開き、コーヒーを飲みながらにらめっこした。先日のスプリングカップの大敗、そして茜のあの背中。今でも脳裏に焼き付いていた。
「あ、おはようございます教頭」
「おー、ちょうどいい所にいた。香坂さん、ちょっといい?」
朝からなんの話だろうか。ゴールデンウィーク明け初日から教頭に呼び出されるとはあまり良い予感がしない。
「このゴールデンウィークで色々あってね、まだ詳しい話は聞いてないよね?」
「詳しい話?」
ゴールデンウィークはすっかり部活の方で忙しかったので、私はさっぱり何の話か見当がつかなかった。
「鈴木先生の話なんだけど」
私は教頭と目が合う。教頭は静そうな表情をしていた。
「先日、倒れてしまって。今、入院してるんだ」
た、倒れた? ......にゅ、入院? 私にはまったくかみ砕けなかった。
「え、大丈夫なんですか? いや、大丈夫じゃないか......」
「あ、まあ今すぐに命がどうこうとかそういう話じゃないから、いったん落ち着いてもらっていいんだけど」
ひとまずその言葉が聞けて良かった。突然早まった鼓動を落ち着かせて、私は教頭の次の言葉を待つ。
「でも、今年いっぱいは休養をとらなくちゃいけなくてね。それで普通はありえない話なんだけどさ、人手不足ってのもあったり、あとは期待も込めてってことで」
私は唾を飲んだ。教頭は今、ありえないことを言おうとしている。絶対。
「来週から、三年九組の担任になってもらいたいんだ」
せっかく落ち着いた鼓動が、あっという間に耳で大きく鳴り響いた。
私は手に、一週間前は予想だにしてしていなかったことの書かれた手紙の束を持ち、六限に向かう。六限に九組の数学の授業をした後、帰りのホームルームでとうとう公表となる。その日の数学の授業は、表ではいつも通り進めていったが、額には嫌な汗がにじんでいた。
三年生という進路において岐路となる節目の年、そして彼らにとって最後の高校生活。そのうちの一つ、九組の運命を私が背負う。そんな重大な役目を私は果たすことができるのだろうか。親御さんたちはどういう反応をするのだろうか。新米のまだ右も左も分からない私に、大事な我が子を預けることにきっといい顔はしないだろう。
「よし、じゃあ今日はここまで」
ちょうどチャイムが鳴り、六限を終わらせたところで、携帯に一件メッセージが届いていた。
《樹里なら大丈夫だよ》
それは仕事の合間に送ってくれた兄からの一言だった。実は、教頭の打診に返事をする前に、兄に電話で相談していた。その時、兄は全てを肯定するわけでも、無責任な応援をするわけでもなく、そっと背中に手を置くように、話を聞いて静かに見守ってくれた。その一つの手が、首を縦に振るきっかけになったのだ。
私は兄の言葉を見て、覚悟が決まった。正直、そんなすぐに割り切れる話ではない。しかし、鈴木先生のためにも、そして私の今後のためにも、これは越えるべき大きな試練だ。もし上手くいかなくても兄や仲間がいる。そして私は前を見た。何もない、いつもの教室の風景。一日を終え、帰りの支度や部活の準備、各々の境遇と気持ちを抱え、時を同じくする九組の生徒たちを見て、心に灯がともった。
――絶対に、無事に卒業させてみせる。
抱えているものも、漠然とした不安のある未来も、全てともに歩こう。レールを共にするわけじゃない。なるべく近くで、同じ目線で、レールを平行にして、桜を見るまで。
「はい、ってことで帰りのホームルーム始めます。えーっと......ま、まず最初に、この手紙を回して」
やはり、多少は震える。きっとこの先、この子たちの様々な色を目の当たりにするのだろう。その色に、優しく灯る標になりたい。
「鈴木先生が急遽、今月からお休みに入ることになって、僭越ながら......」
カーテンが揺らいで西日が私の頬を照らした。
「明日から、私が三年九組の担任になります」




