十年前の春へ
「先日、夢を見たんです」
「夢?」
樹里はそれから、先日夢に見た自分の高校時代の過去を語りだした。それは、全て、十年前のあの子たちに贈った言葉の源そのものだった。樹里の言葉を彼らが素直に受け入れ、言葉にできないような説得力と、その言葉に身を預けてもいいと思わせる包容力を纏っていたのは、全て樹里の人生そのものから生まれたのものだと知って、鈴木は深く納得した。
「私は、私の人生を私なりに昇華させるために、あの教壇に立とうとしました。憧れの先輩のように、私自身の言葉で、私にしかできない標を灯したくて。でも、突然、担任になることになって、しかも三年生の。あれはさすがに緊張しましたし、私で務まるのかという不安もありました」
彼女の言葉で、鈴木と樹里は当時の彼女の記憶へと遡っていった。
水平線を前にして、何も成すことができなくなった。2020年。私の人生はそこで止まったように感じた。立ち尽くし、ただ時間だけは過ぎていくので、無理にもその波に乗って。でもそんな混沌の中に、ひとつだけ希望があった。それは時間が止まる前に、抱いた未来の光。それを信じて進むことだけが、私にとっては夜明けへと向かって行く一つの術だった。
そしてついにその日を迎えた。桜が舞う陽川高校の校舎を五年ぶりに見て、緊張と高揚感が同時に押し寄せ、変な気持ちになった。
先日の初日のミーティングで、最初の配属が女子バスケットボール部の顧問、そして三年九組の副担任で主に文系の数学の授業の担任であることが告げられた。今日は部活に顔を出す初日。五年前に私が夢を見て、その思いをぶつける場所もないままにあっけなく散ることとなったこの体育館。再び目にすると、あの頃の音、匂い、記憶が止まったままのあの日から蘇ってきた。
「それじゃあ、香坂先生行きましょうか」
「はい、お願いします!」
副顧問の菊池先生に連れられ、数年ぶりに体育館へ入る。生徒たちは誰だろうという視線を向ける。まあ無理もない、私も教わったことがある顧問が昨年異動し、やって来たのは顔も名前も知らない新人の女なのだから。
「今日から女子バスケ部の顧問になってもらう、香坂先生だ」
私は菊池先生の紹介にあずかり、生徒へ一礼した。それから緊張を吹き飛ばすべく、そして女子バスケ部にふさわしくあるべく威勢よく挨拶した。
「えーっと、今年から新任で陽川高校に来ました。香坂樹里です! 赴任早々、正顧問ということで身に余るほどの大役にプレッシャーもありますが、やるからには勝ちにこだわっていきたいと思います!」
言い終わってから少し強気で行き過ぎたかと後悔したが、間もなく、生徒たちからの拍手を聞いて、少し肩の荷が下りた。それから菊池先生が、私がOGであることを伝えると、生徒たちは純粋に感嘆の声を上げた。私は少し気恥しかったが、その真っ直ぐな生徒像は、私の知っている陽川高校らしさだった。
「先生、今日はどんな感じにしますか?」
菊池先生はバスケットボールの経験者ではないので、顧問になると決まった時から練習に関しては私に任せると言われていた。とはいえ、私は最初から手綱を握るつもりはなかった。それは自分らしくないし、自分の長所も生かせない。
「んー、しばらくは練習見させてもらおうかな。今までのメニューでやっていいよ」
私がそう言うと、部長らしき子は拍子抜けした顔をした。少し生意気だったかとも思ったが、やはり私の方針は変わらない。
「とりあえずは、みんながどんなプレイヤーなのか見たいんだ。等身大のみんなを見せて」
部長は少し意外そうな目をしたが、了承して練習に戻って行った。初めはどう思われるんだろうなんて変な心配もしていたけれど、私は何となく、部員と良い関係を築いていけそうだと感じた。
それから数日、私は言った通り練習には口を出さなかった。その代わりに、一つ始めたことがある。私はノートを開いて、彼女たちの様子を事細かく記録した。練習の姿、プレーの癖、チーム内での立ち位置、練習とそれ以外とでのギャップなど。何も知らない人が何かを言ったって、何も響かない。まずは私が、彼女たちに少しでも歩み寄ろうと努めることにした。
私は時計を見る。それから練習の終わりを告げた。私の時もそうだったが、今までは終わりの時間が曖昧だった。しかし、それでは大事な時間を減らしてしまう。それは休息、そして仲間たちとの時間。
「樹里先生ってなんの教科担当なの?」
その時間を大切にしてもらうべく、そして練習では俯瞰していた分ここでは距離を近くするべく、私はコミュニケーションをとった。それはバスケに限らず、たわいもない話まで。
「えーっとね、数学かな」
「数学? じゃあうちらの担任の可能性低いかー」
心の距離が近い方が、何かあった時に、しんどくなった時に、そばにいるだけで何かの役に立つ存在になれる。部活は時に苦しい時もある。それが訪れた時に、助けてくれるのは仲間。私が現役時代に、知った仲間の大切さを、彼女たちにも大切にしてもらいたかった。
特に三年生たちはこの数日で私と凄く馴染んでくれるようになった。私としても、学年団として今後三年生とは一番関わっていくから、この状況は喜ばしいことであった。
「まぁ、私からは何にも言えないから。明日をお楽しみに」
明日はいよいよ始業式。私は彼女たちの副担任になることを心に秘めながら、少しだけふざけて、不敵な笑みを浮かべてみた。




