崩壊
夜に落ち着いた息が溶けていく。兄はカップを置いて、やっと落ち着いた目で私を見た。
「ありがとうな、あと、心配かけてごめん」
「いや全然……」
兄の今の声が私には違和感だった。どこかにその声の命を置いてきたような、空虚な声だったから。
「学生団体でしょ? 何があったの?」
普通に「どうしたの?」とか「何かあったの?」って遠回しに言ったってどうせ兄は話さない。ならば、直接問題を提示してみた。
「樹里に言っても分からない話だから」
「わかんないじゃん、聞くことくらいはできるし。私だって、部活のこととかで最近悩んでたけど、先輩に話聞いてもらって心軽くなったし」
それでも兄は話そうとしない。終いには、ノートパソコンを閉じてベッドに腰掛けた。
「心配してくれてるだけで、嬉しいよ。……でも、樹里にそんな優しくされると、なんか変な感じだな」
兄はそう言って場を茶化した。兄と妹、近すぎるが故に話せないこともあるのだろう。特に、責任感があって普段はしっかり者の兄は、妹に頼るなどできない。したくないのではなくて、きっと方法が分からないのだろう。
「ほら、もう遅いし、寝な。やっぱり夜は気が滅入っちゃうからな、俺もさっさと忘れて寝るよ」
今はパソコンの青い光もないので、顔があまり見えない。声だけが兄を認識する唯一の方法だったが、その声こそが私の心配を掻き立てた。
「……ほんとに大丈夫なの?」
でもきっと、これ以上言ったって、兄はもう話さないだろう。私は諦めて去ろうとした時、兄がひとつ問いかけた。
「なんでさ、学生団体でなんかあったんだろうなって思ったの?」
兄に問われて初めて、私は自分を俯瞰してみた気がした。私は明るくて真っ直ぐなキャラクター。でも内側では色々と頭をうねらせている。それをもっとポジティブに捉えた時、私は自分が人間観察の果てに、些細な心の機微を捉える能力に長けていることが分かった。
「……樹里のそういうところ、きっと誰かを救うと思うよ」
暗闇の中で兄は微笑んだ気がした。兄の言葉が私の心をじんわりと温める。それと同時に、兄に最適な言葉をかけてあげられなかった自分が悔しかった。ふと、先輩のことを思い出す。あの時、先輩は私を見て、私への言葉をくれた。そうして、ひとつの答えが降りてくる。
――私も、なりたい。
私にもなりたいものがあった。それは具体的な職業でも、立派な将来像でもない。でも確かに、私はそれを強く求めた。その答えに続く道を歩みたいと。そしてその道の果てに、なりたい自分になりたいと。
私は自室に戻り、机に向かう。なりたい自分への道、何であれば成せるのか。そして思いついたのは、明日に言葉を贈る仕事。私はカバンから進路調査票を取り出し、ペンを走らせる。そこに書くのは、推薦の来ていた大学の名ではない。大学のホームページを開いたスマホを片手に、地元の国公立大学の名を書く。その大学は、教育学部で有名だった。
年が明けると、新人戦がある。この大会はインターハイ予選を前にした最後の大きな大会だった。チームはそれに向けて順調に中身を仕上げていた。
「ねぇ、樹里。このニュース見た?」
その日の練習終わり、茉莉が奇妙なニュースを見せてきた。
「……コロナ? なにそれ」
「なんか未知のウイルスらしいよ。中国でめっちゃ流行ってるんだって」
「えー、全然知らないなぁ。でも中国の話でしょ? 海外なんて未知のウイルスいっぱいあるでしょうに」
正直、誰がこのニュースを真に受けるのだろうか。隣国とはいえ、遠い海の向こうでの話。自分たちの知らない土地で、知らないものが流行るなど、ありふれたことに思えた。数日後、新人戦が開幕し、私たちは先輩たちと同じベスト8で敗れた。しかし、いい弾みができたと、チームはこの結果を前向きに捉えた。この大会が、このメンバーで挑む最後の大会になるとも知らずに。
遠い海の向こうの話が、日本にやってきたという報せが、国内に轟いたのは、それから数日後のことだった。
目覚めると、いつもの高校生活では考えられない時間を時計が指していた。ぼんやりとした記憶を徐々に起動して、ベッドから出る。机には大量に積み上げられた宿題と、4月末を迎えるというのに未だに折り目のついていない教科書が並んでいた。
2020年4月26日。世界は1ヶ月ほど前から止まったままだ。朝目が覚めても、動くのは時の流れを示す時計だけで、世界を示す時計は針を動かさなかった。
私は今日の分の課題を終えて、一階に下りると、時刻は昼頃だった。リビングには珍しく、家族が全員揃っている。とはいえ、各々パソコンに向かい、何とか仮初の生活を演じていた。弟は、もちろん遊んでいた。それだけは相変わらずで私は安心した。
昼ごはんを食べながらテレビを眺めても、連日放送されるのは再放送。このご時世、メディアすらお手上げ状態で、既視感のあるテレビに面白みも感じられず、私はテレビを消した。
昼食を済ませ少し落ち着いた頃に、私は自室で筋トレを始めた。先行きの見えない日々を送っているとしても、いつ、その秒針が動き出すか分からない。こんな退屈な日々の中でも、チームメイトと交わしたあの約束だけが揺るがぬ光を私に示してくれていた。
しばらくして、私は携帯が鳴っていることに気づき、それに応答する。
「もしもし?」
「あ! やっと繋がった。ねえ、見た? ニュース!」
茉莉の声が荒くなっていて、ただ事ではないことは分かった。私はすぐにリビングに戻り、テレビをつけた。チャンネルを午後の情報番組に合わせ、速報の文字を目にする。初めは、その文字が何を意味しているのか解釈できなかった。しかし段々と鼓動が早くなっていき、周りの世界が真っ白に、何もなくなってしまったかのように、感じた。その空虚な世界に、ひとり立ち尽くす。私の手から携帯が落っこちていったのは、間もないことだった。




