魂を宿す
厳しい夏も終わりに差し掛かり、夜はすっかり秋の風になった。私は風呂上がりの体が冷えないように長袖のジャージを着て、部活ノートを開く。時代が令和に変わっても、私はこの習慣をアナログのまま続けていた。
ノートに綴られた練習の軌跡は相変わらず、キャプテンとして、先輩として、立ち振る舞いが正しいのかを問うた内容だった。あの一件以来、結局厳しくできずに、接している。実力は十分あるので、戦績は上々。しかし、雰囲気は決して良いとは言えないままだった。初めは違和感を口にしていた彩葉や弓月も、素行以上に実力で圧倒され、今では見て見ぬふりをしていた。
「今日も同じか......」
そんなことをぼやきながらペンを走らせていると、携帯電話のバイブレーションが鳴った。その通知は、去年部長を務めていた先輩からだった。
「ええ、そっか。先輩、推薦受かったんだぁ。良かった」
その先輩は成績も優秀だったので、指定校推薦の話が挙がっていた。それを先輩はきちんと射止めてみせたということだ。私にとって先輩は憧れであった。私は先輩のことを思い浮かべながら、暗雲立ち込めたノートを眺める。先輩なら、どうするんだろう。そして私は、返信と併せて、先輩にひとつお願いをした。
「今日、菜々さん来るんでしょ?」
「そうそう、練習顔出すって」
「久しぶりだなぁ、楽しみ」
あの日、私の練習に来て欲しいという頼みごとに、先輩は快く了承してくれた。それを同期に伝えると、みな喜んでいる。しかし、後輩は案の定、そのことをよく思っていない様子だった。後輩からしたら関係の薄い先輩など邪魔でしかない。とはいえ、二つも離れているからこそ、得体のしれないものへの警戒反応なのか、自分たちのやりたいようにはできず、非常に厄介だろう。
「あ、菜々さん!」
噂をしているところに、ちょうど先輩が顔を出した。
「おー。みんなやってるねえ」
チームや受験の重荷が肩から下りて、先輩の雰囲気は随分と軽くなっているように見えたが、やっぱり、体育館のオレンジの光を浴びると、先輩は先輩だった。
先輩を交えて、その日の練習はいつも通り進めた。先輩のおかげもあってか、一年生の態度もいつもよりは良く、茉莉たちもチームのことよりかは、プレーのことなどの相談で頭がいっぱいだった。私は、相談しようとしていた後輩たちの件について、やっぱり違うのかなとふと思い、口に出すことはなかった。
「そしたら、菜々さんから一言お願いします」
練習終わりのミーティングで、私は先輩に最後を締めてもらおうと話を振った。
「ん-、そうだな......色々細かい所は練習中に言ったつもりなので、最後は一言」
先輩は一呼吸おいて、口を開いた。
「みんななら本当に、目指せるよ。インターハイ」
涼しく鋭く、その言葉が私たちの心に刺さっていく。先輩だからというよりも、その先輩の紡いだ言葉に、私たちは理屈ではない何かを感じた。その時、私は横目で見た。後輩たちのあの目を、また。自分たちの技量は十分なのに、なぜ、そんなに蔑んでいるんだろう。素直になれないとか、頑張っているのがダサいとか、そういった思春期の反応なのだろうか。それとも......。
「よし、じゃあ樹里。一緒に帰るよ」
不意に先輩に声をかけられ、私は我に返った。
「えー私たちとも帰ってくださいよー」
「そりゃあもちろん。樹里がぼーっとしてたからさ」
私は、「なんだ、そういうことか」と気楽に捉え、先輩に促されるがままに帰路に着いた。帰り道は、練習とは違ってプライベートのこととか、たわいもない話をした。私はこういう時間が好きだった。人それぞれ背負っている物があって、その荷をいったん下ろして、等身大で接する時間。
「間もなく、一番線に......」
「えー、もう電車来ちゃう。菜々さん、また来てくださいね」
「ほんとにいつでも、ウェルカムなんで」
茉莉たちは私と先輩と別れ、電車に乗っていった。ホームには私と先輩の二人。人数が減って少し静かになったので、必然と盛り下がったような空気になってしまった。会話のリズムを復活させるべく、私は話題を脳内で探したが、先に話し始めたのは先輩の方だった。
「なんか、樹里がキャプテンやってるとこみたら、なんか新鮮だったなあ」
「ほ、ほんとですか? 私なんて全然......」
「でも、なんか私を見ているような気もして。なんか今、樹里がこんなこと思ってるのかなとか、それ私も考えたことあるなあとか。まあ全然見当違いだったら恥ずかしい話なんだけど」
先輩は前を向いたまま言った。やっぱり先輩の言葉にはすんなりと心に入ってくる力が宿っている。そして、同じくらい観察力にも優れていて、その観察力は、時に人を救うことを知った。
「樹里はさ、人のことよく見てるじゃん。表には出してないし、明るくて責任感もあって、からっとしてるイメージだけど、きっと心のうちでは色々なことを考えてるんだろうなって」
先輩には見抜かれていた。私はキャラクターをかぶっている。内に秘めたものはもっと面倒なものだ。人のことを見て、勝手に勘違いして、勝手に一歩引いたり前に出たりして、でも間違えそうだからやめたりして、結局逃げている。
「......樹里、一年生のことで悩んでるんでしょう?」
一つ奥のレールを通勤快速の電車が通過していく。それがまとった風が私たちの髪を揺らした。一度心にひっこめたものを、先輩が引っ張り出してくれた。
「先輩、なんでそれを......」
「だって、明らかにあの子たち、私と樹里たちへの態度が違うし、それに、インターハイって言葉出した時に、目が笑ってた。このチームで行けるわけないだろって。でもそれに、きっと樹里は優しいから上手く言えてないんだろうなって」
先輩が見てくれていたものは、全部私の言いたいことだった。態度も、違和感も、そしてあの目も。それに私が上手く対処できていないことも。
「樹里はさ、私のこと恐かった?」
「え......?」
先輩は唐突に言った。私は先輩の記憶へと遡る。しかし、先輩に怖さを感じた記憶は少しもなかった。
「いや、全然そんなことは......」
「でもさ、私。時々言いたいこと言ったり、たまにみんなを叱ったりしてたよ」
先輩に言われて、そんなことがあっただろうかともう一度記憶を遡る。すると、断片的に記憶が蘇る。準備中にダラダラ話しながらしていたときに、先輩に注意されたこと。チームの士気が下がっている時に、チームへ物申していたこと。でもそれに、嫌な感じはしなかった。なぜだろう。
「優しさは、見ないふりして、逃げることじゃない。時には対立するかもしれなくても、きちんと、想いをぶつける。自分が正しいと思ったことを言葉にする。価値観をぶつけるのではなくて、感情任せにするのではなくて、等身大に、ぶつかるの。そうすれば、きっと悪の記憶にはならない。だって、そこには......」
その時、電車がホームに入線してきて、先輩の声がかき消された。でも、私は何が言いたいか分かった。答えは、そこにある。
先輩と私は電車に乗り、チームのことを話した。一度開かれた扉から、溢れるように話した。そして、数十分して先輩の最寄りに着く。私はそこで、ひとつ尋ねた。
「先輩。先輩は、怖くなかったですか? キャプテンであること」
先輩の顔が、ドアの小窓に映る。その表情は、そこか遠くを見るような澄んだ顔だった。
「怖くなかったよ。だって......私には仲間がいたから」
はっとした。私は何を恐れていたんだろう。私が逃げなかったとして、もし全てが敵に回ったとしても、きっとひとりじゃない。思い浮かんだのは、茉莉や芽衣や彩葉や弓月の顔。
「私は、自信を持って樹里にバトンを渡したよ」
降りるときの先輩の一言が耳に残る。先輩に見えなくなるまで手を振って、それから小窓は再び暗くなり、私の顔が映る。その目には、先ほどとは違う魂が宿っていた。




