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真実の日記

 鈴木の口から語られた真実は、静寂な夜に滲んで消えていった。その話を聞いた隼人たちは、しばらく口を開くことができなかった。ただ潮騒だけが、その丘に響く。


「それで、この前突然、香坂先生からメッセージが送られてきてね」


 鈴木はポケットの携帯電話に手を触れた。そしてあの時の彼女の綴った言葉を思い出した。




※※※




 少し前から雨が降り出し、先ほどまで外で聞こえていた子供の声が聞こえなくなった。鈴木はコーヒーを片手に晴耕雨読を体現する。そしてまたひとつ、ページをめくろうとした時、携帯の着信が鳴った。


 鈴木はショートメッセージを開くと、そこには久しく見ていなかった名があった。


「香坂先生......」


 退職してから、学校関連の繋がり自体専らなかったが、特に彼女に関してはきちんとした別れを言えなかった。なにしろ、彼女が姿を見せなくなったあの二学期から、二度と会うことができなかったから。


 鈴木は少し怪しげに、そのメッセージを開いた。するとそこには、こう書かれていた。


《ご無沙汰しています。ひとつ、お願いできますでしょうか》


 そしてそれに続けて書かれていた「タイムカプセル」という言葉が、鈴木を十年前に帰らせた。あの約束、とうとう十年の時を越えて、果たす時が来たというわけか。でもそれは、香坂が果たす内容ではなかった。


《......私の代わりに、行ってくれませんか》


 彼女が果たすはずだった約束、あんなに意気揚々と十年前の時間をひとつの箱に込めていたのに。そして、鈴木は後悔の念に駆られた。あの笑顔、あの語気、あの空気。全て彼女からの危険信号だったのに、そしてそれに薄々気づいていたのに、助けられなかった。彼女は今もなお、己との戦いに、閉じ込められていた。


 その時ふと、あるノートのことを思い出した。それは、香坂の席が職員室から撤去される時。彼女の要望で、ほとんどの物は処分することになったが、処分用の倉庫に置かれた物の中で、ある一つのノートだけは、鈴木が持っていた。




※※※





 鈴木はカバンから青色のノートを取り出した。隼人たちは寄ってきて、そのノートのページをめくる。月の光に照らされたページには、彼女の当時の日記が綴られていた。隼人は代表して、それらを読み始めた。


「三月二十五日。初めての卒業生を送り出してから、二週間。まだ自分の中には、あの時の温もりが残っている。今日はその温もりと思い出を、一つの箱にしまった。十年後、あの子たちと交わした約束の日まで」


 隼人の落ち着いた声が、潮騒にかき消されるまで夜に浮かんだ。


「四月一日。今度は一年生の担任。二年目で担任を正式に任せていただき、すごく嬉しい。まだまだ未熟者だが、十年後にあの子たちに会うまでに、恥じない人間へ成長したい」


「四月八日。ついに入学式。新しいクラスとの初の対面で少し緊張したが、良いクラスになる予感がする。楽しみだ」


 隼人はその後も淡々と日記を読んでいった。周りの者たちはそれを静かに聞く。彼女の綴った言葉たちが、それぞれの脳裏に映像化され、まるでその時を共に過ごしていたかのように、具現化された。


「五月十五日。ゴールデンウィークが明け、定期試験も終わった。採点の嵐を乗り越え、返却したが、採点ミスが多かった。今年は要注意な家庭もいるので、より注意深くしなければ信頼が築けない。気を引き締めないと」


「五月十七日。採点ミスの件で保護者から連絡があった。情けない。それにしても去年の子たちはミスがあってもあまり大ごとにならなかった。彼らに甘えていたんだと実感した」


「五月三十日。体育祭が近づいてきた。行事ごとが近づくと、クラスの色が試される。今年は何となく、嫌な予感がする。去年は感じなかった悪寒が」


「六月十日。体育祭が終わった。やっと終わった。表では何とか耐えているものの、恐らく裏で何かが蠢いている。大事にならないと良いが......」


 読んでいる隼人も、妙な胸騒ぎがした。勘が良く、人をよく見ていた香坂には、生徒たちの微妙な変化に気づいていたのだろう。その繊細な感性に我々は助けられたが、気づかない方が幸せなこともある。特に人間関係に関しては、深追いする者でもない。鈍感な方が自分のためになるだろうに。


「先生......」


「でも、樹里ちゃんは見て見ぬふりなんてできないから......」


 思わず漏らした喜一の予感は的を射ていく。隼人の声も、次第に元気をなくしていった。


「六月十三日。クラスの全体チャット関連で揉め事があったらしい。恐らく加害者も見当がつく。二年目でいじめ問題に直面するとは」


「六月十五日。被害者の子が学校に来れなくなった。薄々感じていた嫌な予感が当たってしまったみたい。これから、関係各所に対応していかなければいけない。しかし、学校も大事にしたくないと、内密に事を進めるらしい」


 鈴木は己の不甲斐なさを感じているのだろうか、言葉を失っていた。無理もない、意味のない心配だけを抱き、大事な時に何もできなかったのだから。隼人の読み上げる香坂の日記は、日に日にエスカレートしていく。


「六月二十日。面談が近づいている。あの件の調査も進んで、加害者は前々から話になっていた保護者の生徒。どう向き合えばいいのだろう。ただでさえ通常業務に追われているのに......。時々鈴木先生に気かけていただいているけれど、相談できない。頑張るしかない」


「七月九日。期末試験も終わり、いよいよ向き合う時が来た。ここは誠実に、私らしくいよう。あの子たちに顔向けできるように」


 茜には、次の日記を読むときに、隼人の呼吸が一度止まったように感じた。とうとう真実に触れようとしている。


「......七月十三日。面談が終わった。先方は全くもって加害者の意識はないどころか。むしろ被害者のような言動をしていた。率直に事実を伝えたのは間違いだったのかもしれない」


「......おい。樹里ちゃん......なんて言われたんだよ、その親に」


 喜一が思わず言葉を漏らす。その声には、少し怒りも混じっているようだった。


「......それは、書かれてない。それで七月二十日。先方が乗り込んできた。あなたには子育ての経験がないでしょう。何様のつもりなの、と。あの、蔑んだ眼。教員を馬鹿にする以上に、私がまだ未熟者の若い女だからこそ、馬鹿にしているのだろう......ここで日記は終わってる......」


 その時、零士が震える声で言った。


「......もしかしてなんだけどさ......それって......」


 茜は事情を知っているので、零士の気づきにも察しがついた。鈴木も、苦しみながら頷く。零士は恐る恐るスマホの画面を差し出し、とある地元紙のニュースの画面を見せた。


「地元の公立高校に通う高校生が一名、自殺未遂で意識不明。原因はいじめか」


 昴は読むなり顔を上げ、次の言葉を誰かに求めた。それを受けたのは鈴木だ。


「......我々がこの件を知ったのもこのタイミング。未遂で一命をとりとめたこと、学校が大事にしなかったこともあって、全国レベルのニュースにはならなかったけど、この辺ではさすがに情報が広まるのも早くてね......」


「俺も、地元のニュースでたまたま見て。でも学校名とか伏せられてたし、まさか......先生のクラスだったなんて......」


 刹那、沈黙が訪れた。今までにないほどに、重苦しい空気の中で。

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