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今さら子供が欲しいと言ったら、妻に離婚を切り出された。  作者: 小笠原ゆか


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ED2・婚活成功ルート 後編

息子の名前は悠真にした。


悠真が生まれてから、俺の生活は一変した。

最初に思い知ったのは、赤ん坊というのは、こちらの都合など一切考えてくれないということだった。


昼間はよく眠っていたかと思えば、夜中になると泣き出す。

ミルクを飲ませても、おむつを替えても、抱っこしても泣きやまない。


「なんで泣いてるんだろうな」


悠真を抱いたまま、俺は途方に暮れた。


「分かんない。さっき飲んだばかりなのに」


香織も眠そうだった。


時計を見ると、午前三時を回っている。

俺は悠真を抱き直し、部屋の中を歩いた。

ようやく寝ついたと思ってベビーベッドに下ろすと、また泣き始める。


「……嘘だろ」


思わず声が漏れた。

香織が小さく笑った。


「私もさっき、それやった」


結局、その夜は交代で悠真を抱き続けた。


翌朝、鏡を見ると、ひどい顔をした男が映っていた。

四十四歳。こんな年齢になって、徹夜に近い生活をするとは思っていなかった。



■■■



育児休業は三か月取得した。

その間、俺はできるだけ家事を引き受けた。

洗濯、掃除、買い物、食事の支度。悠真のおむつ替えや沐浴も、少しずつ慣れていった。


香織は産後の回復に時間がかかり、体調の優れない日もあった。

そんなときは俺が悠真を見て、香織には休んでもらった。


だが、三か月はあっという間だった。

職場復帰が近づくと、俺たちは一日の予定を何度も確認した。


香織はまだ育児休業中だったが、俺が仕事に戻れば、平日の昼間は一人で悠真を見ることになる。


「帰れる日は、なるべく早く帰るよ」

「うん。でも、無理しすぎないでね」

「いや、香織だって大変だろ」

「大変だけど、仕事もあるんだから」


俺たちは互いに相手を気遣いながら、どうにか生活を回していこうとしていた。


実際、俺が復職してからは、香織の負担が増えた。

帰宅すると、夕食の支度どころか、洗濯物を畳む余裕もない日があった。


そんな日は俺が台所に立ち、香織は悠真にミルクを飲ませた。

食事の途中で泣き出せば、どちらかが箸を置く。

風呂に入ろうとしたところで泣かれることもある。


休日だからといって、ゆっくり寝ていられるわけではなかった。

それでも、悠真が初めて笑った日には、二人で大騒ぎした。


寝返りができたときは、何度も動画を撮った。

小さな成長が、たまらなく嬉しかった。


大変ではあったが、幸せだった。



■■■



悠真が一歳になる頃、香織は職場に復帰した。


保育園にも無事に入ることができた。

送りは俺、迎えは香織。勤務時間の都合を考え、そう分担した。


最初の一週間は順調だった。

だが、二週目に悠真が熱を出した。


朝、体温計に表示された数字を見て、香織がため息をついた。


「三十八度二分。今日は無理だね」

「俺、午前中に会議があるんだよな」

「私も今日は休めないんだけど……」


二人で予定を確認し、結局、俺が会議を終えてから早退することになった。

午前中は香織が休み、昼過ぎに交代する。


ところが、翌日も熱は下がらなかった。

さらに翌日には、今度は咳が出始めた。


ようやく登園できたと思ったら、翌週には別の風邪をもらってきた。


「保育園って、こんなに休むものなのか?」


俺が言うと、香織は苦笑した。


「最初はよくあるらしいよ」

「そうなのか……」


俺は会社の予定表を開いた。

有給休暇の残り日数が、思っていたより少なくなっていた。


香織も同じだった。

俺たちは休める方が休み、どうしても無理な日は両家の親に相談した。


だが、親たちにも予定がある。

俺の母は七十歳を目前にしていた。


「たまにならいいけど、毎週はちょっとねえ」


電話口で、母は申し訳なさそうに言った。


「この前預かったときも、帰ったらぐったりしちゃって」

「そうだよな。ごめん」

「謝らなくていいのよ。悠真は可愛いんだから」


母はそう言ってくれた。

だが、可愛いことと、一日中面倒を見られることは別なのだろう。


香織の両親も、まだ仕事をしていた。

結局、俺たちは病児保育の利用方法を調べ、勤務の調整を続けることになった。



■■■



ある金曜日、大学時代の友人から飲み会の誘いが届いた。


『久しぶりに集まらないか?』


以前なら迷わず参加していただろう。

だが、その日は香織の帰りが遅く、俺が悠真を保育園へ迎えに行くことになっていた。


『悪い。その日は無理だ』

『了解。また今度な』


その夜、悠真を寝かしつけた頃、友人たちの写真が送られてきた。


『次はお前も来いよ!』


俺は笑顔の絵文字を返した。


寝室から悠真の泣き声が聞こえたのは、その直後だった。



■■■



四十六歳になった。


悠真は二歳になり、家の中を走り回るようになった。

言葉も増えた。


「パパ!」


そう呼ばれるたび、嬉しくなる。


仕事から帰ると、玄関まで迎えに来てくれる。

小さな体で抱きついてくる悠真を抱き上げる瞬間が、一日の楽しみだった。


ただ、体力的にはなかなか厳しかった。


休日に公園へ連れていけば、悠真はいつまでも走り回っている。

滑り台を滑り、砂場で遊び、今度はブランコへ向かう。

俺がベンチに座ろうとすると、すぐに呼びに来る。


「パパ、こっち!」

「ちょっと待ってくれ。少し休ませて」

「こっち!」


結局、休憩は許されなかった。


夕方、帰宅してソファに座ると、腰が重かった。

香織が笑いながら湿布を持ってきた。


「大丈夫?」

「いやあ、二歳児の体力ってすごいな」

「明日は私が公園に連れていくよ」

「助かる」


香織も仕事と育児で疲れていた。

二人とも、休日は休息の時間ではなくなっていた。


それでも、悠真が楽しそうに笑っていると、また連れていってやろうと思うのだった。



■■■



その年の秋、久しぶりに大学時代の友人たちと会うことができた。


香織が悠真を見ていてくれるというので、夕方から飲み会に参加した。


「おお、久しぶり!」

「元気だったか?」

「まあ、なんとか」


俺が席に着くと、友人たちは笑った。


「子育て、大変だろ?」

「大変なんてもんじゃないよ。毎日くたくただ」

「そうだろうなあ。うちも昔はそうだった」


友人は懐かしそうに笑った。


「保育園から電話が来るたび、嫁さんとどっちが休むか相談してさ。仕事にならなかったよ」

「うちも今それだよ」

「そのうち落ち着くって。小学校に上がれば、少しは違うから」


俺は苦笑した。


小学校。

あと四年もある。


「最近はどうなんだ?」


俺が尋ねると、友人は嬉しそうに話し始めた。


「上の子が大学に入ってさ。下も来年には高校卒業だよ」

「うちはもう二人とも社会人だ」

「いいなあ。うちはまだ学費がかかる」


やがて、話題は旅行になった。


「来月、嫁さんと北海道に行くんだ」

「二人で?」

「そう。子供が小さい頃は、なかなか行けなかったからな」


別の友人も頷いた。


「うちも最近、夫婦で出かけることが増えたよ。子供がついてこなくなったから」

「昔は家族旅行ばっかりだったのにな」

「そうそう。遊園地とか動物園とか、何回行ったか分からん」


友人たちは笑っていた。

俺も笑った。


そのうち、一人が俺に尋ねた。


「そういえば、お前、前は子供いらないって言ってなかったっけ?」

「ああ。そうだったんだけどな」

「変わるもんだなあ」

「まあな」

「でも、よかったじゃないか。念願の子供だろ?」

「うん。可愛いよ」


それは本当だった。


悠真は可愛い。

仕事から帰ると玄関まで迎えに来てくれるし、最近は覚えた言葉を得意そうに披露してくれる。


その話をすると、友人たちは懐かしそうに笑った。


「そういう時期、あったなあ」

「うちはもう、親父なんか相手にしてくれないよ」

「小さい頃が一番可愛いっていうもんな」

「いや、いくつになっても可愛いよ。ただ、手はかからなくなる」


そんな話を聞きながら、俺はふと、昔のことを思い出していた。


あの頃、友人たちはまだ子育ての真っ最中だった。

飲み会に誘っても、子供が熱を出したからと断られる。

休日に遊びに誘っても、家族サービスがあると言われる。


大変そうだな、と俺は思っていた。

自分の時間がなくなるなんて、まっぴらだった。


だから、美咲との生活に満足していた。


好きなときに外食し、休みが合えば旅行に出かける。

子供の都合で予定を変更する必要もない。

友人たちから羨ましがられることさえあった。


それなのに。

四十二歳になった俺は、彼らの話が羨ましくなった。


子供の受験。

部活動の大会。

家族旅行の思い出。


そんな話をする友人たちが、充実しているように見えたのだ。

そして俺も、父親になりたいと思った。


「どうした?」


隣の友人に声をかけられた。


「いや、何でもない」


俺はグラスを持ち上げた。

友人たちは、今度は定年後に何をするかという話を始めていた。



■■■



帰りの電車で、俺はスマートフォンを開いた。


香織から写真が届いていた。

悠真が俺のパジャマを抱えて眠っている。


『パパの服がいいって言って、離さなかったよ』


思わず笑ってしまった。


可愛い。

本当に、可愛い。

早く帰って顔を見たくなった。


それなのに、俺は先ほどの友人たちの会話を思い出していた。

子供が小さい頃は、なかなか旅行に行けなかった。


今は夫婦二人で出かけられる。

友人たちは、そう言っていた。


俺と美咲は、ずっとそういう生活をしていた。

休日にどこへ行こうかと相談し、気になった店を見つければ食事に出かけた。

旅行の計画を立てるのも楽しかった。


あの生活が嫌だったわけではない。

むしろ、幸せだった。


ただ、友人たちが持っているものを、自分も欲しくなった。

そして今、俺には香織と悠真がいる。


望んだとおりの家族だった。

それなのに、時々、あの頃の生活を思い出す。


休日に昼近くまで寝ていたこと。

何の予定も決めずに出かけたこと。

夜遅くまで映画を見て、翌朝はゆっくり起きたこと。


今では考えられない生活だった。

もちろん、悠真が成長すれば、またできるようになるだろう。


だが、その頃には俺も六十歳に近い。

友人たちが今楽しんでいることを、俺が楽しめるようになるのは、まだずっと先だった。


いや。


そもそも、俺は何が羨ましかったのだろう。


子供がいることか。

父親として、子供の成長を見守ることか。

それとも、友人たちが楽しそうに話している、その輪の中に入りたかっただけなのか。


電車の窓に、自分の顔が映っていた。


答えは出なかった。



■■■



帰宅すると、香織がリビングで洗濯物を畳んでいた。


「おかえり。楽しかった?」

「うん。久しぶりにみんなと会えたよ」

「よかったね」

「悠真は?」

「もう寝たよ。今日は公園でいっぱい遊んだから」


俺は寝室を覗いた。


小さな布団の中で、悠真が眠っている。

頬は赤く、片手を頭の横に上げていた。

枕元には、俺のパジャマが置いてあった。


そっと頬に触れると、悠真が身じろぎした。


「……パパ」


寝言だった。

胸が温かくなった。


この子がいない人生など、もう考えられない。


それだけは確かだった。

リビングに戻ると、香織が尋ねた。


「明日、どこか行く?」

「そうだな。天気がよかったら、公園かな」

「この前のところ?」

「ああ。あそこ、気に入ったみたいだから」

「じゃあ、お弁当作ろうか」

「俺が作るよ。香織は朝、少しゆっくりしてて」

「ありがとう」


俺たちは明日の予定を相談した。


朝食の支度。

公園へ持っていくもの。

帰りに買っておく日用品。


話すことはいくらでもあった。

香織が洗濯物を片づけている間、俺は台所で弁当箱を探した。


ふと、美咲のことを思い出した。


美咲と結婚したとき、俺は子供を持たない人生を望んでいた。

美咲は子供が欲しいと言っていたが、俺と一緒に生きるために、その希望を諦めてくれた。


十二年間、俺たちは二人で暮らした。

幸せだったと思う。少なくとも、俺は幸せだった。

それなのに、四十二歳になって、俺は子供が欲しいと言い出した。


美咲はもう欲しくないと言った。

あのとき、俺は不思議だった。結婚する前は欲しいと言っていたのに、どうして気持ちが変わったのだろう、と。


だが、今なら少し分かる。

悠真が生まれてから、俺たちの生活はすっかり変わった。

何をするにも悠真が中心で、自分たちの都合だけでは決められない。


もちろん、それを不幸だとは思わない。

けれど、四十一歳の美咲が、もう一度人生を変えることを望まなかったとしても、おかしなことではなかった。


俺は、そんな当たり前のことさえ考えていなかった。

子供が欲しいという気持ちばかりで、その先にある暮らしを、どこまで想像できていたのだろう。


「どうしたの?」


香織の声に顔を上げた。


「いや、弁当箱、どこにしまったかなと思って」

「そこの下の棚だよ」

「ああ、あった」


俺は弁当箱を取り出した。

香織が隣に来て、明日は卵焼きを入れようかと話し始めた。


俺は頷きながら、冷蔵庫の中身を確認した。


明日も、きっと忙しい一日になる。

悠真は公園を走り回り、俺はその後を追いかける。

帰ってきたら風呂に入れ、夕食を食べさせ、寝かしつける。


そして月曜日には、また仕事が始まる。

それが俺の選んだ人生だった。


香織は大切だ。悠真は可愛い。

家族三人で過ごす時間は、確かに幸せだった。


それでも時々、考えてしまう。


俺が欲しかったのは、本当にこの生活だったのだろうか。


そんなことを考える自分が、嫌だった。

悠真が生まれてきてくれたことを、後悔しているわけではない。

香織と結婚したことも、間違いだったとは思わない。


ただ、あの頃の生活も幸せだったのだ。

それを捨てなければ、手に入らなかったものが、今ここにある。


俺は、自分で選んだ。

だから、幸せでなければならない。


そうでなければ。


俺は何のために、美咲との十二年間を終わらせたのだろう。




■■■ ED2:婚活成功ルート 後編 完 ■■■

ED2:婚活成功ルートはここで終了です。


続く第5話は、美咲視点の「共通エピローグ:私が選んだ人生」です。

もう一つの結末を読みたい方は、第2話「ED1:婚活失敗ルート」へどうぞ。

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