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今さら子供が欲しいと言ったら、妻に離婚を切り出された。  作者: 小笠原ゆか


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共通エピローグ:私が選んだ人生


離婚してから、三年が経った。


四十四歳になった私は、相変わらず仕事に追われている。


朝は七時に起き、身支度を整えて会社へ向かう。会議に出席し、部下からの相談を受け、取引先と打ち合わせをする。忙しい日は昼食を取る暇もなく、気づけば夕方になっていることもあった。

仕事は順調だった。昨年から任されている案件もようやく軌道に乗り、部下たちも少しずつ成長している。


もちろん、毎日が楽しいことばかりではない。思うように進まない仕事もあれば、面倒な調整を引き受けることもある。

それでも、私はこの仕事が好きだった。


離婚したばかりの頃は、一人暮らしに慣れるまで時間がかかった。


十二年間、一緒に暮らしていた人がいなくなったのだ。帰宅しても部屋が暗いことや、夕食を一人分だけ用意することが、妙に寂しかった。


けれど、三年も経てば、それも日常になる。


休日には友人と出かけることもあれば、家で一日中のんびり過ごすこともある。最近は、以前から興味のあった料理教室にも通い始めた。


一人の生活にも、すっかり慣れていた。



■■■



その日曜日、久しぶりに実家へ顔を出した。


母は私の好きな煮物を作って待っていてくれた。

食事を終え、母と二人でお茶を飲んでいた。


母は最近、近所に住む知人の娘が再婚したという話をしていた。相手にも子供がいて、今では五人家族になったらしい。


「賑やかになったって、喜んでたわよ」

「そうなんだ。よかったね」

「そういえば、美咲は再婚とか考えてないの?」


話のついでという調子だったが、母が以前から気にしていることは分かっていた。


「今のところはね。仕事も忙しいし」

「でも、いい人がいたら考えてもいいんじゃない?」

「それはまあ、そうだけど」


母は湯飲みに手を伸ばし、少し考えるようにしてから言った。


「あなた、昔は子供が欲しいって言ってたじゃない」

「昔はね」

「だったら、旦那さんが欲しいって言ってくれたんだから、産めばよかったのに」


母は不思議そうだった。

母にしてみれば、かつて私が望んでいたことを、夫も望むようになったのだから、何も離婚することはなかったのではないか。そう思うのだろう。


けれど、十二年前と今とでは、何もかもが違っていた。


私は湯飲みを置いた。


「お母さん、あのときだって、すぐに妊娠できたとは限らないのよ」


母は少し困った顔をした。


「それは、そうだけど」

「仮に三年後に生まれたとするでしょう? 私、四十七歳よ。お母さんは七十一歳」

「そうねえ」


母は自分の年齢を数えるように、指先で湯飲みをなぞった。

私は続けた。


「里帰りしたら、赤ちゃんの面倒、一緒に見てくれる?」

「そりゃあ、手伝うわよ」


母はすぐに答えた。


けれど、子供が生まれれば、それで終わりではない。仕事に復帰すれば、急な発熱で迎えに行かなければならない日もあるだろう。保育園が休みの日に、誰かに預けなければならないこともあるかもしれない。


私はそんな話をした。


「二歳、三歳になったら走り回るわよ。追いかけられる?」


母はすぐには答えなかった。


「……それは大変ね」

「でしょう? 私だって五十よ」


母はしばらく考えていた。

やがて、何かを思い出したように顔を上げた。


「そうか。あんたが三つの頃、私はまだ二十七だったものね」

「そうよ。お母さん、今の私よりずっと若かったでしょう?」

「そうねえ。三十代ならまだしも……」


母はそこで言葉を切った。


私は、四十代で出産し、子供を育てている人がいることも知っている。仕事と育児を両立させている同僚だっている。けれど、それができる人がいるからといって、私も同じことを望むわけではなかった。


「私はもういいかなって思ってるの」


そう言うと、母は小さく頷いた。

しばらくして、母は懐かしそうに笑った。


「それにしても、三歳くらいの子って、どうしてあんなに走るのかしらね」

「お母さん、私を追いかけてたの?」

「追いかけたわよ。スーパーでいなくなって、大騒ぎしたこともあったんだから」

「初めて聞いた」

「あんたは覚えてないでしょうね」


母は笑いながら、当時のことを話してくれた。


私が売場の棚の陰に隠れてしまい、母が店員に頼んで探してもらったこと。ようやく見つけた私は、母が必死になっていたことなど知らず、楽しそうに笑っていたらしい。


母はそのときのことを、昨日の出来事のように話した。


「あんたが五十になって、あれをやるとなると、確かに大変ねえ」


そう言って、母は湯飲みを持ち上げた。

母はそれ以上、子供の話を持ち出さなかった。



■■■



私は、子供が嫌いなわけではない。


友人の子供たちが小さかった頃は、一緒に遊んだし、成長の話を聞くのも楽しかった。

ただ、自分が子供を育てることとは別の話だった。


結婚する前、私は子供が欲しかった。けれど、彼は欲しくないと言った。

何度か話し合い、私は子供を持たない人生を選んだ。


簡単な決断ではなかった。

それでも、彼と一緒に生きていきたいと思ったからだ。


それから十二年間、私たちは二人で暮らした。


仕事が面白くなり、責任のある立場を任されるようになった。休日には二人で出かけ、気になる店を見つければ食事をし、休みが合えば旅行に行った。

そんな生活が好きだった。


いつの間にか、子供のいない人生が、私にとって当たり前になっていた。

だから、彼が突然子供を欲しいと言い出したときは驚いた。


昔は私が欲しいと言っても、いらないと言っていたのに。

今さら欲しいと言われても、困る。

私はもう、そのつもりがなかった。


彼の気持ちが変わったことを、責めるつもりはない。

私だって変わったのだから。


ただ、彼が子供を欲しくなったからといって、私まで欲しくなるわけではなかった。

彼が望む人生と、私が望む人生が違ってしまった。


離婚すると決めたときは、悲しかった。


十二年間の結婚生活を終わらせるのだから、当然だと思う。

けれど、あの時間を無駄だったとは思っていない。


楽しかったことも、嬉しかったことも、確かにあった。


そして今、私は別の生活を送っている。



■■■



実家からの帰り道、私は駅前の書店に立ち寄った。

旅行雑誌の棚に箱根の特集が並んでいるのを見つけ、手に取る。


来月は大学時代の友人二人と、一泊二日で温泉に行く予定だった。


一人は既婚で子供が二人いる。もう一人は独身で、最近転職したばかりだ。

三人とも、学生時代とはずいぶん生活が変わった。


それでも、こうして予定を合わせて旅行に行ける。


スマートフォンが震えた。友人からのメッセージだった。


『宿、ここでどう? 露天風呂付きだって』


送られてきた写真には、山を眺められる露天風呂が写っていた。

私は雑誌を閉じ、返信を打った。


『いいね。ここにしよう』


すぐにもう一人から返事が届いた。


『決まり! 楽しみ!』


私も楽しみだった。


帰宅してから、旅行の予定を手帳に書き込んだ。

月曜日には会議があり、水曜日には部下との面談がある。金曜日は友人と食事に行く約束をしていた。


来月の旅行まで、仕事も忙しくなりそうだった。

それでも、楽しみな予定があると、少し気分が違う。


私は手帳を閉じ、夕食の支度を始めた。

これから先、また誰かと結婚するかもしれない。


ずっと一人で暮らすかもしれない。


どちらでもいいと思っている。


若い頃に思い描いていた人生とは、ずいぶん違うところまで来た。

けれど、今の生活も、私は気に入っている。


鍋に火をかけると、台所に湯気が立ち上った。


明日も仕事だ。

夕食を済ませたら、少し早めに寝よう。



■■■ 完 ■■■

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回はちょっと毛色の違う、普段あまり書かない題材に挑戦してみました。

子供を持たない選択をした夫婦が、年月を経て心変わりしたらどうなるのか。そんなことを考えて書いたお話です。

どちらが正しいという話ではありませんので、それぞれの結末を楽しんでいただけたなら幸いです。

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