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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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9,世界の裏側

喫茶店を出てから、俺はまっすぐ家に帰った。


 異知《イチ》。


 コア。


 聞き慣れない言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。


 世界には、普通の物理現象では説明できない力がある。


 その力は、人間の内側にあるコアと呼ばれるものに関係している。


 刹那はそう説明した。


 けれど、分かったことより、分からないことのほうが多い。


 俺の声が聞こえなくなった現象は、本当に異知なのか。


 もしそうなら、どうして自分の声だけが消えるのか。


 そして、姉ちゃんを襲った黒衣の男も、異知を使っていたのだろうか。


「……考えても、答えは出ないか」


 俺は鞄の中のノートを確かめ、歩く速度を少し上げた。


 今は、刹那が調べてくれるという映像の結果を待つしかない。


 そう思っていた。


   


  *




 駅前の交差点に差しかかったとき、短い悲鳴が上がった。


「危ない!」


 振り向くと、横断歩道の向こうで自転車が倒れていた。


 買い物袋を抱えた女性が尻もちをつき、そのすぐそばで、小学生くらいの男の子が立ち尽くしている。


 車道には、急ブレーキをかけた車。


 けれど、車は止まりきれていなかった。


 クラクションが鳴る。


 周囲の人間が息をのむ。


 俺も、反射的に駆け出そうとした。


 その瞬間だった。


 自分の声が、消えた。


「止まれ!」


 叫んだつもりだった。


 口が動いた感覚はある。喉から声が出た感覚もあった。


 なのに、自分の声だけが聞こえない。


 車のエンジン音も、クラクションも、人々の叫び声も聞こえている。


 聞こえないのは、俺の声だけだ。


 また、あの現象。


 だが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。


 男の子が動けずにいる。


 車が迫っている。


 俺は走った。


 間に合え。


 ただ、それだけを考えていた。


 男の子の腕をつかみ、歩道側へ引き寄せる。


 直後、車が目の前を通り過ぎた。


 風圧で制服の裾が大きく揺れる。


 タイヤの音が、遅れて耳に届いた。


 男の子はその場に座り込み、目を見開いていた。


「大丈夫か!」


 今度は、自分の声が聞こえた。


 俺は思わず口元に手を当てた。


 声は戻っている。


 周囲の音も、何事もなかったかのように響いていた。


「ぼ、僕……」


「もう大丈夫だ。車は行ったから」


 そう言いながらも、心臓は激しく鳴っていた。


 今のは偶然なのか。


 危険を感じた瞬間に、また声が消えた。


 それとも、俺が走り出したことと何か関係があるのか。


 確かなことは何もない。


「君、ありがとうね!」


 転んでいた女性が、男の子を抱き寄せながら頭を下げた。


「いえ、そんな……」


 俺は曖昧に答えた。


 周囲の人々も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。


 誰も、俺の声が一瞬消えたことには気づいていない。


 当然だ。


 自分でも、何が起きたのか分かっていないのだから。


 俺はその場を離れ、近くの歩道脇で立ち止まった。


 ノートを取り出そうとして、やめた。


 今ここで書き始めれば、さっきの出来事を冷静に整理できない気がした。


 けれど、忘れるわけにはいかない。


 帰ったら記録しよう。


 いつ、どこで、何をしていたときに起きたのか。


 刹那の言ったとおり、無理に再現するつもりはない。


 ただ、起きたことを記録する。


 今の俺にできるのは、それだけだった。


  

   *



 帰宅すると、俺は制服のまま机に向かった。


 ノートを開き、さっきの出来事を書き込む。


『駅前の交差点。事故になりかけた場面で、自分の声が一瞬聞こえなくなった』


 その下に、思い出せる限りのことを書き足す。


『周囲の音は聞こえていた』


『男の子を助けようとした直後に発生』


『その後、自然に声が聞こえるようになった』


 ペンを置く。


 これで、はっきり覚えている現象は三回目になる。


 自室での出来事。


 そして、今日。


 学校での一件も含めれば四回だが、あのときは本当に声が消えていたのか、確信が持てない。


「……曖昧だな」


 自分で書いた記録を見て、ため息をついた。


 それでも、以前より状況は見えてきた。


 少なくとも、声が消える現象は、特定の場所だけで起きているわけではない。


 家でも、学校でも、外でも起きた。


 何か共通点があるとすれば――。


 俺はペンを握り直した。


 だが、そこで手が止まる。


 共通点を探そうとすれば、何にでも理由をつけられてしまう。


 危険を感じたから。


 姉ちゃんのことを考えていたから。


 独り言を言ったから。


 どれも、今のところは推測でしかない。


 刹那が言っていたことを思い出す。


 現象が珍しいことと、原因が確定していることは別。


 焦って答えを決めつければ、間違った方向へ進むかもしれない。


 俺はノートを閉じた。


 今は、記録を続ける。


 それ以上のことは、まだできない。


   


  *




 翌朝。


 家を出る直前、スマートフォンが震えた。


 刹那からのメッセージだった。


『昨日の映像について、少し進展があったよ。今日、放課後に時間をもらえる?』


 俺はすぐに返信した。


『分かった。何が分かったんだ?』


 数秒後、返事が届く。


『文章だけじゃ説明しづらい。直接話すよ』


「……またそれか」


 俺は小さく息を吐いた。


 けれど、今度は苛立ちよりも期待が勝っていた。


 映像に何かが映っていたのか。


 姉ちゃんが倒れた夜、何が起きていたのか。


 少しでも手がかりが見つかったのなら、知りたい。


 俺はスマートフォンをしまい、玄関を出た。


     *


 放課後、指定された場所へ向かう途中、俺は駅前の交差点を通った。


 昨日と同じ場所だった。


 信号が変わり、人々が横断歩道を渡っていく。


 昨日の男の子の姿はない。


 車も、自転車も、何事もなかったかのように行き交っていた。


 俺は足を止め、交差点を見つめた。


 昨日、あの場で起きたことを思い出す。


 声が消えた。


 けれど、俺は走ることができたし、男の子の腕をつかむこともできた。


 声が消えたからといって、体が動かなくなったわけではない。


 それに、声が消えたのは、男の子を助けようとした瞬間だった。


 偶然かもしれない。


 何かの条件が重なったのかもしれない。


 今の俺には、判断できなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 昨日の俺は、自分の声が聞こえなくなったことよりも、目の前の男の子を助けることを優先した。


 怖くなかったわけじゃない。


 今だって、自分の身に何が起きているのか分からないのは怖い。


 それでも、危険にさらされている人を前にして、何もしないままでいることはできなかった。


 姉ちゃんだったら、どうしただろう。


 考えるまでもない気がした。


 俺は交差点から視線を外し、歩き出した。


 刹那との待ち合わせ場所は、もうすぐだった。


 今度こそ、映像について何か分かるかもしれない。


 俺は鞄の中のノートを確かめた。


 分からないことは、まだ多い。


 それでも、少しずつ記録を重ねていくしかなかった。

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