8,知らない世界の入り口
翌日。
放課後になると、俺はスマートフォンを確認した。
昼休みに届いていたメッセージには、待ち合わせ場所と時間が書かれていた。
『駅前の喫茶店。十七時。遅刻したら置いていくからね』
最後の一文は、どう考えても余計だった。
「あいつ………」
そう呟きながらも、俺は指定された場所へ向かった。
神楽坂刹那。
姉のことを知っていて、俺の身に起きた現象にも興味を持っている男。
あいつに会えば、何か分かるかもしれない。
そう思う一方で、少し怖くもあった。
もし、自分の身に起きていることが、普通では考えられないようなものだったら。
もし、姉が倒れたことと関係していたら。
俺は、その先を考えるのをやめた。
今は、確かめるしかない。
*
喫茶店に入ると、刹那は窓際の席で手を振っていた。
銀白色の髪に、淡い薄紫色の瞳。
周囲の客に紛れているはずなのに、なぜか目を引く。
「やあ、蓮くん。ちゃんと来てくれたね」
「呼んだのはそっちだろ」
「そうだった。いやあ、君はなかなか素直で助かるよ」
「……帰っていいか?」
「駄目。注文くらいしていきなよ」
刹那は楽しそうに笑った。
俺は向かいの席に座り、メニューを開いた。
飲み物を注文してしばらくすると、刹那はテーブルの上に小さな端末を置いた。
「それで、昨日の話を聞かせてもらおうか」
俺は鞄からノートを取り出した。
最初に書いた、自分の声が聞こえなくなったという記録。
その後に起きたこと。
そして、地域ニュースで見つけた映像の乱れ。
順番に説明していくと、刹那は茶化すことなく耳を傾けていた。
「なるほど。発生したのは合計で何回?」
「はっきり覚えてるのは、二回くらいだと思う。学校でと、そのくらいか…」
「最初のときは、意識して起こしたわけじゃないんだね?」
「ああ。今でも、どうすれば起きるのか分からない」
「周囲の音が全部消えたわけでもない?」
「違う。聞こえなかったのは、自分の声だけだ」
刹那は端末に何かを書き込んだ。
その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。
「……なあ」
「ん?」
「これって、何なんだよ」
刹那はすぐには答えなかった。
やがて、端末を置いて俺を見た。
「今の情報だけで断定するのは危険だ。でも、一つだけ説明しておいたほうがよさそうだね」
俺は身を乗り出した。
「君が経験しているような、通常の物理現象では説明しきれない特殊な現象。それに関わる力を、僕たちは『異知』と呼んでいる」
「……異知?」
「そう。人間の内側にあるコアと呼ばれるものに関係していて、そこから発現する力だ。能力によって、干渉できる現象も違う」
聞き慣れない言葉が、頭の中を通り過ぎていく。
コア。
異知。
今まで知らなかったものばかりだった。
「じゃあ、俺にもその……異知っていうのがあるのか?」
「可能性はある。だけど、まだ決めつけないほうがいい」
「自分の声が消えるんだぞ。それでも分からないのか?」
「現象が珍しいことと、原因が確定していることは別だからね」
刹那は淡々と答えた。
「僕が君の話だけで能力を断定したら、それは調査じゃなくて当てずっぽうだ」
反論できなかった。
俺は、自分の身に起きたことを知りたかった。
けれど、知りたいからといって、答えがすぐに手に入るわけではない。
「……じゃあ、俺はこれからどうすればいい?」
「今までどおり、起きたことを記録する。無理に再現しようとしない。それから、何か変化があれば僕に連絡する」
「それだけ?」
「今の君にできることとしては、十分だよ」
納得できたわけではなかった。
それでも、闇雲に動くよりはましなのだろう。
俺はノートを閉じた。
*
「もう一つ、聞きたいことがある」
俺は保存した動画を刹那に見せた。
「これ、俺の家の近くで起きたことなんだ。姉ちゃんが倒れた夜と関係があるかもしれない」
刹那は動画を再生し、問題の箇所で指を止めた。
画面が歪み、音声が途切れる。
ほんの一瞬の乱れだった。
「この映像だけでは、何が起きたのかまでは分からないね」
「やっぱり、そうか……」
「ただ、君が気にしていることは理解できる。お姉さんが倒れた夜に、周囲でも異常が起きていた。無関係だと決めつける理由もない」
刹那は動画の情報を確認し、端末に記録した。
「これ、調べてもらえないか?」
「セフィラで確認できる範囲は調べてみるよ。ただし、結果がすぐに出るとは限らない」
「頼む」
「うん。引き受けた」
あまりにもあっさりした返事だった。
俺は拍子抜けしつつも、胸の奥にあった重さが少しだけ軽くなるのを感じた。
初めて、自分が見つけたものを誰かと共有できた。
それだけのことなのに、今までとは違う気がした。
「……神楽坂」
「刹那でいいよ」
「じゃあ、刹那。姉ちゃんのことも、調べてくれるのか?」
刹那の表情が、わずかに変わった。
「お姉さんについては、僕も知りたいことがある。けれど、君に何でも話せるわけじゃない」
「どうしてだよ」
「今は、君が知らないほうがいいこともあるから」
「それを決めるのは、あんたなのか?」
思わず強い口調になった。
刹那は怒らなかった。
ただ、俺をまっすぐ見つめた。
「……そう言われると、耳が痛いね」
そして、いつもの軽い笑みを浮かべた。
「でも、何もかも一度に知ればいいってものでもない。君が自分で確かめられることは、自分で確かめるといい。僕は、その手助けくらいならできる」
納得したわけではない。
けれど、姉のことを何も知らない俺には、今すぐ答えを求めることもできなかった。
*
店を出るころには、外は夕暮れに染まっていた。
「今日はありがとう」
俺がそう言うと、刹那は少し意外そうな顔をした。
「おや、素直だね」
「……やっぱり取り消す」
「ははっ。冗談だよ」
刹那は片手を上げ、駅とは反対の方向へ歩き出した。
「何かあったら連絡して。君が思っている以上に、世界には知られていないことが多いから」
その背中を見送りながら、俺は今日聞いた言葉を思い返した。
異知。
コア。
自分の知らない力が、この世界には存在している。
そして、自分にも、その力が関係しているかもしれない。
まだ何一つ確定していない。
それでも、ようやく知るための入口に立てた気がした。
俺は鞄の中のノートに手を添えた。
姉を襲った男のこと。
姉が倒れた理由。
自分の身に起きている異変。
知りたいことは、山ほどある。
だが、その答えを探すためには、今までの自分が知らなかった世界と向き合わなければならない。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも、もう目をそらすつもりはなかった。
俺は夕暮れの街を歩き出した。
まだ何も知らない少年が、知らない世界の入口に立った。
その一歩が、やがて大きな渦へとつながっていくことを、このときの俺はまだ知らなかった。




