7,残された記録
翌朝、俺は目覚ましが鳴るよりも早く目を覚ました。
昨夜、ノートに書き残した言葉が、頭から離れなかった。
『自分の声が一瞬聞こえなくなった』
気のせいではない。
あのとき、俺は確かに声を出した。喉が動いた感覚もあった。それなのに、自分の声だけが聞こえなかった。
何度試しても、同じことは起きなかった。
まるで、あの一瞬だけ何かが狂ったように。
「……考えても分からないか」
俺はノートを閉じ、鞄に入れた。
学校へ行く時間だった。
*
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
教師の説明を聞きながら、ノートの隅に昨夜の現象を書き出していく。
発生した時間。場所。直前に口にした言葉。周囲の音に変化があったかどうか。
書けることは、思ったより少なかった。
それでも、何も残さないよりはいい。
昼休みになると、俺はスマートフォンを取り出した。
保存していた記事を開く。
数日前、自宅周辺で起きた不可解な損傷について報じた、小さな地域ニュースだった。
建物の一部が破損したこと。現場付近で不自然な音声や映像の乱れが確認されたこと。原因は特定されていないこと。
記事そのものは短く、詳しい説明もなかった。
あの夜の出来事を知っている俺にとっては、無視できない内容だった。
姉が倒れた夜。
家で起きた異常。
そして、姉を襲った黒衣の男。
それぞれが無関係だとは、どうしても思えなかった。
俺は記事に添付されていた動画を再生した。
映っているのは、夜の道路と、その向こうにある建物だった。
しばらくは何の変哲もない映像が続く。
車が通り過ぎる。街灯が照らす歩道を、人影が横切る。
その直後。
画面が、一瞬だけ乱れた。
「……今の」
俺は動画を止め、数秒前まで戻す。
再生する。
また、画面が乱れた。
ほんの一瞬だった。映像が歪み、音声が途切れる。けれど、それ以外には目立った異常はない。
俺は何度か同じ箇所を再生した。
何かが映っているわけではない。
黒衣の男の姿も、姉が倒れた理由につながるものも見つからなかった。
それでも、気になることがあった。
映像が乱れる直前、画面の端に人影らしきものが見えたのだ。
ただの通行人かもしれない。
映像の乱れによって、そう見えただけかもしれない。
断定できるものは何もなかった。
「……くそ」
思わず声が漏れた。
結局、何も分からない。
記事を見つけたときには、何か手がかりになると思った。けれど、調べれば調べるほど、分からないことばかりが増えていく。
俺は動画を保存し、記事の公開日時と掲載元をノートに書き写した。
少なくとも、後から確認することはできる。
そう自分に言い聞かせて、スマートフォンをしまった。
*
放課後、俺は学校を出ると、駅へ向かう途中で足を止めた。
スマートフォンを取り出し、神楽坂刹那の連絡先を開く。
昨日までは、何か起きても、すぐに連絡するべきか迷っていた。
けれど、もう一度同じ現象が起きた。
そして、今は別の手がかりも見つかっている。
自分だけで調べ続けても、限界がある。
俺は通話ボタンを押した。
『はいはい、どうしたの、蓮くん?』
「……昨日、話したことなんだけど」
『自分の声が聞こえなくなった件?』
「ああ。また起きた。昨夜、自分の部屋で。今度は、はっきり覚えてる」
電話の向こうが、わずかに静かになった。
『周りの音は?』
「普通に聞こえてた。聞こえなかったのは、自分の声だけだと思う」
『発生する直前は、何をしていた?』
「独り言を言ってた。それだけだ。何か特別なことをしたつもりはない」
『なるほど』
刹那は、それ以上すぐには何も言わなかった。
「……なあ。やっぱり、何か分かるのか?」
『残念だけど、まだね。ただ、前より具体的な情報が増えたのは確かだ』
「だったら、俺にも調べさせてくれよ」
『調べる?』
「姉ちゃんを襲った男のことも、俺の身に起きてることも。何も知らないまま待ってるのは、もう嫌なんだ」
言葉にしてみると、自分が思っていた以上に強い気持ちだった。
姉が倒れてから、何度も考えた。
自分に何かできたんじゃないか。
あの男を止められたんじゃないか。
今さら考えても、答えは出ない。
けれど、何も知らないままでいたくはなかった。
『……分かった』
刹那の声が、少しだけ真面目になった。
『明日、時間を作れる? 直接話そう。君が記録したことも、もう少し詳しく聞きたい』
「何が分かるんだ?」
『それは会ってからのお楽しみ、かな』
「そういう言い方、やめてくれないか」
『ははっ、ごめんごめん』
いつもの調子に戻った声が、電話越しに響いた。
『一つだけ約束して。明日まで、無理に現象を起こそうとしないこと。動画の確認も、できる範囲で十分だ。危険を冒してまで調べる必要はない』
「……分かった」
『じゃあ、場所と時間はあとで送るよ』
通話が切れた。
俺はスマートフォンを握ったまま、しばらくその場に立っていた。
ようやく、一歩進めるのかもしれない。
けれど、刹那が何を知っているのかは、まだ分からない。
あいつが何を考えているのかも。
*
家に帰ると、俺は机に向かった。
ノートを開き、今日分かったことを書き加える。
『動画の一部に映像と音声の乱れがある』
『乱れる直前に人影らしきものが映っている。ただし、正体は不明』
『神楽坂刹那と明日、直接話す』
書き終えてから、俺はペンを置いた。
ノートには、曖昧な情報ばかりが並んでいる。
それでも、最初に書いた一行よりは増えていた。
分からないことが、少しずつ形になっていく。
その先に何があるのかは、まだ見えない。
俺は机の引き出しから、姉と撮った写真を取り出した。
そこには、いつもどおり笑っている姉と、その隣で少し不機嫌そうな顔をした俺が写っていた。
「……姉ちゃん」
写真の中の姉は、何も答えない。
「俺、ちゃんと調べるから」
声は、いつもどおり聞こえた。
それを確かめるように、俺は一度だけ息を吐く。
明日、刹那に会えば、何かが変わるかもしれない。
けれど、どんな話を聞かされても、姉が倒れた理由も、あの男の正体も、すぐに分かるとは限らない。
それでも、進むしかなかった。
俺は写真を机に戻し、ノートを閉じた。
まだ何も知らない。
自分の中で何が起きているのかさえ、分からない。
それでも、今度は一人で答えを探す必要はないのかもしれなかった。




