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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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7/24

7,残された記録

翌朝、俺は目覚ましが鳴るよりも早く目を覚ました。


 昨夜、ノートに書き残した言葉が、頭から離れなかった。


『自分の声が一瞬聞こえなくなった』


 気のせいではない。


 あのとき、俺は確かに声を出した。喉が動いた感覚もあった。それなのに、自分の声だけが聞こえなかった。


 何度試しても、同じことは起きなかった。


 まるで、あの一瞬だけ何かが狂ったように。


「……考えても分からないか」


 俺はノートを閉じ、鞄に入れた。


 学校へ行く時間だった。


  

   *



 午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 教師の説明を聞きながら、ノートの隅に昨夜の現象を書き出していく。


 発生した時間。場所。直前に口にした言葉。周囲の音に変化があったかどうか。


 書けることは、思ったより少なかった。


 それでも、何も残さないよりはいい。


 昼休みになると、俺はスマートフォンを取り出した。


 保存していた記事を開く。


 数日前、自宅周辺で起きた不可解な損傷について報じた、小さな地域ニュースだった。


 建物の一部が破損したこと。現場付近で不自然な音声や映像の乱れが確認されたこと。原因は特定されていないこと。


 記事そのものは短く、詳しい説明もなかった。


 あの夜の出来事を知っている俺にとっては、無視できない内容だった。


 姉が倒れた夜。


 家で起きた異常。


 そして、姉を襲った黒衣の男。


 それぞれが無関係だとは、どうしても思えなかった。


 俺は記事に添付されていた動画を再生した。


 映っているのは、夜の道路と、その向こうにある建物だった。


 しばらくは何の変哲もない映像が続く。


 車が通り過ぎる。街灯が照らす歩道を、人影が横切る。


 その直後。


 画面が、一瞬だけ乱れた。


「……今の」


 俺は動画を止め、数秒前まで戻す。


 再生する。


 また、画面が乱れた。


 ほんの一瞬だった。映像が歪み、音声が途切れる。けれど、それ以外には目立った異常はない。


 俺は何度か同じ箇所を再生した。


 何かが映っているわけではない。


 黒衣の男の姿も、姉が倒れた理由につながるものも見つからなかった。


 それでも、気になることがあった。


 映像が乱れる直前、画面の端に人影らしきものが見えたのだ。


 ただの通行人かもしれない。


 映像の乱れによって、そう見えただけかもしれない。


 断定できるものは何もなかった。


「……くそ」


 思わず声が漏れた。


 結局、何も分からない。


 記事を見つけたときには、何か手がかりになると思った。けれど、調べれば調べるほど、分からないことばかりが増えていく。


 俺は動画を保存し、記事の公開日時と掲載元をノートに書き写した。


 少なくとも、後から確認することはできる。


 そう自分に言い聞かせて、スマートフォンをしまった。


  


   *




 放課後、俺は学校を出ると、駅へ向かう途中で足を止めた。


 スマートフォンを取り出し、神楽坂刹那の連絡先を開く。


 昨日までは、何か起きても、すぐに連絡するべきか迷っていた。


 けれど、もう一度同じ現象が起きた。


 そして、今は別の手がかりも見つかっている。


 自分だけで調べ続けても、限界がある。


 俺は通話ボタンを押した。


『はいはい、どうしたの、蓮くん?』


「……昨日、話したことなんだけど」


『自分の声が聞こえなくなった件?』


「ああ。また起きた。昨夜、自分の部屋で。今度は、はっきり覚えてる」


 電話の向こうが、わずかに静かになった。


『周りの音は?』


「普通に聞こえてた。聞こえなかったのは、自分の声だけだと思う」


『発生する直前は、何をしていた?』


「独り言を言ってた。それだけだ。何か特別なことをしたつもりはない」


『なるほど』


 刹那は、それ以上すぐには何も言わなかった。


「……なあ。やっぱり、何か分かるのか?」


『残念だけど、まだね。ただ、前より具体的な情報が増えたのは確かだ』


「だったら、俺にも調べさせてくれよ」


『調べる?』


「姉ちゃんを襲った男のことも、俺の身に起きてることも。何も知らないまま待ってるのは、もう嫌なんだ」


 言葉にしてみると、自分が思っていた以上に強い気持ちだった。


 姉が倒れてから、何度も考えた。


 自分に何かできたんじゃないか。


 あの男を止められたんじゃないか。


 今さら考えても、答えは出ない。


 けれど、何も知らないままでいたくはなかった。


『……分かった』


 刹那の声が、少しだけ真面目になった。


『明日、時間を作れる? 直接話そう。君が記録したことも、もう少し詳しく聞きたい』


「何が分かるんだ?」


『それは会ってからのお楽しみ、かな』


「そういう言い方、やめてくれないか」


『ははっ、ごめんごめん』


 いつもの調子に戻った声が、電話越しに響いた。


『一つだけ約束して。明日まで、無理に現象を起こそうとしないこと。動画の確認も、できる範囲で十分だ。危険を冒してまで調べる必要はない』


「……分かった」


『じゃあ、場所と時間はあとで送るよ』


 通話が切れた。


 俺はスマートフォンを握ったまま、しばらくその場に立っていた。


 ようやく、一歩進めるのかもしれない。


 けれど、刹那が何を知っているのかは、まだ分からない。


 あいつが何を考えているのかも。


  


   *




 家に帰ると、俺は机に向かった。


 ノートを開き、今日分かったことを書き加える。


『動画の一部に映像と音声の乱れがある』


『乱れる直前に人影らしきものが映っている。ただし、正体は不明』


『神楽坂刹那と明日、直接話す』


 書き終えてから、俺はペンを置いた。


 ノートには、曖昧な情報ばかりが並んでいる。


 それでも、最初に書いた一行よりは増えていた。


 分からないことが、少しずつ形になっていく。


 その先に何があるのかは、まだ見えない。


 俺は机の引き出しから、姉と撮った写真を取り出した。


 そこには、いつもどおり笑っている姉と、その隣で少し不機嫌そうな顔をした俺が写っていた。


「……姉ちゃん」


 写真の中の姉は、何も答えない。


「俺、ちゃんと調べるから」


 声は、いつもどおり聞こえた。


 それを確かめるように、俺は一度だけ息を吐く。


 明日、刹那に会えば、何かが変わるかもしれない。


 けれど、どんな話を聞かされても、姉が倒れた理由も、あの男の正体も、すぐに分かるとは限らない。


 それでも、進むしかなかった。


 俺は写真を机に戻し、ノートを閉じた。


 まだ何も知らない。


 自分の中で何が起きているのかさえ、分からない。


 それでも、今度は一人で答えを探す必要はないのかもしれなかった。

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