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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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6/24

6,続く異変

翌朝、俺はノートを鞄に入れて家を出た。


 昨夜は、あまり眠れなかった。


 神楽坂刹那との電話を何度も思い返していたからだ。


 あいつは、俺の身に何が起きているのか分からないと言った。


 本当に分からないのか。それとも、何かを隠しているのか。


 考えても答えは出なかった。


 そもそも、刹那の言葉を疑うだけの根拠もない。俺はあいつのことを何も知らないのだから。


「……考えても仕方ないか」


 独り言を口にし、駅へ向かう。


 声は普通に聞こえた。


 昨日も、一昨日もそうだった。


 あの奇妙な現象は、あれ以来一度も起きていない。


 まるで、あのときだけ世界の何かが狂ったように。


  


   *




 午前の授業が終わり、昼休みになった。


 俺は友人と一緒に弁当を食べながら、窓の外を眺めていた。


「なあ、最近何かあった?」


「何だよ、急に」


「いや、お前さ。ずっと何か考えてるだろ」


 箸を止める。


 そんなに分かりやすかっただろうか。


「姉さんのこと?」


「……まあな」


 嘘をつく気にはなれなかった。


 友人は少しだけ表情を曇らせた。


「そっか。早く目が覚めるといいな」


「ああ」


「お前、昔から姉ちゃんのことになると必死だもんな」


「余計なお世話だ」


 そう返すと、友人は笑った。


 俺も少しだけ笑った。


 ほんの短い時間だったが、気持ちが軽くなった気がした。


 そのとき、教室の前方で椅子が倒れた。


 ガタン、と大きな音が響く。


 何人かが振り返り、倒した生徒が慌てて椅子を起こした。


 いつもなら、それで終わるような出来事だった。


 けれど、俺は妙なことに気づいていた。


 椅子の音が聞こえた瞬間、ほんの一瞬だけ、自分の周囲の音が遠ざかったように感じたのだ。


 友人の声も、教室のざわめきも。


 いや、違う。


 周りの音は聞こえていた。


 聞こえなくなったような気がしたのは、俺自身の声だった。


 さっき、何か言おうとしていなかったか。


 記憶をたどるが、はっきりしない。


「どうした?」


 友人に顔をのぞき込まれ、我に返った。


「いや、何でもない」


 今度は、ちゃんと声が聞こえた。


 俺は弁当箱に視線を落とした。


 気のせいだ。


 そう考えようとした。


 けれど、胸の奥に小さな違和感が残っていた。


  


   *




 放課後、俺は病院へ向かった。


 姉の病室に入ると、いつもと同じ光景が広がっていた。


「姉ちゃん、来たよ」


 返事はない。


 俺は椅子に座り、学校で起きたことを思い返した。


 あの一瞬。


 自分の声だけが、聞こえなくなったような感覚。


 以前と同じだ。


 だが、今回は確信が持てなかった。


 実際に声が消えたのか。それとも、疲れていて聞き逃しただけなのか。


 確かめる方法はない。


 俺は姉の手を見つめた。


「……なあ、姉ちゃん」


 声に出してみる。


「俺、変なことばっかり考えてるよな」


 返事はない。


「姉ちゃんが起きたら、全部聞かせてくれよ。今まで何をしてたのか。あの男は何者なのか。俺にも分かるようにさ」


 言ってから、苦笑した。


 目を覚ました姉が、素直に全部話してくれるとは限らない。


 きっと、いつものように笑ってごまかすだろう。


 それでもいい。


 また姉と話せるなら、それだけでいい。


 俺は立ち上がり、病室を出た。


  


   *


 


 帰宅したのは、夜になってからだった。


 玄関を開けると、家の中は静まり返っていた。


 姉が倒れる前は、こんな静けさを意識したこともなかった。


 今は、何をしていても、姉がいないことを思い知らされる。


 俺は夕食を済ませ、自分の部屋に戻った。


 机の上には、昨日のノートが置いてある。


 ページを開き、今日の出来事を書き加えようとした。


 だが、ペン先が止まった。


 何と書けばいいのだろう。


『また声が聞こえなくなった気がした』


 それだけだ。


 曖昧すぎる。


 俺はしばらく考えたあと、その一文を書き、ノートを閉じた。


 それから、何となく声を出した。


「明日の時間割……」


 自分の声が聞こえる。


「一時間目、数学」


 聞こえる。


「二時間目、英語」


 聞こえる。


 馬鹿らしくなってきた。


「……何やってんだ、俺」


 そう呟いた、その瞬間だった。


 口は動いた。


 喉も、確かに声を出そうとした。


 なのに。


 何も聞こえなかった。


「……っ?」


 俺は息を止めた。


 今、何と言った?


 いや、そんなことはどうでもいい。


 声が消えた。


 自分が発したはずの声が、耳に届かなかった。


 慌てて、もう一度声を出す。


「聞こえるか?」


 今度は聞こえた。


 自分の声も、換気扇の低い音も、窓の外を走る車の音も。


 すべて、いつもどおりだった。


 俺は立ち上がった。


 もう一度、試す。


「聞こえるか?」


 聞こえる。


「聞こえるか?」


 聞こえる。


 何度繰り返しても、同じだった。


 さっきの現象は、二度と起きなかった。


 俺は机に手をつき、荒くなった息を整えた。


 気のせいではない。


 今度は、確かに感じた。


 声を出したはずなのに、その音だけが消えた。


 周囲の音は、何一つ変わらなかった。


「……何なんだよ、これ」


 思わず声が漏れる。


 恐怖よりも、困惑のほうが大きかった。


 何かが起きている。


 それだけは分かる。


 だが、どうして自分の声だけなのか。なぜ、いつも同じように起きないのか。


 何も分からない。


 俺はノートを開き、震える手で書き込んだ。


『夜、自室。独り言を言った直後、自分の声が一瞬聞こえなくなった』


 その下に、さらに書き足す。


『周囲の音は聞こえていた』


 書き終えたあとも、しばらく文字を見つめていた。


 これは偶然なのだろうか。


 それとも、俺の身に何かが起きているのだろうか。


 答えは出ない。


 けれど、昨日までとは違う。


 今回は、自分が何をしていたのかを覚えている。


 俺はスマートフォンを取り出し、刹那の連絡先を開いた。


 電話をかけるべきだろうか。


 しばらく迷った末、画面を閉じた。


 まだ、すべてを説明できるほど整理できていない。


 まずは、今日起きたことを忘れないようにしよう。


 俺はノートを閉じ、机の引き出しにしまった。


 部屋の中は静かだった。


 けれど、その静けさの中で、俺は初めて自分の身に起きていることを、はっきりと意識していた。


 自分の声が消える。


 ただ、それだけの現象。


 それが何を意味するのか、今の俺には分からない。

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