6,続く異変
翌朝、俺はノートを鞄に入れて家を出た。
昨夜は、あまり眠れなかった。
神楽坂刹那との電話を何度も思い返していたからだ。
あいつは、俺の身に何が起きているのか分からないと言った。
本当に分からないのか。それとも、何かを隠しているのか。
考えても答えは出なかった。
そもそも、刹那の言葉を疑うだけの根拠もない。俺はあいつのことを何も知らないのだから。
「……考えても仕方ないか」
独り言を口にし、駅へ向かう。
声は普通に聞こえた。
昨日も、一昨日もそうだった。
あの奇妙な現象は、あれ以来一度も起きていない。
まるで、あのときだけ世界の何かが狂ったように。
*
午前の授業が終わり、昼休みになった。
俺は友人と一緒に弁当を食べながら、窓の外を眺めていた。
「なあ、最近何かあった?」
「何だよ、急に」
「いや、お前さ。ずっと何か考えてるだろ」
箸を止める。
そんなに分かりやすかっただろうか。
「姉さんのこと?」
「……まあな」
嘘をつく気にはなれなかった。
友人は少しだけ表情を曇らせた。
「そっか。早く目が覚めるといいな」
「ああ」
「お前、昔から姉ちゃんのことになると必死だもんな」
「余計なお世話だ」
そう返すと、友人は笑った。
俺も少しだけ笑った。
ほんの短い時間だったが、気持ちが軽くなった気がした。
そのとき、教室の前方で椅子が倒れた。
ガタン、と大きな音が響く。
何人かが振り返り、倒した生徒が慌てて椅子を起こした。
いつもなら、それで終わるような出来事だった。
けれど、俺は妙なことに気づいていた。
椅子の音が聞こえた瞬間、ほんの一瞬だけ、自分の周囲の音が遠ざかったように感じたのだ。
友人の声も、教室のざわめきも。
いや、違う。
周りの音は聞こえていた。
聞こえなくなったような気がしたのは、俺自身の声だった。
さっき、何か言おうとしていなかったか。
記憶をたどるが、はっきりしない。
「どうした?」
友人に顔をのぞき込まれ、我に返った。
「いや、何でもない」
今度は、ちゃんと声が聞こえた。
俺は弁当箱に視線を落とした。
気のせいだ。
そう考えようとした。
けれど、胸の奥に小さな違和感が残っていた。
*
放課後、俺は病院へ向かった。
姉の病室に入ると、いつもと同じ光景が広がっていた。
「姉ちゃん、来たよ」
返事はない。
俺は椅子に座り、学校で起きたことを思い返した。
あの一瞬。
自分の声だけが、聞こえなくなったような感覚。
以前と同じだ。
だが、今回は確信が持てなかった。
実際に声が消えたのか。それとも、疲れていて聞き逃しただけなのか。
確かめる方法はない。
俺は姉の手を見つめた。
「……なあ、姉ちゃん」
声に出してみる。
「俺、変なことばっかり考えてるよな」
返事はない。
「姉ちゃんが起きたら、全部聞かせてくれよ。今まで何をしてたのか。あの男は何者なのか。俺にも分かるようにさ」
言ってから、苦笑した。
目を覚ました姉が、素直に全部話してくれるとは限らない。
きっと、いつものように笑ってごまかすだろう。
それでもいい。
また姉と話せるなら、それだけでいい。
俺は立ち上がり、病室を出た。
*
帰宅したのは、夜になってからだった。
玄関を開けると、家の中は静まり返っていた。
姉が倒れる前は、こんな静けさを意識したこともなかった。
今は、何をしていても、姉がいないことを思い知らされる。
俺は夕食を済ませ、自分の部屋に戻った。
机の上には、昨日のノートが置いてある。
ページを開き、今日の出来事を書き加えようとした。
だが、ペン先が止まった。
何と書けばいいのだろう。
『また声が聞こえなくなった気がした』
それだけだ。
曖昧すぎる。
俺はしばらく考えたあと、その一文を書き、ノートを閉じた。
それから、何となく声を出した。
「明日の時間割……」
自分の声が聞こえる。
「一時間目、数学」
聞こえる。
「二時間目、英語」
聞こえる。
馬鹿らしくなってきた。
「……何やってんだ、俺」
そう呟いた、その瞬間だった。
口は動いた。
喉も、確かに声を出そうとした。
なのに。
何も聞こえなかった。
「……っ?」
俺は息を止めた。
今、何と言った?
いや、そんなことはどうでもいい。
声が消えた。
自分が発したはずの声が、耳に届かなかった。
慌てて、もう一度声を出す。
「聞こえるか?」
今度は聞こえた。
自分の声も、換気扇の低い音も、窓の外を走る車の音も。
すべて、いつもどおりだった。
俺は立ち上がった。
もう一度、試す。
「聞こえるか?」
聞こえる。
「聞こえるか?」
聞こえる。
何度繰り返しても、同じだった。
さっきの現象は、二度と起きなかった。
俺は机に手をつき、荒くなった息を整えた。
気のせいではない。
今度は、確かに感じた。
声を出したはずなのに、その音だけが消えた。
周囲の音は、何一つ変わらなかった。
「……何なんだよ、これ」
思わず声が漏れる。
恐怖よりも、困惑のほうが大きかった。
何かが起きている。
それだけは分かる。
だが、どうして自分の声だけなのか。なぜ、いつも同じように起きないのか。
何も分からない。
俺はノートを開き、震える手で書き込んだ。
『夜、自室。独り言を言った直後、自分の声が一瞬聞こえなくなった』
その下に、さらに書き足す。
『周囲の音は聞こえていた』
書き終えたあとも、しばらく文字を見つめていた。
これは偶然なのだろうか。
それとも、俺の身に何かが起きているのだろうか。
答えは出ない。
けれど、昨日までとは違う。
今回は、自分が何をしていたのかを覚えている。
俺はスマートフォンを取り出し、刹那の連絡先を開いた。
電話をかけるべきだろうか。
しばらく迷った末、画面を閉じた。
まだ、すべてを説明できるほど整理できていない。
まずは、今日起きたことを忘れないようにしよう。
俺はノートを閉じ、机の引き出しにしまった。
部屋の中は静かだった。
けれど、その静けさの中で、俺は初めて自分の身に起きていることを、はっきりと意識していた。
自分の声が消える。
ただ、それだけの現象。
それが何を意味するのか、今の俺には分からない。




