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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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5,名前のない異変

翌朝、俺は机に向かっていた。


 目の前には、一冊のノートとシャープペンシル。ノートの最初のページには、昨日の夜に書いた文字が並んでいる。


『自分の声が聞こえなくなった』


 その下には、起きた場所や状況を思い出せる限り書き足していた。


 学校の教室。放課後。姉が倒れたあとのことを考えていたとき。


 それ以外に、はっきりしたことは何もない。


「……これだけかよ」


 思わず呟いた。


 何かが起きたのは間違いない。けれど、いつでも起こせるわけではないし、どうすれば起きるのかも分からない。


 昨日、神楽坂刹那は言っていた。


 自分の身に起きたことを、きちんと覚えておくこと。


 いつ、どこで、何が起きたのか。思い込みで決めつけないこと。


 言われたとおりにしているつもりだったが、こうして書き出してみると、自分がどれだけ何も知らないのかを思い知らされる。


 そもそも、あの現象が何なのかさえ分からない。


 俺はノートを閉じた。


 今は、これ以上考えても仕方がなかった。


   


  *


 


 学校では、いつもどおり授業が進んでいった。


 教師の声。教科書をめくる音。窓の外から聞こえる運動部の掛け声。


 すべてが当たり前に聞こえる。


 あの日から、俺は音を意識するようになっていた。


 自分が話すとき。誰かが話しかけてきたとき。机を引く音や、椅子が床を擦る音。


 何か変わったことが起きないか、無意識に確かめてしまう。


 けれど、何も起きなかった。


「雲ヶ谷、次のページ」


「……あ、悪い」


 隣の席の友人に言われ、慌てて教科書を開く。


「最近、ぼんやりしてるな。ちゃんと寝てるか?」


「まあ、そこそこ」


「絶対嘘だろ」


 友人は呆れたように笑った。


「お姉さんのこと、心配なのは分かるけどさ。お前まで倒れたら意味ないぞ」


「分かってるよ」


 そう答えたものの、心配をやめられるはずもなかった。


 姉が倒れてから、まだ数日しか経っていない。


 病院から連絡が来るたび、何か変化があったのではないかと身構えてしまう。スマートフォンが震えるだけで、胸が嫌な音を立てる。


 それなのに、何もできない。


 授業を受けて、友人と話して、家に帰る。


 いつもと同じ一日を過ごしているだけで、姉の時間だけが止まっているような気がした。


   


  *




 放課後、俺は図書室に立ち寄った。


 目的は、昨日から気になっている言葉を調べることだった。


 異知。


 刹那は、異知に関わる事件を扱う組織に所属していると言っていた。


 だが、異知そのものについては、ほとんど何も教えてくれなかった。


 俺は図書室の端末で検索してみた。


 最初に出てきたのは、同じ読み方をする別の言葉や、関係のない書籍の情報だった。


 検索条件を変えても、大した結果は出てこない。


 公的な機関のページを探しても、異知という言葉を説明する資料は見つからなかった。


「……何なんだよ、これ」


 世の中には、知らないことがいくらでもある。


 それは当たり前だ。


 けれど、昨日まで普通に暮らしていた自分のすぐそばに、何かを隠しているような世界がある。そのことが、妙に気味悪く感じられた。


 試しに、セフィラという名前も検索してみた。


 こちらは、いくつかの情報が見つかった。


 世界調和維持機構《セフィラ》。


 異常な現象や特殊な事件への対処を行う公的組織。一般の警察では対応が難しい事案にも関わるらしい。


 ただし、詳しい活動内容は限られた範囲でしか公開されていなかった。


 昨日、刹那が話していたことと大きくは違わない。


 それでも、分かったのはそこまでだった。


 異知が何なのか。どうやって使うのか。なぜ姉が関わっていたのか。


 肝心なことは、何一つ分からない。


 俺は検索画面を閉じた。


 今の段階で、無理に答えを探しても意味はなさそうだった。


 けれど、一つだけ分かったことがある。


 刹那は、俺が知らないことを知っている。


 そして、姉もまた、俺が知らない世界で生きていた。


   


  *




 病院に着いたのは、夕方だった。


 病室に入ると、姉はいつもと同じように眠っていた。


「姉ちゃん、来たよ」


 返事はない。


 俺は椅子に座り、鞄からノートを取り出した。


 書きかけのページを開き、しばらく眺める。


「なあ、姉ちゃん」


 返事がないことは分かっている。それでも、話さずにはいられなかった。


「俺、少しずつ調べてみることにした」


 何をどう調べればいいのか、まだはっきりしていない。


 それでも、昨日までのように、何も分からないことを理由に立ち止まるのはやめようと思った。


「あの男のことも、姉ちゃんが何をしていたのかも。俺が何をできるのかも」


 ノートを閉じる。


「だから、もう少しだけ待っててくれ」


 姉の手にそっと触れた。


 温かかった。


 その温かさに、胸の奥が少しだけ緩む。


 姉は生きている。


 今は、それを信じるしかない。


 病室を出る前、俺はもう一度だけ姉の顔を見た。


 いつか目を覚ましたら、聞きたいことが山ほどある。


 それまでに、少しでも何かを知っておきたかった。


    


  *


 


 病院を出て駅へ向かっていると、スマートフォンが震えた。


 病院からの連絡かと思い、慌てて画面を見る。


 違った。


 知らない番号からの着信だった。


 しばらく迷ってから、通話ボタンを押す。


「……もしもし?」


『やあ、蓮くん。昨日ぶり』


 聞き覚えのある声だった。


「神楽坂……?」


『正解。覚えていてくれて嬉しいよ』


「何で俺の番号を知ってるんだよ」


『仕事柄、必要な連絡先を調べることくらいあるさ。嫌だった?』


「いや、そういう問題じゃ……」


 言いかけて、やめた。


 この男に常識を求めても、まともな答えが返ってくる気がしない。


「何の用だよ」


『昨日の話の続き。少し確認したいことがあってね』


 刹那の声から、いつもの軽い調子が薄れた。


『君が経験した、自分の声が聞こえなくなったという現象。それ以外にも、何か変わったことはあった?』


「いや。今のところ、それだけだ」


『そうか。もう一度起きたことは?』


「ない。何度か確かめたけど、何も起きなかった」


『なるほどね』


 電話の向こうで、刹那が考え込む気配がした。


「……なあ。俺の身に何が起きてるんだ?」


『まだ分からない』


 即答だった。


 少し期待していた分、肩透かしを食らった気分になる。


『ただ、君の話は気になっている。だから、何か変化があったら教えてほしい』


「それだけか?」


『今はね。無理に再現しようとする必要はないよ。何も分からない状態で、危険なことを試すのはおすすめしない』


 昨日と同じ忠告だった。


 俺は小さく息を吐く。


「……分かった。何かあったら連絡する」


『うん。それじゃあ、また』


 通話が切れた。


 スマートフォンを見つめながら、俺はしばらく立ち止まっていた。


 刹那は、俺の異変に興味を持っている。


 だが、何が起きているのかは分からないと言った。


 それが本当なのか、何かを隠しているのか、俺には判断できなかった。


 結局、今の俺にできることは変わらない。


 起きたことを記録すること。


 分からないことを、分かったつもりにならないこと。


 そして、次に何かが起きたとき、今度こそ見逃さないこと。


 家に帰ると、俺はノートを開いた。


 最後のページに、新しい一文を書き加える。


『異知については、まだ何も分からない』


 その下に、もう一行。


『それでも、自分に起きたことから目をそらさない』


 ペンを置き、窓の外を見る。


 夜の街には、いつもと変わらない明かりが灯っていた。


 そのどこかで、姉を倒した男が何をしているのかは分からない。


 俺の中で起きた異変が何を意味するのかも、まだ分からない。


 けれど、知らないままでいることを、少しずつやめていく。


 それが今の俺にできる、最初の一歩だった。

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