4,鏡の向こう
路地を抜けた先にも、あの男の姿はなかった。
俺は通りを見回し、何度も周囲を確かめた。店の陰、建物の隙間、交差点の向こう側。どこを探しても、黒いコートは見当たらない。
「……くそっ」
息を吐き、壁にもたれかかる。
追いつけなかった。
あの夜と同じだ。目の前にいたはずなのに、何もできないまま見失った。
ただ、今回は違う。
俺は確かに、あの男を見た。
見間違いなんかじゃない。
姉を襲った男は、今もこの街にいる。
スマートフォンを取り出し、先ほど保存した記事を開く。画面に映る壊れた玄関を見ていると、胸の奥が嫌な具合に締めつけられた。
調べなければならない。
男の正体も、コアという言葉の意味も、姉が倒れた理由も。
何一つ分からないままでは、また同じことが起きても、俺は立ち尽くすことしかできない。
そう思って歩き出したときだった。
「ずいぶん怖い顔をしてるね」
不意に、横から声がした。
「……っ!」
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。
銀白色の髪に、淡い藤色の瞳。整った顔立ちはどこか中性的で、通りを歩く人々の中にいても自然と目を引く。
薄いコートのポケットに両手を入れ、こちらを眺めている。
その表情には、緊張感というものがまるでなかった。
「誰だ、あんた」
「初対面の相手にずいぶんな挨拶だなあ。僕、そんなに怪しく見える?」
「見えるだろ」
「そっか。これは気をつけないと」
青年は、まるで世間話でもしているかのように笑った。
調子が狂う。
さっきまで俺は、姉を襲った男を追いかけていたのだ。こんなところで知らない人間と話している場合じゃない。
「悪いけど、急いでるんだ」
「うん。さっきの人を追いかけてたんだよね」
足が止まった。
「……何?」
「黒いコートの男。ずいぶん必死だったじゃないか」
見られていた。
だが、それだけならおかしくはない。人通りのある場所だったのだから。
「知ってるのか、あいつを」
「質問が早いなあ」
「答えろよ」
思わず声が強くなった。
青年は怒るどころか、少しだけ目を細めた。
「君、あの男を追いかけてどうするつもりだったの?」
「そんなの……」
答えようとして、言葉が詰まった。
捕まえる?
何のために。捕まえたあと、どうする。
俺には戦う力も、相手を拘束する方法もない。仮に追いついていたとしても、何かできたとは限らない。
それでも、見過ごすことなんてできなかった。
「……姉を襲った男なんだ」
ようやく、それだけを口にした。
「姉さんが?」
青年の笑みが、わずかに消えた。
「君のお姉さんの名前は?」
「雲ヶ谷詩織」
青年はしばらく黙っていた。
その目に浮かんでいたのは、驚きというより、何かを確かめるような色だった。
「……そうか。詩織さんが」
知っている。
この男も、姉を知っている。
「姉さんと知り合いなのか?」
「まあね。彼女には、いろいろと世話になってる」
「だったら教えてくれ。あの男は何者なんだ? 姉さんに何をした? コアって何なんだよ!」
問い詰めるように言うと、青年は小さく息を吐いた。
「一度に三つか。欲張りだね」
「ふざけるな!」
「ふざけてないよ」
声は軽いままだった。
けれど、その瞳から笑みが消えていた。
「君が知りたいのは分かる。でも、今の君に何を話せばいいのか、僕にも判断がつかないんだ」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味さ」
青年は俺の顔をじっと見た。
値踏みするような視線だった。
「君は、あの男を追いかけた。何の準備もなく、相手の力も分からないまま。もし追いついていたら、どうなっていたと思う?」
「……」
「運がよければ、何も起きなかったかもしれない。でも、そうじゃなかったら?」
返す言葉がなかった。
悔しいが、言っていることは正しい。
俺は何も知らなかった。相手がどんな力を持っているのかも、どうすれば対抗できるのかも。
ただ、怒りに任せて走っただけだ。
「君は、お姉さんを守りたいんだよね」
「当たり前だ」
「だったら、怒りだけで動かないことだ。気持ちは分かるけど、それだけじゃ何も守れない」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
あの男と同じことを言われた気がしたからだ。
『何もできない者が、何を守るというんだ?』
拳を握りしめる。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
声が震えた。
「俺は何も知らない。姉さんが何をしていたのかも、あいつが何者なのかも。自分に何ができるのかさえ分からないんだ」
青年は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、ふっと笑う。
「なるほど。君が雲ヶ谷蓮くんか」
「……なんで俺の名前を知ってる?」
「やっぱり、そこが気になるよね」
青年はようやく、コートのポケットから片手を出した。
「神楽坂刹那。世界調和維持機構の執行官だよ」
「セフィラ……?」
「異知に関わる事件を調査したり、危険な異知使いを取り締まったりする組織。君のお姉さんも、僕たちとは無関係じゃない」
初めて聞く言葉ばかりだった。
異知。
セフィラ。
姉は、そんな組織と関わっていたのか。
「姉さんは、何者なんだ?」
「それを話すには、君が知らないことが多すぎる。順番に説明する必要があるね」
刹那はそう言って、少しだけ首を傾けた。
「でも、その前に一つ聞かせてほしい」
「何だよ」
「君自身には、何か変わったことが起きていない?」
息が止まった。
自分の声が、聞こえなくなった瞬間。
誰にも話していないはずの、あの奇妙な現象。
「……どうして、そんなことを聞くんだ」
「質問に答えてくれると嬉しいな」
刹那は笑っていた。
けれど、その視線は一瞬たりとも俺から外れない。
隠すべきか。
正直に話すべきか。
迷った末、俺は口を開いた。
「……自分の声が、聞こえなくなったことがある」
刹那の表情が変わった。
ほんのわずかな変化だった。知らない人間なら、見逃してしまう程度の。
しかし、俺には分かった。
この男は、何かを知っている。
「いつ?」
「姉さんが倒れたあとだ。学校にいるとき、自分で何かを言ったはずなのに、一瞬だけ声が聞こえなくなった。家でも確かめたけど、同じことは起きなかった」
「自分の声だけ?」
「……たぶん」
刹那は顎に手を当てた。
先ほどまでの軽薄な態度が、ほんの少しだけ薄れている。
「へえ……」
「何か分かったのか?」
「まだ何とも言えない。ただ、偶然だと決めつけるのは早そうだ」
俺の胸が高鳴った。
ようやく、何かが分かるかもしれない。
だが、刹那はすぐにいつもの笑顔へ戻った。
「とはいえ、今ここで詳しく調べるわけにもいかないしね」
「おい、待てよ!」
「焦らない、焦らない」
刹那は歩き出し、数歩進んでから振り返った。
「蓮くん。君が本当に知りたいことがあるなら、まずは自分の身に起きたことを覚えておくといい。何が起きたのか、いつ起きたのか。小さなことでもね」
「それで、何か分かるのか?」
「少なくとも、何も考えずに突っ込むよりはずっといい」
言い返せなかった。
刹那は楽しそうに笑った。
「それじゃあ、また会おう。君には、まだ聞きたいことがあるから」
「俺だって、あんたに聞きたいことが山ほどある!」
「それはお互い様だね」
彼は軽く手を振り、人混みの中へ歩いていった。
今度は追いかけなかった。
追いかけたところで、また何もできずに終わるかもしれない。
それに、今の俺には確かめなければならないことができた。
自分の声が消えた、あの一瞬。
あれは何だったのか。
俺の中で、何が起き始めているのか。
まだ答えはない。
けれど、姉が倒れたあの夜から、俺の知らない世界は確実に動き始めていた。
そして俺は、その入り口に立ったばかりだった




