3,知らない世界
翌朝、目覚まし時計が鳴る少し前に目が覚めた。
昨日は、結局ほとんど眠れなかった。
机の上には、開いたままの課題が残っている。ノートには途中まで書いた文字が並んでいたが、どこまで考えていたのか、もう思い出せなかった。
「……最悪だ」
顔を洗い、制服に着替える。
学校へ行く準備をしながら、何度もスマートフォンを確認した。
病院からの連絡はない。
姉の容体が急変したわけではない。それだけで安心するべきなのだろう。
けれど、意識が戻らないまま時間だけが過ぎていくことも、俺には十分すぎるほど怖かった。
玄関を出る直前、ふと足が止まった。
姉の靴が、まだそこにある。
いつもなら、俺より先に家を出ていることも多かった姉。休日には俺の靴を勝手に履いて出かけ、帰ってきてから怒られても知らん顔をしていた。
そんなことを思い出して、少しだけ笑いそうになった。
すぐに、笑えなくなった。
「……行ってくる」
誰もいない家に声をかけ、扉を閉めた。
*
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
ノートを取っているふりをしながら、俺は何度も考えていた。
あの男は、何者だったのか。
姉のことを知っていたのは間違いない。姉も、あいつの名前を呼んでいた。
つまり、二人は以前から面識があった。
それも、ただの知り合いというわけではないのだろう。
あの夜、姉は俺をかばって戦っていた。
相手が何をしたのか、俺には分からない。ただ、姉が何度倒されても立ち上がったことだけは覚えている。
姉は、あんなことに慣れているように見えた。
俺の知らないところで、何度も危険な目に遭っていたのだろうか。
だとしたら、どうして何も話してくれなかったのだろう。
「雲ヶ谷」
「……え?」
顔を上げると、教師がこちらを見ていた。
「聞いているか?」
「すみません」
教室のあちこちから小さな笑い声が聞こえた。
いつもなら適当に受け流せたはずなのに、今日は何も言い返す気になれなかった。
休み時間、友人が机の横にやってきた。
「まだ大変そうだな」
「まあな」
「無理すんなよ。俺らにできることがあったら言えよ」
「……ありがとな」
その言葉は、本心だった。
心配してくれる人がいる。それはありがたい。
でも、誰かに相談したところで、姉が目を覚ますわけではない。
俺が知りたいのは、慰めの言葉じゃなかった。
あの男の正体だ。
姉が何に巻き込まれていたのか。
そして、今度こそ自分に何ができるのか。
*
放課後、俺は病院へ向かった。
姉の病室には、誰もいなかった。
「姉ちゃん、来たよ」
返事はない。
いつもどおりの光景だった。
ベッドの脇に鞄を置き、椅子に座る。姉の顔を見ていると、どうしてもあの夜のことを考えてしまう。
俺は、あの男の名前を思い出そうとした。
姉が呼んでいた名前。
確かに聞いたはずなのに、記憶の中ではひどく曖昧になっている。
「……くそ、なんでだよ」
額を押さえる。
あの夜のことは、何度も頭の中で繰り返した。なのに、肝心なところだけがうまく繋がらない。
男の顔は覚えている。
声も覚えている。
それなのに、名前だけが遠い。
俺は顔を上げ、姉の手を握った。
「なあ。俺、どうすればいいんだよ」
当然、返事はなかった。
「姉ちゃんが起きるまで、何もするなってことか?」
自分でも、無茶なことを言っていると思った。
相手の居場所も分からない。名前すら確かではない。警察に話しても、あの夜に起きたことをどこまで信じてもらえるか分からない。
今の俺にできることなんて、ほとんどない。
それでも、何もしないまま待つのは嫌だった。
俺は鞄からスマートフォンを取り出し、検索画面を開いた。
入力したのは、あの男が口にした言葉だった。
『コアをもらいに来た』
検索結果には、無関係な記事や商品のページばかりが並んだ。
当然だ。
人間から何かを引き抜く話なんて、普通に考えれば現実にあるはずがない。
それでも、いくつか言葉を変えて検索してみた。
何も出てこない。
やがて、画面を見つめていた指が止まった。
「……何やってんだ、俺」
こんなことをしても意味はない。
そう思ってスマートフォンを閉じようとした、そのとき。
画面の端に、一件の投稿が表示された。
地方の小さなニュースサイトだった。
数日前、住宅街で発生した不可解な事件についての記事。
見出しには、こう書かれていた。
『原因不明の建物損壊 目撃者の証言に食い違い』
俺は思わず画面を開いた。
記事によれば、ある住宅で突然、玄関扉と周辺の壁が大きく破損したという。けが人は確認されていないが、現場にいた住人の証言には不自然な点が多く、詳しい原因は分かっていないらしい。
写真に写っている建物を見て、息が止まった。
見覚えがあった。
俺の家だった。
「……は?」
記事の日付は、姉が倒れた翌日。
写真は遠くから撮影されたものらしく、玄関周辺しか写っていない。それでも、間違いなかった。
俺は記事を何度も読み返した。
なぜ、こんな記事が出ている?
あの夜のことは警察に話した。けれど、ニュースになるような話は聞いていない。
しかも、記事には妙な一文があった。
『現場周辺で撮影された映像には、破損が起きる直前の数秒間、映像と音声の乱れが確認された』
指先が冷たくなった。
あの夜、玄関が歪んだ瞬間。
空気が揺らいだように見えたこと。
そして、姉の周囲に浮かび上がった奇妙な光。
記憶の断片が、次々と蘇ってくる。
俺は記事の下にある問い合わせ先を確認した。
小さな地方ニュースサイトの編集部。連絡先は公開されている。
ここに連絡すれば、何か分かるかもしれない。
そう考えて、スマートフォンを握り直した。
けれど、すぐに指が止まった。
何と説明する?
自分の家が壊された。姉が襲われた。犯人は人間離れしたことをした。
そんな話をして、信じてもらえるはずがない。
それでも。
ここには、少なくとも一つの手がかりがある。
俺は記事を保存し、立ち上がった。
「……待ってろよ、姉ちゃん」
眠る姉に向かって呟く。
「今度は、俺が調べるから」
*
病院を出た頃には、空が赤く染まっていた。
駅へ向かう途中、俺はふと足を止めた。
道路の向こう側。
人通りの少ない歩道に、一人の男が立っていた。
黒いコート。
細身の体格。
顔はよく見えない。
なのに、心臓が嫌な音を立てた。
知っている。
あの姿を、俺は知っている。
男がこちらを向いた。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
あの夜と同じ目。
忘れられるはずのない、あの男の目だった。
「……お前」
声が漏れた。
男は何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。
人々が二人の間を通り過ぎていく。誰も男に気づいていないようだった。
俺は一歩踏み出した。
「待て!」
男は背を向けた。
「おい、待てって!」
走り出す。
人混みを抜け、横断歩道を渡る。男の背中はすぐそこにあるはずなのに、距離が縮まらない。
信号が変わり、車がクラクションを鳴らした。
俺は足を止めざるを得なかった。
その一瞬。
男の姿が、路地の向こうへ消えた。
「くそっ……!」
急いで路地に入ったが、そこには誰もいなかった。
行き止まりではない。先には別の通りへ抜ける道がある。
それでも、あの短い時間で姿を見失うなんておかしい。
俺は壁に手をつき、荒い息を整えた。
見間違いだったのだろうか。
いや、違う。
確かに見た。
あの男だった。
姉を襲い、俺の目の前からすべてを奪った男。
拳を握る。
何もできなかった夜が、頭の中をよぎった。
また、逃げられた。
結局、今回も何もできなかった。
「……次は、逃がさない」
口にした言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。
それでも、言わずにはいられなかった。
俺はまだ何も知らない。
あの男の正体も、姉が倒れた理由も、自分の身に起き始めている異変も。
ただ、もう一つだけ分かったことがある。
あの夜の出来事は、偶然でも、夢でもない。
そして、あの男は今もどこかで動いている。
俺が知らない世界で。
俺の知らない何かを巡って。




