↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
PR
3/24

3,知らない世界

翌朝、目覚まし時計が鳴る少し前に目が覚めた。


 昨日は、結局ほとんど眠れなかった。


 机の上には、開いたままの課題が残っている。ノートには途中まで書いた文字が並んでいたが、どこまで考えていたのか、もう思い出せなかった。


「……最悪だ」


 顔を洗い、制服に着替える。


 学校へ行く準備をしながら、何度もスマートフォンを確認した。


 病院からの連絡はない。


 姉の容体が急変したわけではない。それだけで安心するべきなのだろう。


 けれど、意識が戻らないまま時間だけが過ぎていくことも、俺には十分すぎるほど怖かった。


 玄関を出る直前、ふと足が止まった。


 姉の靴が、まだそこにある。


 いつもなら、俺より先に家を出ていることも多かった姉。休日には俺の靴を勝手に履いて出かけ、帰ってきてから怒られても知らん顔をしていた。


 そんなことを思い出して、少しだけ笑いそうになった。


 すぐに、笑えなくなった。


「……行ってくる」


 誰もいない家に声をかけ、扉を閉めた。


  

   *



 午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 ノートを取っているふりをしながら、俺は何度も考えていた。


 あの男は、何者だったのか。


 姉のことを知っていたのは間違いない。姉も、あいつの名前を呼んでいた。


 つまり、二人は以前から面識があった。


 それも、ただの知り合いというわけではないのだろう。


 あの夜、姉は俺をかばって戦っていた。


 相手が何をしたのか、俺には分からない。ただ、姉が何度倒されても立ち上がったことだけは覚えている。


 姉は、あんなことに慣れているように見えた。


 俺の知らないところで、何度も危険な目に遭っていたのだろうか。


 だとしたら、どうして何も話してくれなかったのだろう。


「雲ヶ谷」


「……え?」


 顔を上げると、教師がこちらを見ていた。


「聞いているか?」


「すみません」


 教室のあちこちから小さな笑い声が聞こえた。


 いつもなら適当に受け流せたはずなのに、今日は何も言い返す気になれなかった。


 休み時間、友人が机の横にやってきた。


「まだ大変そうだな」


「まあな」


「無理すんなよ。俺らにできることがあったら言えよ」


「……ありがとな」


 その言葉は、本心だった。


 心配してくれる人がいる。それはありがたい。


 でも、誰かに相談したところで、姉が目を覚ますわけではない。


 俺が知りたいのは、慰めの言葉じゃなかった。


 あの男の正体だ。


 姉が何に巻き込まれていたのか。


 そして、今度こそ自分に何ができるのか。


  

   *



 放課後、俺は病院へ向かった。


 姉の病室には、誰もいなかった。


「姉ちゃん、来たよ」


 返事はない。


 いつもどおりの光景だった。


 ベッドの脇に鞄を置き、椅子に座る。姉の顔を見ていると、どうしてもあの夜のことを考えてしまう。


 俺は、あの男の名前を思い出そうとした。


 姉が呼んでいた名前。


 確かに聞いたはずなのに、記憶の中ではひどく曖昧になっている。


「……くそ、なんでだよ」


 額を押さえる。


 あの夜のことは、何度も頭の中で繰り返した。なのに、肝心なところだけがうまく繋がらない。


 男の顔は覚えている。


 声も覚えている。


 それなのに、名前だけが遠い。


 俺は顔を上げ、姉の手を握った。


「なあ。俺、どうすればいいんだよ」


 当然、返事はなかった。


「姉ちゃんが起きるまで、何もするなってことか?」


 自分でも、無茶なことを言っていると思った。


 相手の居場所も分からない。名前すら確かではない。警察に話しても、あの夜に起きたことをどこまで信じてもらえるか分からない。


 今の俺にできることなんて、ほとんどない。


 それでも、何もしないまま待つのは嫌だった。


 俺は鞄からスマートフォンを取り出し、検索画面を開いた。


 入力したのは、あの男が口にした言葉だった。


『コアをもらいに来た』


 検索結果には、無関係な記事や商品のページばかりが並んだ。


 当然だ。


 人間から何かを引き抜く話なんて、普通に考えれば現実にあるはずがない。


 それでも、いくつか言葉を変えて検索してみた。


 何も出てこない。


 やがて、画面を見つめていた指が止まった。


「……何やってんだ、俺」


 こんなことをしても意味はない。


 そう思ってスマートフォンを閉じようとした、そのとき。


 画面の端に、一件の投稿が表示された。


 地方の小さなニュースサイトだった。


 数日前、住宅街で発生した不可解な事件についての記事。


 見出しには、こう書かれていた。


『原因不明の建物損壊 目撃者の証言に食い違い』


 俺は思わず画面を開いた。


 記事によれば、ある住宅で突然、玄関扉と周辺の壁が大きく破損したという。けが人は確認されていないが、現場にいた住人の証言には不自然な点が多く、詳しい原因は分かっていないらしい。


 写真に写っている建物を見て、息が止まった。


 見覚えがあった。


 俺の家だった。


「……は?」


 記事の日付は、姉が倒れた翌日。


 写真は遠くから撮影されたものらしく、玄関周辺しか写っていない。それでも、間違いなかった。


 俺は記事を何度も読み返した。


 なぜ、こんな記事が出ている?


 あの夜のことは警察に話した。けれど、ニュースになるような話は聞いていない。


 しかも、記事には妙な一文があった。


『現場周辺で撮影された映像には、破損が起きる直前の数秒間、映像と音声の乱れが確認された』


 指先が冷たくなった。


 あの夜、玄関が歪んだ瞬間。


 空気が揺らいだように見えたこと。


 そして、姉の周囲に浮かび上がった奇妙な光。


 記憶の断片が、次々と蘇ってくる。


 俺は記事の下にある問い合わせ先を確認した。


 小さな地方ニュースサイトの編集部。連絡先は公開されている。


 ここに連絡すれば、何か分かるかもしれない。


 そう考えて、スマートフォンを握り直した。


 けれど、すぐに指が止まった。


 何と説明する?


 自分の家が壊された。姉が襲われた。犯人は人間離れしたことをした。


 そんな話をして、信じてもらえるはずがない。


 それでも。


 ここには、少なくとも一つの手がかりがある。


 俺は記事を保存し、立ち上がった。


「……待ってろよ、姉ちゃん」


 眠る姉に向かって呟く。


「今度は、俺が調べるから」


  

   *



 病院を出た頃には、空が赤く染まっていた。


 駅へ向かう途中、俺はふと足を止めた。


 道路の向こう側。


 人通りの少ない歩道に、一人の男が立っていた。


 黒いコート。


 細身の体格。


 顔はよく見えない。


 なのに、心臓が嫌な音を立てた。


 知っている。


 あの姿を、俺は知っている。


 男がこちらを向いた。


 その瞬間、頭の中が真っ白になった。


 あの夜と同じ目。


 忘れられるはずのない、あの男の目だった。


「……お前」


 声が漏れた。


 男は何も言わなかった。


 ただ、こちらを見ていた。


 人々が二人の間を通り過ぎていく。誰も男に気づいていないようだった。


 俺は一歩踏み出した。


「待て!」


 男は背を向けた。


「おい、待てって!」


 走り出す。


 人混みを抜け、横断歩道を渡る。男の背中はすぐそこにあるはずなのに、距離が縮まらない。


 信号が変わり、車がクラクションを鳴らした。


 俺は足を止めざるを得なかった。


 その一瞬。


 男の姿が、路地の向こうへ消えた。


「くそっ……!」


 急いで路地に入ったが、そこには誰もいなかった。


 行き止まりではない。先には別の通りへ抜ける道がある。


 それでも、あの短い時間で姿を見失うなんておかしい。


 俺は壁に手をつき、荒い息を整えた。


 見間違いだったのだろうか。


 いや、違う。


 確かに見た。


 あの男だった。


 姉を襲い、俺の目の前からすべてを奪った男。


 拳を握る。


 何もできなかった夜が、頭の中をよぎった。


 また、逃げられた。


 結局、今回も何もできなかった。


「……次は、逃がさない」


 口にした言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 俺はまだ何も知らない。


 あの男の正体も、姉が倒れた理由も、自分の身に起き始めている異変も。


 ただ、もう一つだけ分かったことがある。


 あの夜の出来事は、偶然でも、夢でもない。


 そして、あの男は今もどこかで動いている。


 俺が知らない世界で。


 俺の知らない何かを巡って。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。