2,消えた声
姉が倒れてから、三日が経った。
病院の白い天井を、俺はぼんやりと見つめていた。
ベッドの上で眠る姉は、いつもと変わらない顔をしている。
少しだけ癖のある黒髪。
整った顔立ち。
何か企んでいるときに、ほんのわずかに上がる口角。
今にも目を覚まして、「蓮、そんなところで何してるの?」と笑いかけてきそうだった。
けれど、姉は目を覚まさない。
「……先生、本当に原因は分からないんですか」
病室に来た医師は、困ったように眉を下げた。
「検査では、目立った異常は見つかっていない。生命活動も安定しているんだ。ただ、意識が戻らな い理由が分からない」
「じゃあ、いつ目を覚ますんですか」
「今の段階では、何とも言えない」
また、それだ。
分からない。
何とも言えない。
聞き飽きた言葉だった。
「……そうですか」
医師が出ていったあと、俺は姉の手を握った。
温かい。
生きている。
なのに、何も届かない。
「なあ、姉ちゃん」
返事はない。
「俺、また醤油取ってって言われたら取るからさ」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
「だから……早く起きろよ」
喉の奥が詰まった。
泣くつもりなんてなかった。
でも、姉の顔を見ていると、あの夜のことが頭から離れなかった。
何度倒されても、俺を守ろうとした姉。
そして、そんな姉を前に何もできなかった俺。
『何もできない者が、何を守るというんだ?』
「……うるせえよ」
誰もいない病室で、俺は呟いた。
あの男が憎い。
姉に何をしたのかも分からないまま、すべてを奪っていったあいつが。
そして何より、あいつの言葉を否定できなかった自分が。
憎かった。
*
帰宅すると、家の中は妙に広く感じた。
「……ただいま」
返事はない。
玄関のドアは修理され、壁の傷も片付けられていた。
まるで、あの夜なんてなかったかのように。
食卓には、姉が使っていた箸が残っていた。
俺はそれを手に取り、しばらく眺めた。
「……片付けるか」
箸を引き出しにしまい、茶碗を洗う。
いつもなら姉が適当に押しつけてくる家事を、今日は全部自分でやった。
それだけのことなのに、ひどく疲れた。
夕食を一人で済ませ、自分の部屋へ戻る。
スマートフォンには、友人たちからのメッセージが届いていた。
『大丈夫か?』
『何かあったら言えよ』
ありがたかった。
けれど、何と返せばいいのか分からなかった。
姉が知らない男に襲われた。
目の前で倒れた。
何もできなかった。
そんな話を、簡単に打ち明けられるわけがない。
俺はスマートフォンを机に置き、ベッドへ倒れ込んだ。
眠れる気はしなかった。
目を閉じれば、あの夜の光景が蘇る。
玄関のドアが歪んだ瞬間。
姉が男の名前を呼んだ瞬間。
そして、姉の身体から奇妙な光が浮かび上がった瞬間。
コア。
あの男は、確かにそう言った。
けれど、それが何なのかは分からない。
姉が何をしていたのかも、あの男が何者なのかも、俺には何一つ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
俺は、姉について何も知らなかった。
毎日一緒に食事をしていたのに。
くだらないことで言い合っていたのに。
姉がどんな世界で生きていたのか、何も知らなかった。
「……くそっ」
枕に顔を埋めた。
どうすればいいのか、分からなかった。
*
翌朝。
俺はほとんど眠れないまま、制服に着替えた。
学校へ行く気分ではなかったが、家に一人でいるのも嫌だった。
いつもの通学路を歩く。
いつもの信号。
いつもの住宅街。
何も変わっていない。
なのに、昨日までと同じ景色には見えなかった。
学校では、友人たちが気を遣ってくれた。
無理に事情を聞くこともなく、いつも通りに話しかけてくれる。
俺も、できる限り普段通りに振る舞った。
笑って、相槌を打って、授業を受ける。
そうしていれば、少しは気が紛れると思った。
けれど、放課後。
誰もいなくなった教室で、俺は一人、机に向かっていた。
「……帰るか」
鞄を持ち上げ、立ち上がる。
そのとき、消しゴムが机から落ちた。
コトン。
小さな音が教室に響く。
俺は消しゴムを拾い、何気なく呟いた。
「……あー、もう」
その瞬間。
妙な違和感を覚えた。
「……ん?」
今、何かがおかしかった。
俺は顔を上げ、教室を見回した。
誰もいない。
窓の外から運動部の掛け声が聞こえてくる。廊下からは、遠ざかる生徒たちの足音も聞こえた。
なのに。
自分がさっき口にした言葉だけ、聞こえた記憶がなかった。
「……気のせいか」
疲れているのだろう。
そう思い、もう一度呟いた。
「帰ろう」
今度は、ちゃんと聞こえた。
俺は首を傾げた。
そして、試しに同じ言葉を繰り返す。
「帰ろう」
――聞こえない。
口は動いている。
喉も動いている。
なのに、自分の声だけが耳に届かなかった。
「……は?」
俺は思わず口元を押さえた。
もう一度、普通に話す。
「聞こえるよな……?」
声が聞こえた。
今度は、さっきと同じ言葉を小さく呟く。
――聞こえない。
心臓が早鐘を打ち始めた。
何だ、これ。
喉がおかしいのか?
いや、違う。
声は出ている。自分の口が動いているのも分かる。
ただ、音だけが消えている。
俺は恐る恐る、もう一度声を出した。
「……姉ちゃん」
今度は、聞こえた。
教室の静けさの中に、俺の声が小さく響く。
安堵しかけた、その直後。
「……姉ちゃん」
また、声が消えた。
背筋が冷たくなった。
偶然ではない。
少なくとも、俺の気のせいだけで片付けられることではなかった。
俺は自分の手を見つめた。
何も変わっていない。
特別な力を使った覚えもない。
ただ、声を出しただけだ。
それなのに、音が消える。
「……何なんだよ、これ」
呟いた声は、今度は聞こえた。
俺は教室を飛び出した。
廊下を走り、階段を下りる。
足音は聞こえる。
息遣いも聞こえる。
何もおかしくない。
けれど、さっきの現象は確かに起きた。
俺は昇降口で立ち止まり、荒い息を整えた。
姉が倒れてから、何かが変わったのだろうか。
あの夜、姉の周囲で空気が揺らいだ光景が頭をよぎる。
俺には、何が起きていたのか分からなかった。
今も、自分に何が起きているのか分からない。
ただ、無関係だとは思えなかった。
*
その夜。
自分の部屋で、俺は机に向かっていた。
目の前には、学校の課題が広がっている。
文字を追っても、まったく頭に入らなかった。
俺はシャープペンシルを置き、深く息を吐いた。
「……もう一回」
誰に聞かせるわけでもなく、呟く。
今度は、声が聞こえた。
普通だ。
何も起きない。
もう一度。
「……聞こえない、か」
その声も、ちゃんと耳に届いた。
何度試しても、同じ現象は起きなかった。
まるで、あのときだけ偶然、音が消えたかのように。
「……くそっ」
俺は机に突っ伏した。
分からないことばかりだった。
姉が何者だったのか。
あの男が何を求めていたのか。
そして、自分の身に何が起きているのか。
何も分からない。
けれど、あの夜から世界が変わってしまったことだけは、嫌というほど分かっていた。
姉が目を覚ましたら、全部聞いてやる。
仕事のことも。
あの男のことも。
俺に隠していたことも。
だから、今は待つしかない。
「……早く起きろよ、姉ちゃん」
俺は机に置かれた写真立てを見つめた。
そこには、少し照れくさそうに笑う姉と、隣で不機嫌そうな顔をしている俺が写っていた。
いつ撮った写真だったか、もう思い出せない。
ただ、あの頃は当たり前だった。
姉が家にいて、俺に面倒なことを押しつけて、くだらないことで笑って。
明日も、明後日も、そんな日々が続くと思っていた。
もう一度、あの時間に戻りたい。
そう願っても、時間は戻らない。
俺にできることは、何もなかった。
――そのはずだった。
机の上のシャープペンシルが、床に落ちた。
カラン、と乾いた音が響く。
俺は顔を上げた。
その音を聞きながら、ふと思った。
もしも。
もしも、自分に何かできるのだとしたら。
今度こそ、姉を守れるのだろうか。
答えは出ない。
ただ、胸の奥に小さな違和感が残っていた。
自分の声が消えた、あの一瞬。
あれは、何だったのだろう。
まだ俺は何も知らない。




