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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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10/24

10,映像に映った影

 待ち合わせ場所は、駅から少し離れた雑居ビルの二階だった。


 入口の看板には、小さく「喫茶室」と書かれている。昨日の店とは違い、客の姿はほとんどなかった。


 階段を上がると、奥のテーブルに刹那が座っていた。


「やあ、蓮くん。こっちこっち」


「……今度は何なんだよ、この場所」


「静かでいいだろう?」


「人がいないだけじゃないか」


「それも立派な長所だよ」


 刹那は悪びれもせず、向かいの椅子を指した。


 俺が座ると、テーブルの上に黒い端末が置かれた。画面には、見覚えのある地域ニュースの動画が表示されている。


「それで、映像について何か分かったのか?」


「いくつかね。まず、これを見てほしい」


 刹那は動画を再生した。


 夜の道路。街灯。通り過ぎる車。


 俺が何度も見返した映像が、同じように流れていく。


「ここだ」


 刹那が画面を止めた。


 映像が乱れる直前。道路の端に、人影のようなものが映っている。


「……これ、やっぱり人なのか?」


「その可能性は高い。ただ、映像だけでは断定できない」


「黒い服を着ているように見えるけど」


「そうだね。でも、服の色も輪郭も、乱れた映像から推測しているだけだ。これだけで例の男だと決めつけるのは危険だよ」


 刹那は画面を拡大した。


 人影は街灯の届かない場所に立っているように見えた。顔も、体格も、はっきりとは分からない。


 ただ、気になることがあった。


「……こいつ、カメラのほうを向いてないか?」


「僕もそこが気になった」


 刹那の声から、いつもの軽さが消えていた。


「映像が乱れる直前、この人物らしき影はほとんど動いていない。ところが、乱れが起きた直後には、画面の端から消えている」


「歩いていったんじゃないのか?」


「もちろん、その可能性もある。けれど、映像が乱れた時間は短すぎる。少なくとも、普通に歩いて立ち去ったと考えるには、少し不自然なんだ」


 俺は画面を見つめた。


 姉ちゃんが倒れた夜。


 家の近くで起きた異常。


 その現場に、正体の分からない人物がいた。


「……やっぱり、姉ちゃんを襲った男と関係があるのか?」


「まだ分からない」


 刹那は、はっきりと答えた。


「でも、無関係として片づけるには気になる点が多い。だから、セフィラに映像の解析を依頼した」


「解析って、何を調べるんだ?」


「映像が乱れた範囲や時間、音声の途切れ方。それから、周囲で別の異常が記録されていないか。単なる機器の故障なのか、何らかの異知が関係しているのかも含めてね」


 異知。


 昨日、初めて聞いた言葉だった。


 今までなら、映像の乱れを見ても、機械の不調だと思って終わっていたかもしれない。


 だが、今は違う。


 この世界には、自分の知らない力がある。


 そして、その力が姉ちゃんを倒した出来事に関係している可能性がある。


「……俺も、その解析を見られないのか?」


「今の段階では難しいね。記録には事件の情報も含まれているから」


「また、それかよ」


 思わず声が強くなった。


 刹那は反論せず、俺の顔を見ていた。


「昨日も言っただろ。俺は何も知らない。姉ちゃんがどうして倒れたのかも、あの男が何者なのかも。自分の声に何が起きているのかだって分からない」


「うん」


「なのに、いつも『まだ分からない』『今は話せない』ばかりじゃないか」


 口にすると、胸の奥に押し込めていたものが一気にあふれた。


「俺は、ただ待っていろってことなのか?」


 刹那はしばらく黙っていた。


 やがて、椅子の背もたれに体を預ける。


「……そう感じるのも無理はないね」


「だったら――」


「でも、君に何もさせるつもりはないよ」


 刹那は端末を俺のほうへ向けた。


「君が見つけた映像が、調査のきっかけになった。君の記録も、これから原因を探るための情報になる。少なくとも、君は何もしていないわけじゃない」


「それだけで、姉ちゃんが目を覚ますのかよ」


 刹那は答えなかった。


 その沈黙が、何よりも腹立たしかった。


 けれど、刹那が適当な慰めを口にしないことだけは分かった。


「……悪い」


 俺は視線を落とした。


「いや。謝らなくていい」


 刹那は端末をしまい、少しだけ表情を和らげた。


「君が怒る理由は分かるよ。僕だって、すべてを説明できるならそうしたい」


「じゃあ、何か一つくらい教えてくれよ。姉ちゃんは、セフィラで何をしていたんだ?」


 今度は、刹那の目を見て尋ねた。


 刹那はすぐには答えなかった。


 窓の外を一度だけ眺め、それから俺に向き直る。


「お姉さんは、セフィラにとって重要な人だった。能力が優れていたのはもちろんだけど、それだけじゃない」


「……どういうことだ?」


「現場での判断力が高かった。自分の能力をどう使えば被害を抑えられるか、誰を優先して守るべきか。そういうことを、常に考えていた人だよ」


 姉ちゃんの姿が頭に浮かんだ。


 家では、だらしないところもあった。


 俺をからかっては笑い、面倒なことを押しつけてくることもあった。


 それでも、困っている人を見つければ放っておけない人だった。


「……姉ちゃんらしいな」


「うん。そういう人だった」


 刹那は静かにうなずいた。


「だからこそ、今回のことは僕も気になっている。お姉さんが簡単に倒されるとは思えないからね」


 その言葉に、俺は顔を上げた。


「姉ちゃんは、そんなに強かったのか?」


「強かったよ」


 刹那は即答した。


「ただ、強ければ負けないというわけじゃない。相手の能力や条件によっては、どれほど優れた人でも不利になる」


「……姉ちゃんより強い奴がいるってことか?」


「いるだろうね。能力の相性もあるし、戦い方もある。単純に強さを比べるだけでは分からないことも多い」


 黒衣の男の姿が脳裏によみがえった。


 姉ちゃんが倒れる直前、あの男は何かを求めていた。


 コアをもらいに来た、と。


 あの言葉の意味を、俺はまだ知らない。


「刹那。姉ちゃんを襲った男を見つけたら、俺にも教えてくれ」


「分かった。確かな情報があれば、君に伝える」


「約束だぞ」


「約束するよ」


 刹那は、今度は冗談めかさずに答えた。


     *


 店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。


 駅へ向かって歩きながら、俺はさっきの話を考えていた。


 姉ちゃんは、セフィラにとって重要な人だった。


 現場で多くの人を守ってきた。


 そんな姉ちゃんが、どうして突然倒れたのか。


 答えはまだ見つからない。


 それでも、映像に残っていた影は、調べる価値のある手がかりだった。


 俺はスマートフォンを取り出し、ノートの記録を読み返した。


 自分の声が聞こえなくなったこと。


 姉ちゃんが倒れた夜に、映像と音声が乱れていたこと。


 どちらも、まだ原因は分からない。


 ただ、無関係だと決めつける理由もなかった。


 俺は画面を閉じ、歩き出した。


 家に帰ったら、今日聞いたことも記録しておこう。


 今はまだ、何もできないかもしれない。


 それでも、知らないままにしておくつもりはなかった。

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