11,記憶と記録
翌日の昼休み。
俺は弁当を食べ終えると、鞄から一冊のノートを取り出した。
表紙には、何も書かれていない。
けれど、中にはここ最近、自分の身に起きたことが細かく記録されていた。
自分の声が聞こえなくなった時間。
そのとき、どこにいたのか。
何をしていたのか。
最初は、ただ忘れないように書き留めていただけだった。
だが、刹那に相談してからは、少し考え方が変わった。
原因が分からなくても、起きたことを残しておけば、何かの手がかりになるかもしれない。
ページをめくる。
教室にいたとき。
自室にいたとき。
そして、昨日の交差点。
発生した状況に、はっきりした共通点は見つからなかった。
「雲ヶ谷、それ何?」
声をかけられ、俺は顔を上げた。
クラスメイトが、ノートをのぞき込もうとしている。
「ただのメモ」
「勉強熱心だな。もうテスト勉強?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ何?」
「……秘密」
俺がノートを閉じると、そいつは不満そうに口を尖らせた。
「なんだよ、気になるだろ」
「大したことじゃないって」
適当にごまかすと、そいつは自分の席へ戻っていった。
俺はノートを鞄にしまった。
誰かに話せば、少しは楽になるのかもしれない。
それでも、今はまだ話せなかった。
自分の身に起きていることすら、俺自身が理解できていないのだから。
*
放課後。
帰り支度をしていると、スマートフォンが震えた。
刹那からのメッセージだった。
『今日、少し時間ある? 君のことで確認しておきたいことがあるんだ』
俺はすぐに返信した。
『自分の声のことか?』
『話が早くて助かるよ。セフィラまで来られるかな?』
『分かった』
短く返して、スマートフォンをしまう。
自分の声に起きている現象。
あれが異知なのか、それとも別の何かなのか。
俺一人で考えていても、答えは出なかった。
刹那なら、何か分かるかもしれない。
少なくとも、調べる方法くらいは教えてくれるはずだ。
俺は鞄を肩にかけ、教室を出た。
*
セフィラの施設に着くと、前回と同じ職員が受付にいた。
俺の顔を覚えていたらしく、名前を告げるとすぐに奥へ案内してくれた。
通路の向こうから、機械の稼働音が聞こえてくる。
ガラス張りの部屋では、職員たちがモニターを確認していた。画面に並ぶ数値や記号は、俺にはさっぱり分からない。
けれど、ここで異知に関わる事件が調べられているのだと思うと、不思議な気分になった。
姉ちゃんも、この場所にいた。
俺の知らない時間を、ここで過ごしていたのだ。
「やあ、蓮くん」
案内された部屋では、刹那が机に肘をついて待っていた。
「来てくれてありがとう」
「それで、何を確認したいんだ?」
「相変わらず、せっかちだね」
「呼び出したのはそっちだろ」
「それもそうか」
刹那は笑い、向かいの椅子を指した。
「まあ、座ってよ」
俺が腰を下ろすと、刹那は机の上に置かれていた書類を脇へ寄せた。
「今日は、君自身に起きている現象について話したい。前に話してくれた、自分の声が聞こえなくなる件だね」
「ああ」
「記録は続けている?」
「これだ」
俺は鞄からノートを取り出し、机の上に置いた。
刹那は一言断ってから、ページをめくり始めた。
しばらくの間、部屋には紙をめくる音だけが響いていた。
「ちゃんと記録しているんだね」
「忘れないうちに書いておこうと思って」
「いい判断だよ。こういう現象は、本人の感覚だけだと、あとから細かい部分が曖昧になることもあるからね」
刹那は最初のページに戻った。
「一つ聞きたいんだけど、声が聞こえなくなったとき、周りの人には君の声が聞こえていると思う?」
「分からない。昨日は男の子を助けるために叫んだけど、相手が聞こえていたかどうかまでは確かめていない」
「そうか。じゃあ、自分の声そのものが出なくなっているのか、それとも自分の耳に届かなくなっているのかも、まだ分からないわけだ」
俺はうなずいた。
言われてみれば、そのとおりだった。
自分では声を出したつもりだった。
喉が動く感覚もあった。
だが、実際に音が発生していたかどうかは、確かめられていない。
「……俺は、自分の声が消えているんだと思ってた」
「その可能性もあるよ。でも、今の段階では決めつけないほうがいい。似たように感じられる現象でも、仕組みが同じとは限らないからね」
刹那はノートを閉じた。
「異知が関係している可能性はある。けれど、音に関係する現象だからといって、それだけで能力の正体が分かるわけじゃない」
「じゃあ、どうやって調べる?」
「まずは、次に起きたときの状況をできるだけ詳しく残すこと。それから、必要ならセフィラの設備を使って、音や周囲の変化を記録できないか検討する」
「また起きるのを待つしかないのか?」
思わず、声に焦りが混じった。
姉ちゃんが倒れた夜から、俺の身にはおかしなことが起きている。
それなのに、何も分からないまま時間だけが過ぎていく。
いつまで、この状態が続くのだろう。
刹那は俺の顔を見て、少しだけ表情を引き締めた。
「焦る気持ちは分かるよ。でも、原因が分からないうちに無理をするのは勧めない。意図的に再現しようとしても、今の君には制御できないんだろう?」
「……ああ」
「なら、まずは安全に調べる方法を考えよう。君自身を危険にさらしてまで、急ぐ必要はない」
俺は膝の上で手を握った。
すぐに答えが欲しい。
けれど、焦ったところで、分からないものが分かるようになるわけではない。
「分かった。記録は続ける」
「うん。それがいい」
刹那はノートを俺に返した。
「それにしても、蓮くんは几帳面だね。もっと雑な記録を想像していたよ」
「どういう意味だよ」
「いやあ、君のことだから『声が消えた。変だ』みたいな一行で済ませるかと」
「そこまで雑じゃない」
「ははっ、冗談だよ」
いつもの軽い調子に戻った刹那を見て、俺も少しだけ肩の力を抜いた。
まだ、何も解決していない。
それでも、ただ不安に振り回されていたときよりは、やるべきことが見えてきた気がした。
*
部屋を出て、受付へ戻ろうとしたときだった。
廊下の壁に飾られた集合写真が、ふと目に留まった。
何人もの人が並んでいる。
制服姿の人もいれば、私服の人もいた。
その中に、見覚えのある顔があった。
「……姉ちゃん?」
思わず足が止まった。
写真の中の姉ちゃんは、笑っていた。
病室で眠ったままの姿とは違う。
俺がよく知っている、明るい笑顔だった。
その隣には刹那も写っている。今より少し若く見えるが、あの独特の雰囲気は変わっていなかった。
「それ、懐かしい写真だね」
いつの間にか、刹那が隣に立っていた。
「姉ちゃんも、ここで働いていたんだよな」
「うん。セフィラの一員として、いろんな現場に出ていたよ」
「……どんな仕事をしていたんだ?」
刹那は写真に視線を向けた。
「異知が関わる事件の調査や対処だね。現場で状況を判断して、被害が広がらないように動く。簡単に言えば、そういう仕事だよ」
「姉ちゃんが、そんなことを……」
知っていたはずだった。
姉ちゃんがセフィラに所属していることも、普通の人とは違う力を持っていることも。
それでも、実際に働いていた場所で写真を目にすると、今まで知らなかった姉ちゃんの姿が急に現実味を帯びてきた。
「家では、あまり仕事の話をしなかったんだ」
「詩織は、そういうところがあったからね」
刹那は小さく笑った。
「自分の仕事を大げさに話す人じゃなかった。心配をかけたくなかったのかもしれないし、仕事と家の時間を分けたかったのかもしれない」
写真の中の姉ちゃんを見る。
俺の知らない場所で、俺の知らない人たちと、俺の知らない仕事をしていた。
姉ちゃんは、俺が思っていた以上に広い世界を生きていたのだ。
「……もっと、姉ちゃんのことを知りたい」
口に出すと、胸の奥にあった気持ちが、少しだけはっきりした。
姉ちゃんが何をしていたのか。
どんな人たちと働いていたのか。
何を大切にして、何を守ろうとしていたのか。
知りたいことは、いくらでもあった。
「なら、少しずつ話していくよ」
刹那は写真から目を離さずに言った。
「ただ、事件に関わる情報の中には、今すぐ話せないものもある。それは分かってほしい」
「……ああ。分かってる」
納得したわけではない。
もっと早く知りたいし、できることなら全部教えてほしい。
けれど、刹那が何もかも隠しているわけではないことも、少しずつ分かってきていた。
「約束してくれ。姉ちゃんのことが分かったら、俺にも教えてほしい」
「約束する。話せることは、ちゃんと伝えるよ」
刹那は俺のほうを向いた。
「だから、蓮くんも自分のことを調べるのをやめないでね。君自身に何が起きているのか。それを知ることも、詩織のことを理解する手がかりになるかもしれない」
俺はノートを握り直した。
姉ちゃんのことも、自分のことも、まだ分からないことばかりだ。
けれど、知らないままにしておくつもりはなかった。
「分かった。記録は続ける」
「うん。期待しているよ」
刹那はいつもの笑顔を浮かべた。
俺はもう一度、写真の中の姉ちゃんを見た。
そこにいる姉ちゃんは、何も語らない。
だからこそ、知りたかった。
姉ちゃんが見ていた世界を。
姉ちゃんが守ろうとしていたものを。
そして、いつか目を覚ました姉ちゃんと、今度は俺の知らない話を聞かせてもらいたい。
そう思いながら、俺はセフィラの施設を後にした。




