12,心の揺らぎ
翌日の放課後。
俺は自室の机に向かい、ノートを開いていた。
ここ最近、自分の身に起きたことを記録しているノートだ。
教室にいたとき。
自室にいたとき。
交差点で、子どもを助けようとしたとき。
どれも状況は違う。
けれど、何か共通するものがあるはずだった。
「……何なんだよ、いったい」
ペンを置き、椅子の背もたれに寄りかかる。
異知。
刹那から教えてもらった、普通では説明できない現象。
俺の身に起きていることも、それに関係しているのかもしれない。
だが、肝心の仕組みが分からない。
声が聞こえなくなる。
ただ、それだけだ。
自分の声が本当に消えているのか、それとも自分にだけ聞こえなくなっているのかすら、まだ確かめられていない。
俺はノートを見下ろした。
交差点での出来事を思い出す。
車が迫っていた。
男の子が危険な場所にいた。
考えるより先に、声を上げていた。
あのとき、俺は確かに焦っていた。
でも、それが関係しているという証拠はない。
「……考えても、分からないか」
俺はノートを閉じた。
今は、次に何かが起きたとき、見逃さないようにするしかない。
*
翌日。
放課後の教室で、俺はクラスメイトの佐伯に呼び止められた。
「雲ヶ谷、今日の数学の課題、写させてくれない?」
「自分でやれよ」
「そこを何とか。途中までやったんだけど、最後の問題が全然分からなくてさ」
差し出されたノートをのぞき込む。
確かに、最後の問題だけ空白になっていた。
「……途中までやったって、本当か?」
「本当、本当」
「じゃあ、どこまで分かったんだ?」
「えっと……ここまでは分かった」
佐伯が指した場所を見て、俺はため息をついた。
「その前の式、間違ってるぞ」
「うそだろ?」
「ほら、ここ」
俺が説明を始めると、佐伯は最初こそ真面目に聞いていたものの、途中から露骨に目をそらし始めた。
「……分かった。もういい。答えだけ教えてくれ」
「お前なあ……」
「頼むって。今日中に出さないと、先生に怒られるんだよ」
悪びれもせずに笑う佐伯を見て、俺の中で何かが引っかかった。
俺だって、いつも余裕があるわけじゃない。
姉ちゃんのことも、自分の身に起きていることも、何一つ解決していない。
それでも、分からないなりに調べている。
なのに、こいつは。
「……自分でやれよ」
思ったよりも強い声が出た。
佐伯が目を丸くする。
「お、おう。悪かったって。そんな怒るなよ」
「別に、怒ってなんか……」
言いかけて、俺は口をつぐんだ。
怒っていない。
本当にそう言い切れるだろうか。
佐伯は気まずそうに笑い、ノートを抱えて教室を出ていった。
俺は一人、机の横に立ち尽くした。
そのときだった。
ふと、違和感を覚えた。
教室の外から聞こえていた運動部の掛け声。
廊下を歩く生徒たちの足音。
窓の外を走る車の音。
それらは、いつもどおり聞こえている。
なのに。
自分が小さくつぶやいた言葉だけが、聞こえなかった。
「……え?」
俺は反射的に口元に手を当てた。
「聞こえるか?」
声を出したつもりだった。
喉が動いた感覚もある。
だが、自分の声は耳に届かない。
周囲の音は消えていない。
俺は慌てて口を閉じた。
数秒後。
「……聞こえる」
今度は、自分の声がはっきり耳に届いた。
俺はその場で息をのんだ。
まただ。
また、自分の声だけが聞こえなくなった。
だが、今回は一つだけ、これまでと違うことがあった。
発動する直前、俺は苛立っていた。
佐伯に対して、強い怒りを感じていた。
そして、声が聞こえなくなったのは、その直後だった。
「……まさか」
俺は鞄からノートを取り出した。
手が少し震えていた。
ページを開き、忘れないうちに書き込む。
発生した時間。
場所。
直前の状況。
そして、感じていた感情。
書き終えてから、俺は記録を見つめた。
偶然かもしれない。
一度だけでは、何も断定できない。
それでも、今までの記録にはなかった項目が、一つ増えた。
感情。
俺はペンを握り直した。
次に同じことが起きたら、もっと注意深く観察しよう。
自分が何を感じていたのか。
発動する前に、何か変化はなかったか。
今度こそ、見逃さないように。
*
その日の夜。
俺は机に向かい、今日の出来事を刹那に送るメッセージにまとめていた。
発動したこと。
周囲の音は聞こえていたこと。
自分の声だけが聞こえなくなったこと。
そして、直前に苛立っていたこと。
送信ボタンを押す前に、少し迷った。
こんな小さなことを報告しても、意味があるのだろうか。
いや。
小さなことだからこそ、残しておく必要がある。
俺はメッセージを送信した。
しばらくして、返信が届いた。
『報告ありがとう。感情について記録したのはいい判断だね』
続けて、もう一通。
『ただし、まだ原因だと決めつけないこと。次に発生したときも、同じように記録してみて』
俺は画面を見つめた。
やっぱり、一度だけでは分からない。
けれど、刹那も感情に注目すること自体は否定しなかった。
俺はノートを開き、今日の記録の下に一行を書き足した。
――発動直前、強い苛立ちを感じていた。
その文字を見つめながら、俺はゆっくりと息を吐いた。
自分の身に何が起きているのか。
その答えには、まだ届かない。
それでも、ただ分からないと繰り返すだけだった昨日までとは、少しだけ違っていた。
俺はノートを閉じ、机の引き出しにしまった。
次に何かが起きたときも、必ず記録する。
今は、それが自分にできることだった。




