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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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12/24

12,心の揺らぎ

翌日の放課後。


 俺は自室の机に向かい、ノートを開いていた。


 ここ最近、自分の身に起きたことを記録しているノートだ。


 教室にいたとき。


 自室にいたとき。


 交差点で、子どもを助けようとしたとき。


 どれも状況は違う。


 けれど、何か共通するものがあるはずだった。


「……何なんだよ、いったい」


 ペンを置き、椅子の背もたれに寄りかかる。


 異知《イチ》。


 刹那から教えてもらった、普通では説明できない現象。


 俺の身に起きていることも、それに関係しているのかもしれない。


 だが、肝心の仕組みが分からない。


 声が聞こえなくなる。


 ただ、それだけだ。


 自分の声が本当に消えているのか、それとも自分にだけ聞こえなくなっているのかすら、まだ確かめられていない。


 俺はノートを見下ろした。


 交差点での出来事を思い出す。


 車が迫っていた。


 男の子が危険な場所にいた。


 考えるより先に、声を上げていた。


 あのとき、俺は確かに焦っていた。


 でも、それが関係しているという証拠はない。


「……考えても、分からないか」


 俺はノートを閉じた。


 今は、次に何かが起きたとき、見逃さないようにするしかない。


  


  *




 翌日。


 放課後の教室で、俺はクラスメイトの佐伯に呼び止められた。


「雲ヶ谷、今日の数学の課題、写させてくれない?」


「自分でやれよ」


「そこを何とか。途中までやったんだけど、最後の問題が全然分からなくてさ」


 差し出されたノートをのぞき込む。


 確かに、最後の問題だけ空白になっていた。


「……途中までやったって、本当か?」


「本当、本当」


「じゃあ、どこまで分かったんだ?」


「えっと……ここまでは分かった」


 佐伯が指した場所を見て、俺はため息をついた。


「その前の式、間違ってるぞ」


「うそだろ?」


「ほら、ここ」


 俺が説明を始めると、佐伯は最初こそ真面目に聞いていたものの、途中から露骨に目をそらし始めた。


「……分かった。もういい。答えだけ教えてくれ」


「お前なあ……」


「頼むって。今日中に出さないと、先生に怒られるんだよ」


 悪びれもせずに笑う佐伯を見て、俺の中で何かが引っかかった。


 俺だって、いつも余裕があるわけじゃない。


 姉ちゃんのことも、自分の身に起きていることも、何一つ解決していない。


 それでも、分からないなりに調べている。


 なのに、こいつは。


「……自分でやれよ」


 思ったよりも強い声が出た。


 佐伯が目を丸くする。


「お、おう。悪かったって。そんな怒るなよ」


「別に、怒ってなんか……」


 言いかけて、俺は口をつぐんだ。


 怒っていない。


 本当にそう言い切れるだろうか。


 佐伯は気まずそうに笑い、ノートを抱えて教室を出ていった。


 俺は一人、机の横に立ち尽くした。


 そのときだった。


 ふと、違和感を覚えた。


 教室の外から聞こえていた運動部の掛け声。


 廊下を歩く生徒たちの足音。


 窓の外を走る車の音。


 それらは、いつもどおり聞こえている。


 なのに。


 自分が小さくつぶやいた言葉だけが、聞こえなかった。


「……え?」


 俺は反射的に口元に手を当てた。


「聞こえるか?」


 声を出したつもりだった。


 喉が動いた感覚もある。


 だが、自分の声は耳に届かない。


 周囲の音は消えていない。


 俺は慌てて口を閉じた。


 数秒後。


「……聞こえる」


 今度は、自分の声がはっきり耳に届いた。


 俺はその場で息をのんだ。


 まただ。


 また、自分の声だけが聞こえなくなった。


 だが、今回は一つだけ、これまでと違うことがあった。


 発動する直前、俺は苛立っていた。


 佐伯に対して、強い怒りを感じていた。


 そして、声が聞こえなくなったのは、その直後だった。


「……まさか」


 俺は鞄からノートを取り出した。


 手が少し震えていた。


 ページを開き、忘れないうちに書き込む。


 発生した時間。


 場所。


 直前の状況。


 そして、感じていた感情。


 書き終えてから、俺は記録を見つめた。


 偶然かもしれない。


 一度だけでは、何も断定できない。


 それでも、今までの記録にはなかった項目が、一つ増えた。


 感情。


 俺はペンを握り直した。


 次に同じことが起きたら、もっと注意深く観察しよう。


 自分が何を感じていたのか。


 発動する前に、何か変化はなかったか。


 今度こそ、見逃さないように。


 


   *




 その日の夜。


 俺は机に向かい、今日の出来事を刹那に送るメッセージにまとめていた。


 発動したこと。


 周囲の音は聞こえていたこと。


 自分の声だけが聞こえなくなったこと。


 そして、直前に苛立っていたこと。


 送信ボタンを押す前に、少し迷った。


 こんな小さなことを報告しても、意味があるのだろうか。


 いや。


 小さなことだからこそ、残しておく必要がある。


 俺はメッセージを送信した。


 しばらくして、返信が届いた。


『報告ありがとう。感情について記録したのはいい判断だね』


 続けて、もう一通。


『ただし、まだ原因だと決めつけないこと。次に発生したときも、同じように記録してみて』


 俺は画面を見つめた。


 やっぱり、一度だけでは分からない。


 けれど、刹那も感情に注目すること自体は否定しなかった。


 俺はノートを開き、今日の記録の下に一行を書き足した。


 ――発動直前、強い苛立ちを感じていた。


 その文字を見つめながら、俺はゆっくりと息を吐いた。


 自分の身に何が起きているのか。


 その答えには、まだ届かない。


 それでも、ただ分からないと繰り返すだけだった昨日までとは、少しだけ違っていた。


 俺はノートを閉じ、机の引き出しにしまった。


 次に何かが起きたときも、必ず記録する。


 今は、それが自分にできることだった。

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