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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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13/24

13,消えない声

翌朝。


 目を覚ました俺は、枕元のスマートフォンを手に取った。


 刹那からの返信は、昨夜のものが最後だった。


 ――まだ原因だと決めつけないこと。


 当然の話だ。


 一度、苛立っていたときに声が聞こえなくなった。


 それだけで、感情が発動条件だと断定することはできない。


 それでも、昨日の出来事が頭から離れなかった。


 もし、本当に感情が関係しているのなら。


 自分の気持ちを把握することで、発動する前に気づけるようになるかもしれない。


 あるいは、発動そのものを防げるようになるかもしれない。


「……まずは、確かめるしかないか」


 俺はベッドから起き上がった。


 ただし、わざと怒ったり、不安になったりして能力を発動させようとは思わなかった。


 刹那にも、無理に再現しようとするなと言われている。


 何が起きるか分からない以上、軽い気持ちで試すわけにはいかなかった。


  


  *




 昼休み。


 俺は弁当を食べながら、昨日のノートを読み返していた。


「雲ヶ谷、またそれ読んでるのか?」


 向かいに座った佐伯が、箸を動かしながら言った。


「何だよ」


「いや、最近ずっと何か書いてるだろ。そんなに大事なことなのか?」


「……まあな」


「勉強なら、俺にも教えてくれよ」


「昨日、数学を教えただろ」


「それとこれとは別だって」


 佐伯は悪びれもせずに笑った。


 昨日のことを思い出し、少しだけ腹が立った。


 だが、俺はすぐにその感情に気づいた。


 今、苛立っている。


 昨日と似た状況だ。


 俺は無意識に自分の喉へ意識を向けた。


 声は聞こえる。


 佐伯の声も、自分の声も、いつもどおりだった。


 数秒待ってみても、何も起こらない。


「……どうした?」


「いや、何でもない」


 俺は箸を動かし、弁当の残りを口に運んだ。


 苛立ったからといって、必ず発動するわけではない。


 少なくとも、今のところは。


 そもそも、昨日と今日では苛立ちの強さも違う。


 感情が関係しているとしても、単純な仕組みではないのかもしれなかった。


 俺はノートを取り出し、短く書き込んだ。


 ――軽い苛立ち。発動なし。


「だから、それ何なんだよ」


「秘密」


「またそれかよ!」


 佐伯の声を聞きながら、俺はノートを閉じた。


 今は、これでいい。


 分からないことを、分からないまま記録する。


 それも調べるために必要なことだった。


  


  *




 放課後。


 帰ろうとしたところで、教室の前から声がかかった。


「雲ヶ谷蓮くん、で合ってる?」


 振り向くと、見覚えのない女性が立っていた。


 セフィラの職員だろうか。


 私服姿だったが、首から下げた身分証には、見覚えのある組織名が記されていた。


「セフィラの方ですか?」


「うん。神楽坂さんから、君に渡してほしいものがあって」


 女性は小さな封筒を差し出した。


「刹那さんから?」


「そう。詳しいことは、本人に聞いてね」


 俺は封筒を受け取った。


 中には、数枚の用紙が入っていた。


 表題には、音声記録に関する簡単な確認事項が並んでいる。


 自分の声が聞こえなくなったとき、周囲の音はどうだったか。


 喉や胸に振動を感じたか。


 現象が始まる直前、どのような感情を抱いていたか。


 そして、現象が終わった直後に何を感じたか。


 最後の項目には、刹那の手書きのメモが添えられていた。


『本人の感覚と、実際に起きた現象は分けて考えること。今は結論を急がなくていい』


 俺はその文章をしばらく見つめた。


 自分の声が聞こえない。


 それが、実際に声が消えていることを意味するとは限らない。


 そのことは、刹那に何度も言われていた。


 けれど、こうして改めて書かれていると、少し違って見えた。


 俺が調べるべきなのは、自分の感覚だけじゃない。


 自分の身に、実際に何が起きているのか。


 それを知る必要がある。


「……ありがとうございます」


 顔を上げると、女性は軽く手を振った。


「じゃあ、私はこれで。何かあったら神楽坂さんに連絡してね」


 彼女が去ったあと、俺は封筒を鞄にしまった。


 すぐに答えが分かるわけではない。


 それでも、調べるための手段は少しずつ増えている。


 俺は校舎を出た。


  


  *




 帰り道。


 交差点に差しかかったところで、俺は自然と足を止めた。


 あの日、子どもを助けた場所だ。


 車の流れも、信号の音も、いつもと変わらない。


 俺は道路の向こう側を見た。


 あのときは、考える余裕なんてなかった。


 子どもが危険な場所にいて、車が迫っていた。


 だから、声を上げた。


 その直後、自分の声が聞こえなくなった。


 今になって考えれば、あの瞬間、俺は強い焦りを感じていた。


 けれど、あのときの感情が原因だったのか、それとも別の何かが起きていたのかは分からない。


 俺は鞄からノートを取り出した。


 交差点での記録を開き、余白に書き足す。


 ――発動直前、子どもの危険を認識。強い焦りがあった。


 書き終えたところで、信号が変わった。


 俺はノートをしまい、横断歩道を渡り始めた。


 まだ、声は聞こえている。


 足音も、車の音も、周囲の話し声も。


 何も変わっていない。


 それでも、俺は以前より少しだけ、自分の内側に注意を向けるようになっていた。


 感情が高まったとき。


 焦りや怒りを感じたとき。


 その瞬間に、自分の身体や感覚に何が起きているのか。


 これからは、それも確かめていこう。


 能力を無理に引き出すことはしない。


 ただ、起きたことから目をそらさない。


 俺は前を向き、家への道を歩き続けた。

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