13,消えない声
翌朝。
目を覚ました俺は、枕元のスマートフォンを手に取った。
刹那からの返信は、昨夜のものが最後だった。
――まだ原因だと決めつけないこと。
当然の話だ。
一度、苛立っていたときに声が聞こえなくなった。
それだけで、感情が発動条件だと断定することはできない。
それでも、昨日の出来事が頭から離れなかった。
もし、本当に感情が関係しているのなら。
自分の気持ちを把握することで、発動する前に気づけるようになるかもしれない。
あるいは、発動そのものを防げるようになるかもしれない。
「……まずは、確かめるしかないか」
俺はベッドから起き上がった。
ただし、わざと怒ったり、不安になったりして能力を発動させようとは思わなかった。
刹那にも、無理に再現しようとするなと言われている。
何が起きるか分からない以上、軽い気持ちで試すわけにはいかなかった。
*
昼休み。
俺は弁当を食べながら、昨日のノートを読み返していた。
「雲ヶ谷、またそれ読んでるのか?」
向かいに座った佐伯が、箸を動かしながら言った。
「何だよ」
「いや、最近ずっと何か書いてるだろ。そんなに大事なことなのか?」
「……まあな」
「勉強なら、俺にも教えてくれよ」
「昨日、数学を教えただろ」
「それとこれとは別だって」
佐伯は悪びれもせずに笑った。
昨日のことを思い出し、少しだけ腹が立った。
だが、俺はすぐにその感情に気づいた。
今、苛立っている。
昨日と似た状況だ。
俺は無意識に自分の喉へ意識を向けた。
声は聞こえる。
佐伯の声も、自分の声も、いつもどおりだった。
数秒待ってみても、何も起こらない。
「……どうした?」
「いや、何でもない」
俺は箸を動かし、弁当の残りを口に運んだ。
苛立ったからといって、必ず発動するわけではない。
少なくとも、今のところは。
そもそも、昨日と今日では苛立ちの強さも違う。
感情が関係しているとしても、単純な仕組みではないのかもしれなかった。
俺はノートを取り出し、短く書き込んだ。
――軽い苛立ち。発動なし。
「だから、それ何なんだよ」
「秘密」
「またそれかよ!」
佐伯の声を聞きながら、俺はノートを閉じた。
今は、これでいい。
分からないことを、分からないまま記録する。
それも調べるために必要なことだった。
*
放課後。
帰ろうとしたところで、教室の前から声がかかった。
「雲ヶ谷蓮くん、で合ってる?」
振り向くと、見覚えのない女性が立っていた。
セフィラの職員だろうか。
私服姿だったが、首から下げた身分証には、見覚えのある組織名が記されていた。
「セフィラの方ですか?」
「うん。神楽坂さんから、君に渡してほしいものがあって」
女性は小さな封筒を差し出した。
「刹那さんから?」
「そう。詳しいことは、本人に聞いてね」
俺は封筒を受け取った。
中には、数枚の用紙が入っていた。
表題には、音声記録に関する簡単な確認事項が並んでいる。
自分の声が聞こえなくなったとき、周囲の音はどうだったか。
喉や胸に振動を感じたか。
現象が始まる直前、どのような感情を抱いていたか。
そして、現象が終わった直後に何を感じたか。
最後の項目には、刹那の手書きのメモが添えられていた。
『本人の感覚と、実際に起きた現象は分けて考えること。今は結論を急がなくていい』
俺はその文章をしばらく見つめた。
自分の声が聞こえない。
それが、実際に声が消えていることを意味するとは限らない。
そのことは、刹那に何度も言われていた。
けれど、こうして改めて書かれていると、少し違って見えた。
俺が調べるべきなのは、自分の感覚だけじゃない。
自分の身に、実際に何が起きているのか。
それを知る必要がある。
「……ありがとうございます」
顔を上げると、女性は軽く手を振った。
「じゃあ、私はこれで。何かあったら神楽坂さんに連絡してね」
彼女が去ったあと、俺は封筒を鞄にしまった。
すぐに答えが分かるわけではない。
それでも、調べるための手段は少しずつ増えている。
俺は校舎を出た。
*
帰り道。
交差点に差しかかったところで、俺は自然と足を止めた。
あの日、子どもを助けた場所だ。
車の流れも、信号の音も、いつもと変わらない。
俺は道路の向こう側を見た。
あのときは、考える余裕なんてなかった。
子どもが危険な場所にいて、車が迫っていた。
だから、声を上げた。
その直後、自分の声が聞こえなくなった。
今になって考えれば、あの瞬間、俺は強い焦りを感じていた。
けれど、あのときの感情が原因だったのか、それとも別の何かが起きていたのかは分からない。
俺は鞄からノートを取り出した。
交差点での記録を開き、余白に書き足す。
――発動直前、子どもの危険を認識。強い焦りがあった。
書き終えたところで、信号が変わった。
俺はノートをしまい、横断歩道を渡り始めた。
まだ、声は聞こえている。
足音も、車の音も、周囲の話し声も。
何も変わっていない。
それでも、俺は以前より少しだけ、自分の内側に注意を向けるようになっていた。
感情が高まったとき。
焦りや怒りを感じたとき。
その瞬間に、自分の身体や感覚に何が起きているのか。
これからは、それも確かめていこう。
能力を無理に引き出すことはしない。
ただ、起きたことから目をそらさない。
俺は前を向き、家への道を歩き続けた。




