14,記録の外側
翌日の放課後。
俺は鞄の中に、刹那から渡された記録用紙を入れていた。
まだ、新しく書き込んだことはほとんどない。
昨日から今日にかけて、声が聞こえなくなる現象は起きていなかった。特別な変化もない。
記録することがないのは、悪いことではないはずだ。
それでも、何も起きない時間が続くと、あの現象が本当に自分の身に起きたことなのか、少しだけ自信がなくなってくる。
あのとき、確かに自分の声が聞こえなかった。
けれど、それを証明できるものは、まだ何もない。
スマートフォンが震えた。
刹那からのメッセージだった。
『今日、少し時間ある? 記録用紙について確認したいことがあるんだけど』
俺は短く返信した。
『大丈夫です。何時に行けばいいですか?』
すぐに返事が来る。
『今からでも。セフィラで待ってるよ』
俺は鞄を背負い直し、駅へ向かった。
*
セフィラの施設に着くと、受付で名前を告げた。
以前来たときと同じように、職員が奥へ連絡を入れる。
しばらくして、刹那が姿を現した。
「やあ、蓮くん。ちゃんと来てくれたね」
「呼んだのは刹那さんでしょう」
「そうだった。いやあ、最近の若者は素直で助かるよ」
「俺、そんなに扱いやすいですか?」
「少なくとも、言われたことを一度は考えてくれるからね」
冗談めいた口調だったが、刹那の視線は俺の鞄に向いていた。
「記録用紙、持ってきてくれた?」
「はい。でも、まだほとんど何も書けてません」
「現象が起きていないなら、それでいいよ。無理に埋める必要はないからね」
刹那はそう言って、俺を小さな会議室へ案内した。
机の上には、端末と数枚の資料が置かれていた。
「今日は、君の記録をもとに、何が分かっていて何が分かっていないのか整理しようと思ってね」
「何か分かったんですか?」
「残念ながら、決定的なことは何も。ただ、曖昧な部分を放置したまま考えても、推測ばかり増えるから」
刹那は端末を操作し、画面をこちらに向けた。
そこには、いくつかの項目が並んでいた。
発生した時刻。場所。直前の感情。周囲の状況。本人が感じた変化。
「君の話を整理すると、声が聞こえなくなったときにも、周囲の音は聞こえていたんだよね」
「はい。足音とか、車の音とか」
「じゃあ、仮に君の声そのものが消えていたとしても、周囲の音まで消す現象ではなさそうだ」
「……俺の声だけ、ということですか?」
「今の情報から考えられる可能性の一つだね。まだ断定はできないけど」
俺は画面を見つめた。
自分の声だけが消える。
そんなことが、本当に起こり得るのだろうか。
「でも、もし声が出ていなかったなら、喉に何か変化があったのかもしれませんよね?」
「その可能性もある。逆に、声は出ていたけど、君の耳に届かなかった可能性もある」
「……結局、何も分からないんですね」
「分からないことが分かった、というのは前進だよ」
刹那はあっさりと言った。
「最初から答えが見えているなら、調査なんて必要ないからね」
その言葉に、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
分からないのは、自分だけではない。
異知を扱う専門組織でさえ、情報がなければ判断できないのだ。
なら、今の俺に必要なのは、焦って答えを出すことではないのだろう。
*
話が一区切りついたとき、会議室の外から慌ただしい足音が聞こえた。
「神楽坂さん、現場から報告です」
職員が扉を開け、刹那に端末を差し出した。
刹那の表情がわずかに変わる。
「場所は?」
「市内の商業施設です。設備の異常に加えて、現場にいた複数の人間が、同じ時間帯に奇妙な感覚を訴えています。異知が関係している可能性があります」
「被害者は?」
「軽傷者が数名。現在、現場の職員が状況を確認しています」
「分かった。詳しい情報を送って。現場の安全確保を優先して、原因の特定はそのあとでいい」
職員がうなずき、足早に去っていった。
刹那は端末を確認しながら、短く息を吐いた。
「……ごめんね。ちょっと仕事が入った」
「いえ。大丈夫です」
俺は立ち上がりかけた。
そのとき、画面に表示された報告の一部が目に入った。
複数の人間が、同じ時間帯に奇妙な感覚を訴えている。
それだけなら、俺の現象とは関係がないかもしれない。
けれど、俺は思わず尋ねていた。
「刹那さん。異知の事件って、こういうふうに、本人にも原因が分からないまま起きることがあるんですか?」
刹那は端末から顔を上げた。
「あるよ。本人が意識していない能力もあるし、発動条件が分からないものもある。能力を使った本人が、自分の身に何が起きたのか理解できていない場合だってね」
「……そうなんですね」
「だから、現象だけでなく、発生した状況や周囲への影響も調べるんだ。本人の証言は大事だけど、それだけで全部が分かるわけじゃない」
俺は、鞄の中の記録用紙を思い出した。
自分が感じたこと。
そのとき周囲で起きていたこと。
そして、実際に何が起きていたのか。
それらは、同じようでいて、必ずしも一致するとは限らない。
「……俺も、いつか自分の能力が何なのか分かるんでしょうか」
「分かる可能性は十分あるよ。ただし、時間はかかるかもしれない」
刹那は俺の目を見た。
「蓮くん。君が今、無理に能力を使おうとしないのは正しい判断だ。分からないものを、分からないまま扱うのは危険だからね」
「はい」
「でも、分からないからといって、何もできないわけじゃない。記録を取ることも、知識を身につけることもできる」
その言葉は、以前にも聞いたものと似ていた。
それでも、今は少し違って感じられた。
俺の現象だけが、特別に理解しづらいわけではない。
異知というもの自体が、まだ分からないことだらけなのだ。
だからこそ、セフィラは調査を続けている。
俺は、机の上の記録用紙を手に取った。
「……もう少し、ちゃんと調べてみます」
「うん。それがいい」
刹那はいつもの調子で笑った。
「ただし、何度も言うけど、無理はしないこと。君の能力が何であれ、君自身の安全より優先するものはないからね」
俺はうなずいた。
施設を出るころには、外はすっかり夕方になっていた。
帰り道、俺は記録用紙を鞄から取り出しかけて、やめた。
今日は、声が聞こえなくなる現象は起きていない。
だから、書き足すことはない。
けれど、今日知ったことは、確かにあった。
自分の感覚だけを信じていても、答えにはたどり着けない。
起きたことを観察し、分かったことと分からないことを分ける。
それが、今の俺にできることだ。
俺は用紙をしまい、駅へ向かって歩き出した。
自分の声は、いつもどおり聞こえている。
その当たり前を、今は確かめることしかできない。
けれど、いつか。
この現象の正体を、自分の言葉で説明できる日が来るのだろうか。
その答えは、まだどこにもなかった。




