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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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14/24

14,記録の外側

 翌日の放課後。


 俺は鞄の中に、刹那から渡された記録用紙を入れていた。


 まだ、新しく書き込んだことはほとんどない。


 昨日から今日にかけて、声が聞こえなくなる現象は起きていなかった。特別な変化もない。


 記録することがないのは、悪いことではないはずだ。


 それでも、何も起きない時間が続くと、あの現象が本当に自分の身に起きたことなのか、少しだけ自信がなくなってくる。


 あのとき、確かに自分の声が聞こえなかった。


 けれど、それを証明できるものは、まだ何もない。


 スマートフォンが震えた。


 刹那からのメッセージだった。


『今日、少し時間ある? 記録用紙について確認したいことがあるんだけど』


 俺は短く返信した。


『大丈夫です。何時に行けばいいですか?』


 すぐに返事が来る。


『今からでも。セフィラで待ってるよ』


 俺は鞄を背負い直し、駅へ向かった。


  

   *



 セフィラの施設に着くと、受付で名前を告げた。


 以前来たときと同じように、職員が奥へ連絡を入れる。


 しばらくして、刹那が姿を現した。


「やあ、蓮くん。ちゃんと来てくれたね」


「呼んだのは刹那さんでしょう」


「そうだった。いやあ、最近の若者は素直で助かるよ」


「俺、そんなに扱いやすいですか?」


「少なくとも、言われたことを一度は考えてくれるからね」


 冗談めいた口調だったが、刹那の視線は俺の鞄に向いていた。


「記録用紙、持ってきてくれた?」


「はい。でも、まだほとんど何も書けてません」


「現象が起きていないなら、それでいいよ。無理に埋める必要はないからね」


 刹那はそう言って、俺を小さな会議室へ案内した。


 机の上には、端末と数枚の資料が置かれていた。


「今日は、君の記録をもとに、何が分かっていて何が分かっていないのか整理しようと思ってね」


「何か分かったんですか?」


「残念ながら、決定的なことは何も。ただ、曖昧な部分を放置したまま考えても、推測ばかり増えるから」


 刹那は端末を操作し、画面をこちらに向けた。


 そこには、いくつかの項目が並んでいた。


 発生した時刻。場所。直前の感情。周囲の状況。本人が感じた変化。


「君の話を整理すると、声が聞こえなくなったときにも、周囲の音は聞こえていたんだよね」


「はい。足音とか、車の音とか」


「じゃあ、仮に君の声そのものが消えていたとしても、周囲の音まで消す現象ではなさそうだ」


「……俺の声だけ、ということですか?」


「今の情報から考えられる可能性の一つだね。まだ断定はできないけど」


 俺は画面を見つめた。


 自分の声だけが消える。


 そんなことが、本当に起こり得るのだろうか。


「でも、もし声が出ていなかったなら、喉に何か変化があったのかもしれませんよね?」


「その可能性もある。逆に、声は出ていたけど、君の耳に届かなかった可能性もある」


「……結局、何も分からないんですね」


「分からないことが分かった、というのは前進だよ」


 刹那はあっさりと言った。


「最初から答えが見えているなら、調査なんて必要ないからね」


 その言葉に、俺は少しだけ肩の力が抜けた。


 分からないのは、自分だけではない。


 異知を扱う専門組織でさえ、情報がなければ判断できないのだ。


 なら、今の俺に必要なのは、焦って答えを出すことではないのだろう。


  


   *




 話が一区切りついたとき、会議室の外から慌ただしい足音が聞こえた。


「神楽坂さん、現場から報告です」


 職員が扉を開け、刹那に端末を差し出した。


 刹那の表情がわずかに変わる。


「場所は?」


「市内の商業施設です。設備の異常に加えて、現場にいた複数の人間が、同じ時間帯に奇妙な感覚を訴えています。異知が関係している可能性があります」


「被害者は?」


「軽傷者が数名。現在、現場の職員が状況を確認しています」


「分かった。詳しい情報を送って。現場の安全確保を優先して、原因の特定はそのあとでいい」


 職員がうなずき、足早に去っていった。


 刹那は端末を確認しながら、短く息を吐いた。


「……ごめんね。ちょっと仕事が入った」


「いえ。大丈夫です」


 俺は立ち上がりかけた。


 そのとき、画面に表示された報告の一部が目に入った。


 複数の人間が、同じ時間帯に奇妙な感覚を訴えている。


 それだけなら、俺の現象とは関係がないかもしれない。


 けれど、俺は思わず尋ねていた。


「刹那さん。異知の事件って、こういうふうに、本人にも原因が分からないまま起きることがあるんですか?」


 刹那は端末から顔を上げた。


「あるよ。本人が意識していない能力もあるし、発動条件が分からないものもある。能力を使った本人が、自分の身に何が起きたのか理解できていない場合だってね」


「……そうなんですね」


「だから、現象だけでなく、発生した状況や周囲への影響も調べるんだ。本人の証言は大事だけど、それだけで全部が分かるわけじゃない」


 俺は、鞄の中の記録用紙を思い出した。


 自分が感じたこと。


 そのとき周囲で起きていたこと。


 そして、実際に何が起きていたのか。


 それらは、同じようでいて、必ずしも一致するとは限らない。


「……俺も、いつか自分の能力が何なのか分かるんでしょうか」


「分かる可能性は十分あるよ。ただし、時間はかかるかもしれない」


 刹那は俺の目を見た。


「蓮くん。君が今、無理に能力を使おうとしないのは正しい判断だ。分からないものを、分からないまま扱うのは危険だからね」


「はい」


「でも、分からないからといって、何もできないわけじゃない。記録を取ることも、知識を身につけることもできる」


 その言葉は、以前にも聞いたものと似ていた。


 それでも、今は少し違って感じられた。


 俺の現象だけが、特別に理解しづらいわけではない。


 異知というもの自体が、まだ分からないことだらけなのだ。


 だからこそ、セフィラは調査を続けている。


 俺は、机の上の記録用紙を手に取った。


「……もう少し、ちゃんと調べてみます」


「うん。それがいい」


 刹那はいつもの調子で笑った。


「ただし、何度も言うけど、無理はしないこと。君の能力が何であれ、君自身の安全より優先するものはないからね」


 俺はうなずいた。


 施設を出るころには、外はすっかり夕方になっていた。


 帰り道、俺は記録用紙を鞄から取り出しかけて、やめた。


 今日は、声が聞こえなくなる現象は起きていない。


 だから、書き足すことはない。


 けれど、今日知ったことは、確かにあった。


 自分の感覚だけを信じていても、答えにはたどり着けない。


 起きたことを観察し、分かったことと分からないことを分ける。


 それが、今の俺にできることだ。


 俺は用紙をしまい、駅へ向かって歩き出した。


 自分の声は、いつもどおり聞こえている。


 その当たり前を、今は確かめることしかできない。


 けれど、いつか。


 この現象の正体を、自分の言葉で説明できる日が来るのだろうか。


 その答えは、まだどこにもなかった。

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