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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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15/24

15,届かない声

翌朝。


 教室に入ると、窓際の席で佐伯がスマートフォンを眺めていた。


「おはよう、雲ヶ谷」


「おはよう」


「そういえばさ、昨日、駅前の商業施設で変な騒ぎがあったらしいぞ」


 その言葉に、俺は鞄を机に置く手を止めた。


「変な騒ぎ?」


「設備が急におかしくなったとか、何人かが変な感じになったとか。詳しいことは知らないけど」


 昨日、セフィラで聞いた報告が頭をよぎった。


 市内の商業施設。


 複数の人間が、同じ時間帯に奇妙な感覚を訴えた。


 偶然かもしれない。


 けれど、場所まで一致しているなら、気にならないはずがなかった。


「ニュースに出てたのか?」


「いや、知り合いが近くにいたんだって。大きな事故にはならなかったらしいけどさ」


「……そうか」


「何だよ。気になるのか?」


「別に。ちょっと聞いただけだ」


 俺はそれ以上、何も尋ねなかった。


 セフィラの内部で聞いた情報を、軽々しく話すわけにはいかない。


 それに、俺自身は事件について何も知らない。


 知っているのは、異知が関係している可能性があるということだけだった。


 授業が始まってからも、俺は何度か昨日の話を思い出していた。


 自分の声が聞こえなくなる現象。


 商業施設で起きたという、複数の人間の異常。


 両者に関係があるとは限らない。


 それでも、どちらも普通では説明しづらい現象だった。


 俺はノートの端に、小さく書き留めた。


 ――商業施設で異常発生。詳細不明。関連性は不明。


 書き終えたところで、俺はペンを止めた。


 今の自分にできるのは、これ以上でも以下でもなかった。


  


   *




 放課後。


 俺はセフィラへ連絡を入れた。


 昨日の商業施設での件について、何か知っていることがあるか。


 もちろん、俺が関係者として調査に参加できるとは思っていない。


 ただ、自分の能力について調べるうえで、参考になることがあるのなら知っておきたかった。


 しばらくして、刹那から返信が届いた。


『事件については、まだ調査中だよ。君が気にするのも分かるけど、今は無関係な可能性もある。詳しいことが分かったら、必要な範囲で話すね』


 俺は画面を見つめたあと、返信した。


『分かりました。ありがとうございます』


 すぐに既読がついた。


『それと、今日も少し時間を取れる? 君に見せたいものがあるんだ』


 俺は一瞬、迷った。


 また能力の調査だろうか。


 それとも、詩織について何か分かったのだろうか。


 どちらにしても、断る理由はなかった。


『行けます』


 返事を送ると、刹那から施設の受付時間が届いた。


   


  *




 セフィラの資料室は、以前訪れた会議室とは違う区画にあった。


 案内された部屋には、壁一面に書類棚が並んでいた。中央の机には端末が置かれ、いくつかの資料が広げられている。


「何回も来てもらって悪いね」


 刹那は椅子に座ったまま、手を振った。


「いえ。それで、見せたいものって何ですか?」


「君の能力について、新しい発見があったわけじゃないよ。期待させたなら申し訳ないけど」


「……そうですか」


「そんなに落ち込まないで。今日は、詩織について話そうと思ってね」


 その名前を聞いた瞬間、俺は自然と背筋を伸ばしていた。


「姉さんのことですか?」


「うん。前に、彼女のことをもっと知りたいって言っていただろう?」


 刹那は机の上の資料を一つ手に取った。


「話せることには限りがあるけど、君が知っておいたほうがいいこともある。今日は、その一部を伝えておこうと思ったんだ」


 資料には、詩織の名前と、いくつかの記録番号が記されていた。


 俺は文字を追った。


 そこには、異知に関する事件への対応記録や、現場での判断についての簡潔な記述が並んでいた。


「姉さんは、本当にいろんな事件に関わっていたんですね」


「そうだね。現場に出ることも多かった。彼女は自分の能力を使うだけじゃなく、周囲の状況をよく見ていたよ」


「周囲の状況?」


「異知の事件では、相手を倒すことだけが正解じゃない。能力の影響を受けている人を安全な場所へ移したり、被害が広がらないようにしたり。そういう判断が必要になる」


 刹那は資料の一部を指した。


「詩織は、戦闘能力だけで評価されていたわけじゃないんだ」


 俺は、その言葉を静かに聞いていた。


 姉が強かったことは知っている。


 けれど、俺が知っていたのは、家で見せていた姉の姿だけだった。


 セフィラでどんな仕事をしていたのか。


 何を考えて現場に立っていたのか。


 そういうことは、ほとんど知らなかった。


「……姉さんは、怖くなかったんでしょうか」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 刹那はすぐには答えなかった。


「怖かったと思うよ」


「でも、あんなに強かったのに?」


「強いことと、怖くないことは別だからね」


 刹那は資料を机に戻した。


「怖くても、迷っても、目の前にいる人を助けるために判断する。それができる人だったんだよ」


 俺は、詩織が倒れる前のことを思い出した。


 いつもと変わらない日常。


 何気ない会話。


 その日常が、突然途切れた。


 俺は、姉が何を考えていたのか知らない。


 何を恐れ、何を守ろうとしていたのかも。


 ただ、姉が目を覚ますのを待っているだけだった。


「……俺も、姉さんみたいになれるんでしょうか」


 刹那は俺を見た。


「同じになる必要はないよ」


「え?」


「詩織には詩織のやり方があった。君には君のやり方がある。誰かを守りたいと思うことと、その人と同じ人間になることは違うからね」


 俺は返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。


「それに、今の君はまだ、自分の能力についても分からないことだらけだろう?」


「……はい」


「だったら、まずは自分にできることを一つずつ増やしていけばいい。焦って誰かの背中を追いかけても、足元を見失うだけだよ」


 刹那はいつもの軽い調子に戻った。


「まあ、君が詩織みたいに無茶をするようになったら、僕が止めるけどね」


「姉さんも無茶をしてたんですか?」


「それは……本人に聞けるようになったら、直接聞くといい」


 刹那の言葉に、俺は顔を上げた。


 姉は、まだ目を覚ましていない。


 いつ話せるようになるのかも、今は分からない。


 それでも、刹那は当然のように、いつか聞ける日が来ることを前提に話した。


 それが気休めなのか、本当にそう信じているのか。


 俺には分からなかった。


 けれど、その一言が、胸の奥に残った。


   


  *


 


 資料室を出る前、俺はもう一度、机の上の記録を見た。


 詩織の名前の横には、いくつもの報告番号が並んでいる。


 この一つ一つに、姉が関わった事件がある。


 助けられた人がいて、助けられなかった人もいたのかもしれない。


 何を考え、どう判断したのか。


 記録だけですべてが分かるわけではないだろう。


 それでも、知ることはできる。


「刹那さん」


「ん?」


「姉さんが関わった事件のこと、もっと教えてもらえませんか」


 刹那は少しだけ目を細めた。


「もちろん。ただし、閲覧できる記録には制限がある。それに、君が知ったからといって、すぐに何かが変わるわけじゃないよ」


「分かっています」


 俺はうなずいた。


「それでも、知りたいんです」


 刹那はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく笑った。


「……分かった。順番に見ていこう」


 施設を出ると、夜の空気が頬に触れた。


 姉のことを知れば、何かが分かると思っていた。


 けれど、実際には、知らなかったことがさらに増えただけなのかもしれない。


 それでも、悪いことだとは思わなかった。


 姉がどんな人間だったのか。


 何を大切にしていたのか。


 その答えは、誰かの説明を聞くだけでは見つからないだろう。


 残された記録を読み、自分で考え、いつか本人の言葉を聞く。


 俺は、鞄の中の記録用紙に手を触れた。


 自分の能力についても、姉についても、まだ分からないことばかりだ。


 けれど、分からないまま立ち止まるつもりはなかった。


 今はまだ、何も変えられない。


 それでも、知ることなら始められる。


 俺は駅へ向かって歩き出した。

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