23,記録に残らないもの
翌日の放課後。
訓練室へ向かう廊下を曲がろうとしたところで、東雲さんに呼び止められた。
「雲ヶ谷。今日はこっちだ」
東雲さんが指したのは、訓練室とは反対側の通路だった。
「資料室、ですよね?」
「そうだ。昨日話したとおり、今日は基礎知識の確認をしてもらう」
「具体的には、何をするんですか?」
「異知に関する記録を読んでもらう。能力の種類、発生した現象、対応方法。それから、記録を読むときに何に注意すべきかもだ」
俺はうなずいた。
訓練なら、実際に動いて覚えられる。
でも、資料を読んで学ぶとなると話は違う。知らない言葉も多いだろうし、どこから理解すればいいのかも分からなかった。
「難しい内容もありますか?」
「ある。ただし、全部を覚えろとは言わない。まずは、分からないことを分からないままにしないことだ」
東雲さんは、どこかで聞いたような言葉を口にした。
セフィラに来てから、何度も言われていることだった。
それだけ大切なことなのだろう。
*
資料室は、想像していたよりも静かだった。
壁一面に並ぶ書架。端末が設置された机。奥には、許可された職員しか入れないらしい区画もある。
紙の資料と電子記録が混在していて、どこから手をつければいいのか分からない。
「まずは、この端末を使え」
東雲さんが画面を操作すると、いくつかの項目が表示された。
異知の基本情報。
発現事例。
能力による被害。
現場対応記録。
「最初は発現事例からだ。能力の名前や説明だけを読んでも、実際に何が起きるかは分からない。具体的な記録を見たほうが理解しやすい」
「分かりました」
「ただし、閲覧できる範囲は限られている。許可のない記録を探したり、持ち出したりするな。分からない項目があれば聞け」
東雲さんはそう告げると、隣の机に資料を広げた。
俺は画面に表示された記録を開いた。
最初の事例は、物体の運動に干渉する能力だった。
次は、熱を発生させる能力。
さらに読み進めると、光の屈折を変えるものや、特定の条件下で生物の身体機能に影響を与えるものまであった。
どれも、現実に起きた出来事として記録されている。
文章だけなら理解できる。
けれど、その能力を持つ人間が目の前に立っていたら、俺は冷静に対処できるだろうか。
たぶん、難しい。
「東雲さん」
「何だ?」
「異知って、こんなに種類があるんですね」
「確認されているものだけでも多いからな。それに、似た現象でも、同じ仕組みとは限らない」
「見た目が同じでも、違う能力かもしれないってことですか?」
「そういうことだ。炎が出たという結果だけを見て、熱を生み出したのか、周囲の物質に干渉したのか、それとも別の現象なのかを判断することはできない」
東雲さんは、俺の画面をのぞき込んだ。
「記録には、実際に確認された事実と、担当者の推測が混ざっていることもある。そこを読み分けるのが大切だ」
俺は画面を見直した。
確定事項と推定事項。
似たような文章でも、意味は大きく違う。
書いてあることを、そのまま事実だと思い込んではいけない。
異知について学ぶというのは、能力の知識を集めるだけではないらしい。
*
一時間ほど経ったころ、俺は一つの記録で手を止めた。
そこには、ある異知使いの能力について、短い説明が記されていた。
発現時に、対象の周囲で音響上の異常が確認された。
しかし、観測された現象と能力の作用範囲には不一致があり、原因は特定されていない。
「……音響上の異常?」
思わず声に出していた。
東雲さんが顔を上げる。
「気になる記録でもあったか?」
「いえ、これって、どういう意味なんでしょうか。音に関係する異知なんですか?」
「可能性はある。だが、音が変化したからといって、必ずしも音そのものを操る能力とは限らない」
東雲さんは俺の画面を確認した。
「音が聞こえなくなったのか、音の伝わり方が変わったのか。それとも、観測した側の感覚に異常が起きたのか。記録だけでは判断できないな」
「なるほど……」
俺は説明を読み返した。
原因は特定されていない。
その一文が、妙に引っかかった。
自分の能力について考えるたび、俺も同じところで立ち止まっている。
声が聞こえなくなる。
でも、どうしてそうなるのかは分からない。
何が起きているのかを理解できないまま、現象だけが記憶に残っている。
「東雲さん。俺の能力も、こういう記録のされ方をするんでしょうか」
東雲さんは少し考えてから答えた。
「今の段階なら、そうなる可能性はあるな。確認できた現象と、分かっていない部分を分けて記録することになる」
「分かっていない部分も、ちゃんと残すんですね」
「当然だ。分からないことを、分かったことにして記録するほうが危険だからな」
俺はうなずいた。
分からないことは、恥ずかしいことじゃない。
ただ、分からないまま放置するのも違う。
今の俺にできるのは、分かっていることを正確に覚えておくことだ。
そう考えて、俺は自分の能力に関する記録項目を開いた。
けれど、そこに表示された内容は、まだ簡素なものだった。
発現の詳細は不明。
再現性は未確認。
追加観察を要する。
自分のことなのに、他人の記録を読んでいるような気分になる。
俺は画面を閉じかけて、ふと手を止めた。
「……あの」
「どうした?」
「俺、能力が発動したときのことを、もう少し思い出したほうがいいんでしょうか」
「思い出せる範囲ならな。ただ、無理に記憶を掘り起こす必要はない。思い違いが混ざることもある」
東雲さんは、俺の画面を指した。
「今は、実際に起きたことと、自分がそうだと思っていることを区別できればいい。次に自然に現象が起きたら、その前後を覚えている範囲で伝えてくれ」
「分かりました」
俺は自分の記録を閉じた。
焦って答えを探しても、見つかるとは限らない。
そのことは、少しずつ分かってきた。
*
資料室を出るころには、窓の外が夕暮れに染まっていた。
「今日のところはここまでだ」
東雲さんが端末の閲覧記録を確認しながら言った。
「どうだった?」
「知らないことが多すぎて、どこから覚えればいいのか分からなくなりそうでした」
「最初はそんなものだ。全部を一度に理解しようとするな」
「はい。でも……」
俺は少しだけ言葉を探した。
「記録を読んでいると、異知って、能力そのものだけじゃなくて、起きたことをどう判断するかも大事なんだなって思いました」
「いい着眼点だ」
東雲さんはうなずいた。
「現場では、目の前で起きたことを正しく理解できるとは限らない。情報が足りないこともあるし、見たものが必ずしも真実とは限らない。だからこそ、確認できた事実を積み重ねる必要がある」
俺は今日読んだ記録を思い返した。
説明できる現象もあれば、原因が分からない現象もある。
それでも、記録は残されている。
分からなかったことも含めて、次に調べるための手がかりになるからだ。
「雲ヶ谷」
「はい」
「君の能力についても、今は分かっていないことのほうが多い。だが、それは何も分からないという意味じゃない」
東雲さんは、落ち着いた声で続けた。
「君が実際に経験したことは、君にしか分からない部分もある。だからこそ、思い込みで結論を出さず、観察したことを大切にしろ」
「……分かりました」
俺は深くうなずいた。
能力の正体は、まだ分からない。
いつ、どうして発動するのかも、どこまでできるのかも。
でも、分からないからといって、何も手がかりがないわけじゃない。
今日の記録だって、最初はただの文章だった。
けれど、一つずつ読んでいけば、何が確認されていて、何が分かっていないのかが見えてくる。
自分の能力も、同じように考えていけばいいのかもしれない。
資料室を後にする直前、俺は一度だけ振り返った。
壁に並ぶ記録の数は、今日読んだものの何倍もある。
その中には、まだ誰にも説明できていない現象もあるのだろう。
そして、俺自身もまた、その一つなのかもしれなかった。
俺は東雲さんの後を追い、廊下へ出た。
答えは、まだ見つからない。
それでも、分からないことを正確に見つめる方法なら、少しずつ学べる気がした。




