24,消えた足音
セフィラに来てから、数日が経った。
訓練と座学を繰り返す日々にも、少しずつ慣れてきた。
相手の動きを見ること。自分の立ち位置を把握すること。分からないことを、分かったふりで済ませないこと。
どれも簡単ではない。
それでも、以前なら気づかなかったことに気づける瞬間が、少しずつ増えていた。
今日も訓練室へ向かう途中、俺は廊下の角で足を止めた。
向こうから職員が歩いてくる。
その人が曲がってくるタイミングを見て、俺は少し横へずれた。
肩がぶつかることもなく、互いに進路を譲る。
ほんの小さなことだ。
けれど、周囲を見て動くというのは、こういうことの積み重ねなのかもしれない。
「お、ちゃんと周りを見てるね」
背後から声がした。
振り返ると、刹那さんが立っていた。
「……いつからいたんですか?」
「今来たところ。そんなに驚くこと?」
「いえ、別に」
「ふうん?」
刹那さんは意味ありげに笑った。
「じゃあ、今日も頑張ってね。東雲君、今日は少し厳しくするって言ってたよ」
「えっ?」
「冗談かもしれないけど」
そう言い残し、刹那さんは廊下の向こうへ歩いていった。
冗談であってほしい。
俺は小さく息を吐いて、訓練室の扉を開けた。
*
「今日は、動きながら周囲の情報を拾う訓練をする」
東雲さんは、床に置かれた複数の訓練用具を示した。
小さな標識、移動式の障害物、いくつかの発光装置。
「指定された経路を移動しながら、こちらが出す指示に対応してもらう。指示は視覚だけとは限らない」
「視覚だけじゃない?」
「音も使う。合図を聞き分けて、正しい方向へ移動するんだ」
東雲さんが手を挙げると、訓練室の端にいた職員が小さな装置を操作した。
短い電子音が鳴る。
「この音がしたら右。二回鳴ったら左。低い音が鳴ったら、その場で止まれ」
「分かりました」
「ただし、障害物から目を離しすぎるな。音だけに集中すればいいわけじゃない」
俺は床の配置を確認した。
進路にはいくつもの障害物があり、移動する職員もいる。指示を聞き逃さず、周囲も確認しながら進まなければならない。
「始め」
最初の電子音が鳴った。
右へ移動する。
続けて二回。
左へ向かおうとしたところで、目の前を障害物が横切った。
「うわっ!」
慌てて足を止める。
その直後、低い音が鳴った。
止まれという指示だ。
けれど、俺はすでに動きを止めていたため、反応が遅れたのかどうかも分からなかった。
「そこまで」
東雲さんが訓練を止めた。
「音を聞くことに意識が寄りすぎている。障害物に気づくのが遅れたな」
「はい……」
「今は合図を正確に聞くことより、複数の情報を同時に扱う感覚を身につけるのが目的だ。音が聞こえたら反射的に動くんじゃなく、状況を確認してから動け」
俺はうなずいた。
簡単そうに思えたのに、実際にやってみるとうまくいかない。
音を聞く。目で見る。次の動きを考える。
その一つひとつに意識を割いていると、すぐに何かを見落としてしまう。
「もう一度お願いします」
「よし。今度は焦るな」
二度目は、最初より慎重に進んだ。
音を聞いたら、まず障害物との距離を確認する。動く前に、次の足場を見る。
それだけで、少しずつ動きに余裕が生まれた。
最後の合図を聞き、指定位置に到達する。
「そこまで」
東雲さんが記録端末に何かを書き込んだ。
「最初よりはいい。ただ、音の方向を判断するまでに少し時間がかかっている」
「自分では、ちゃんと聞こえているつもりなんですけど」
「聞こえることと、正しく判断できることは別だからな」
東雲さんは端末を閉じた。
「もう一つ、確認しておきたいことがある」
「何ですか?」
「君は、自分の能力が発動したとき、音について何か違和感を覚えたことはあるか?」
突然の質問に、俺は少し考えた。
「……自分の声が、うまく聞こえなかった気がすることはあります。でも、はっきりとは覚えていません」
「自分の声か」
東雲さんは、それ以上すぐには尋ねなかった。
「なら、今はそれだけ覚えておけばいい。訓練中に何か起きても、無理に確かめようとしなくていいからな」
「はい」
俺はうなずいた。
自分の能力について、まだ分からないことは多い。
けれど、今日の訓練で何か手がかりが見つかるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は指定位置へ戻った。
*
次の訓練は、移動する障害物を避けながら、決められた地点へ到達するというものだった。
障害物は一定の速度で動くが、途中で進路を変えることもある。
「相手の動きを予測しろ。動いてから避けるんじゃ遅い場合もある」
東雲さんの言葉を思い出しながら、俺は障害物の動きを見た。
右へ進んでいる。
なら、次は左へ回り込めるはずだ。
俺は一歩踏み出した。
その瞬間、障害物の進路が変わった。
「っ!」
とっさに体をひねり、接触を避ける。
足元が乱れ、俺は一歩よろめいた。
そのときだった。
自分の靴が床を踏んだ感触は、確かにあった。
けれど。
足音が、しなかった。
いや、正確には――聞こえなかった。
床の向こうでは、訓練用装置が駆動する音が鳴っている。職員の足音も、東雲さんが端末を操作する小さな音も、いつもどおり耳に届いていた。
なのに、俺が踏み出した一歩だけが、妙に静かだった。
俺は思わず自分の足元を見た。
「雲ヶ谷?」
東雲さんの声で、我に返る。
「大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です」
「なら、いったん止まれ。足をひねっていないか確認しろ」
俺は足首を動かした。
痛みはない。
さっきの違和感だけが、妙にはっきりと残っていた。
俺は、今の足音を聞いたのだろうか。
それとも、本当に鳴らなかったのだろうか。
確かめようとした瞬間、背中に冷たいものが走った。
もし、また能力が発動したのだとしたら。
そう考えた途端、呼吸が少し浅くなった。
「雲ヶ谷」
東雲さんが、俺の様子を見ていた。
「何かあったか?」
「……今、一瞬だけ、自分の足音が聞こえなかった気がします」
東雲さんの表情が変わった。
「ほかの音は?」
「聞こえていました。装置の音も、東雲さんの声も。でも、自分が足を踏み出したときだけ……」
「分かった。今はそれ以上、無理に確かめようとしなくていい」
東雲さんは訓練用装置を停止させ、職員に合図を送った。
「いったん休憩にする。雲ヶ谷、座って状態を確認しよう」
「でも、訓練は……」
「訓練より、今起きたことを整理するほうが先だ」
その声には、いつもの指導とは違う慎重さがあった。
俺は言われたとおり、壁際の椅子に座った。
心臓が、まだ少し速く打っている。
怖かったのかもしれない。
突然の動きに驚いたからかもしれない。
けれど、それだけで能力が発動したと決めつけることはできなかった。
東雲さんが端末を開き、記録をつけ始める。
「まず、確認できたことを分けておこう。君は足を踏み出した。接触は避けられた。その直後、自分の足音が聞こえなかったと感じた。ここまではいいな?」
「はい」
「実際に音が発生していなかったかどうかは、まだ分からない。君が聞き取れなかった可能性もある。そこは区別して記録する」
俺は画面を見つめた。
昨日、資料室で読んだ記録を思い出す。
確認された事実と、推測。
今まさに、自分の能力について同じことをしている。
「……もし、本当に音が消えていたとしたら?」
「その場合も、何が原因だったのかは別に調べる必要がある」
東雲さんは淡々と答えた。
「一度の現象だけで、能力の性質や発動条件を決めることはできない。だが、今の違和感は記録する価値がある」
「分かりました」
「今日はここまでにしよう。次回は、今回の記録も踏まえて訓練内容を考える」
俺はゆっくりと息を吐いた。
能力の正体に近づけたのだろうか。
それとも、ただの聞き間違いだったのだろうか。
まだ何も分からない。
それでも、さっきの一歩を、俺は忘れられそうになかった。
*
訓練室を出る前、俺は一度だけ床を見下ろした。
さっき足を踏み出した場所。
何の変哲もない、いつもの床だ。
もう一度歩いてみる。
靴底が床に触れ、乾いた足音が響いた。
もう一歩。
また、音がする。
いつもどおりだった。
「……何だったんだ、今の」
小さくつぶやいた声は、確かに自分の耳に届いた。
俺はその場を離れた。
あの瞬間、消えたのは本当に音だったのか。
それとも、俺が聞き取れなかっただけなのか。
まだ、答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、俺が自分の能力について、今まで以上に注意深く考えるようになったことだった。




