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異知 〜世界の理を識る者〜  作者: 春野晴
1章 プロローグ
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22/24

22,見えない一歩

 翌日の放課後。


 セフィラの訓練室に入ると、東雲さんはすでに準備を終えていた。


「来たな、雲ヶ谷」


「はい。今日もよろしくお願いします」


「昨日の動作確認、覚えてるか?」


「止まる位置や、自分の周りを意識することですよね」


「そうだ。今日はそれに、相手の動きを見ることを加える」


 東雲さんは訓練室の中央を指した。


 床にはいくつもの円と線が引かれている。昨日と同じ場所なのに、配置が少し変わっていた。


「相手が動けば、こっちの立ち位置も変わる。自分だけを見ていても、状況は把握できない。今日はそこを意識してもらう」


「分かりました」


「じゃあ、まずは見ていろ」


 東雲さんの合図で、訓練用の防具を身につけた職員が二人、向かい合った。


「開始!」


 一人が前へ踏み込む。


 もう一人は後退しながら相手の動きを見て、床の円の外へ回り込んだ。


 攻撃を避けるだけではない。


 相手が次に動ける方向を狭めるように、少しずつ位置を変えている。


 やがて、攻めていた側は壁際に追い込まれ、動きが止まった。


「そこまで」


 東雲さんが手を上げる。


「今の勝負、何が決め手だったと思う?」


 突然尋ねられ、俺は少し考えた。


「……避けたあと、相手が動きにくい場所に移動したこと、でしょうか」


「悪くない。攻撃を避けるだけなら、相手が動き続ける限り、こっちも動き続けることになる。だが、相手の選択肢を減らせば、次の行動を予測しやすくなる」


 東雲さんは床の円を指で示した。


「戦闘じゃ、相手の能力だけを警戒していればいいわけじゃない。距離、地形、味方の位置。そういうもの全部が状況を変える」


「能力以外のことも、考えないといけないんですね」


「能力があるからこそ、だな。自分の力に頼りきると、力が通じなかったときに何もできなくなる」


 俺は先ほどの動きを思い返した。


 相手を倒すために強い攻撃をする。それだけが戦いではない。


 何をさせないか。どこへ誘導するか。


 そうした判断が、勝敗を左右することもあるのだ。


「じゃあ、次は雲ヶ谷だ」


「えっ、俺ですか?」


「昨日より少し難しくするって言っただろ」


 東雲さんは、向かい側に立つよう俺を促した。


 相手を務めるのは、先ほど模擬戦をしていた職員だった。


「今回は攻撃しなくていい。相手の動きを見て、指定された範囲から出ないように移動してみろ」


「分かりました」


 俺は床の円の中に立った。


「始め」


 職員がゆっくりと近づいてくる。


 俺は相手から距離を取るように横へ動いた。


 相手も追ってくる。


 後ろへ下がる。横へずれる。


 何とか距離を保っていたが、気づけば床の線がすぐ後ろに迫っていた。


「止まれ」


 東雲さんの声で、俺は足を止めた。


「今、何を考えていた?」


「相手から離れることです」


「それだけか?」


「……はい」


「だから、追い込まれたんだ」


 東雲さんは床を見下ろした。


「相手から離れることばかり考えて、どこへ移動するかを考えていなかった。逃げる方向にも限りがある。距離を取るにしても、次に動ける場所を残しておく必要があるんだ」


 俺は、後ろの線を見た。


 確かに、相手を避けることしか考えていなかった。


 相手の動きは見ていたつもりだったが、自分がどこへ追い込まれているのかは見えていなかったのだ。


「もう一度お願いします」


「よし。今度は周りも見ろ」


 二度目。


 相手が近づいてきたとき、俺はすぐに後ろへ下がらなかった。


 まず、左右の空間を確かめる。


 相手が右へ動いたのを見て、俺は反対側へ移動した。


 それから、次の一歩を踏み出す場所を探す。


 完璧とは言えなかったが、さっきより長く範囲内にとどまれた。


「そこまで」


 東雲さんが訓練を止めた。


「今のほうがいい」


「ありがとうございます」


「ただ、相手の動きに反応するのが少し遅い。見てから考えるだけじゃ間に合わない場面もある。相手が何をしようとしているのか、動き始める前から考える癖をつけろ」


「はい」


 俺は息を整えた。


 たった数分の訓練なのに、頭も体も疲れていた。


 自分が思っていた以上に、周りが見えていなかったのだろう。


  


  *




 訓練の合間、俺は壁際で水を飲んでいた。


 そこへ、刹那さんがやってきた。


「お疲れさま。どうだった?」


「難しいです。相手を見ているつもりでも、自分のことまで考えられなくて」


「一度に全部やろうとするからだね」


「でも、戦闘中は全部考えないといけないんですよね?」


「最初から全部を完璧にこなす必要はないよ。まずは一つずつ意識する。慣れてくれば、少しずつ同時に考えられるようになる」


 刹那さんは訓練室を眺めた。


「それに、現場では一人で全部を把握する必要もない。仲間と情報を共有することも、立派な判断だからね」


「仲間と……」


「自分に見えていないものを、他の人が見ていることもある。自分一人で何とかしようとするのが、いつも正解とは限らないんだ」


 その言葉を聞いて、俺は少し考えた。


 姉の記録を読んだときにも、似たようなことを感じた気がする。


 ただ、今はその話を考え込むより、目の前の訓練に集中したかった。


「……俺、もっと周りを見られるようになりたいです」


「いい目標だね」


 刹那さんは微笑んだ。


「でも、焦らないこと。昨日より一つでも気づけたなら、それは前進だよ」


「はい」


「それと、東雲君の言うことはちゃんと聞くように」


「聞いてますよ」


「本当かなあ。君、分からないことがあると、すぐ自分で何とかしようとしそうだから」


 思い当たる節があって、俺は言葉に詰まった。


「……気をつけます」


「うん。それがいい」


 刹那さんは満足そうにうなずき、訓練室の出口へ向かった。


 その背中を見送ってから、俺はもう一度、水を飲んだ。


 自分の能力を知りたい。


 異知についてもっと学びたい。


 その気持ちは変わらない。


 けれど、力を身につけることだけが、強くなるということではないのかもしれなかった。


  


  *




 訓練の終わり際、東雲さんが俺を呼び止めた。


「雲ヶ谷。最後に一つ、聞いておきたいことがある」


「はい」


「自分の能力が発動したとき、何か覚えていることはあるか?」


 俺は少し考えた。


 声が聞こえなくなったとき。


 周囲の音が遠くなったように感じたとき。


 あの現象が起きる直前のことを、何度も思い返してきた。


「……はっきりとは分かりません。ただ、何かに強く気を取られていたことはあります」


「何かに?」


「怖かったり、焦っていたり……。でも、それだけで発動するわけでもないと思います」


 東雲さんは、すぐには答えなかった。


「なるほどな。今の段階で、原因を決めつけるのはやめておこう」


「はい」


「次に起きたとき、無理に再現しようとする必要はない。覚えている範囲で、その前後に何があったかを伝えてくれればいい」


 俺はうなずいた。


 能力を確かめるために、わざと怖い思いをしたり、無理をしたりする必要はない。


 今は、分かることを少しずつ集めていけばいいのだ。


「今日はここまでだ。明日は訓練を休んで、資料室で基礎知識の確認をしてもらう。能力のことも、焦らず整理していこう」


「分かりました。今日もありがとうございました」


 俺は頭を下げた。


 訓練室を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。


 昨日より少しだけ、自分の動きが分かるようになった。


 それでも、相手の動きを読み切ることも、異知を理解することも、まだ遠い。


 けれど、遠いからといって、何もできないわけじゃない。


 俺は鞄を肩にかけ、セフィラの出口へ向かった。


 次にここへ来るときには、今日見落としたものを一つでも多く見つけたい。


 そのために、まずは自分が何を見落としていたのか、忘れないようにしておこうと思った。

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