22,見えない一歩
翌日の放課後。
セフィラの訓練室に入ると、東雲さんはすでに準備を終えていた。
「来たな、雲ヶ谷」
「はい。今日もよろしくお願いします」
「昨日の動作確認、覚えてるか?」
「止まる位置や、自分の周りを意識することですよね」
「そうだ。今日はそれに、相手の動きを見ることを加える」
東雲さんは訓練室の中央を指した。
床にはいくつもの円と線が引かれている。昨日と同じ場所なのに、配置が少し変わっていた。
「相手が動けば、こっちの立ち位置も変わる。自分だけを見ていても、状況は把握できない。今日はそこを意識してもらう」
「分かりました」
「じゃあ、まずは見ていろ」
東雲さんの合図で、訓練用の防具を身につけた職員が二人、向かい合った。
「開始!」
一人が前へ踏み込む。
もう一人は後退しながら相手の動きを見て、床の円の外へ回り込んだ。
攻撃を避けるだけではない。
相手が次に動ける方向を狭めるように、少しずつ位置を変えている。
やがて、攻めていた側は壁際に追い込まれ、動きが止まった。
「そこまで」
東雲さんが手を上げる。
「今の勝負、何が決め手だったと思う?」
突然尋ねられ、俺は少し考えた。
「……避けたあと、相手が動きにくい場所に移動したこと、でしょうか」
「悪くない。攻撃を避けるだけなら、相手が動き続ける限り、こっちも動き続けることになる。だが、相手の選択肢を減らせば、次の行動を予測しやすくなる」
東雲さんは床の円を指で示した。
「戦闘じゃ、相手の能力だけを警戒していればいいわけじゃない。距離、地形、味方の位置。そういうもの全部が状況を変える」
「能力以外のことも、考えないといけないんですね」
「能力があるからこそ、だな。自分の力に頼りきると、力が通じなかったときに何もできなくなる」
俺は先ほどの動きを思い返した。
相手を倒すために強い攻撃をする。それだけが戦いではない。
何をさせないか。どこへ誘導するか。
そうした判断が、勝敗を左右することもあるのだ。
「じゃあ、次は雲ヶ谷だ」
「えっ、俺ですか?」
「昨日より少し難しくするって言っただろ」
東雲さんは、向かい側に立つよう俺を促した。
相手を務めるのは、先ほど模擬戦をしていた職員だった。
「今回は攻撃しなくていい。相手の動きを見て、指定された範囲から出ないように移動してみろ」
「分かりました」
俺は床の円の中に立った。
「始め」
職員がゆっくりと近づいてくる。
俺は相手から距離を取るように横へ動いた。
相手も追ってくる。
後ろへ下がる。横へずれる。
何とか距離を保っていたが、気づけば床の線がすぐ後ろに迫っていた。
「止まれ」
東雲さんの声で、俺は足を止めた。
「今、何を考えていた?」
「相手から離れることです」
「それだけか?」
「……はい」
「だから、追い込まれたんだ」
東雲さんは床を見下ろした。
「相手から離れることばかり考えて、どこへ移動するかを考えていなかった。逃げる方向にも限りがある。距離を取るにしても、次に動ける場所を残しておく必要があるんだ」
俺は、後ろの線を見た。
確かに、相手を避けることしか考えていなかった。
相手の動きは見ていたつもりだったが、自分がどこへ追い込まれているのかは見えていなかったのだ。
「もう一度お願いします」
「よし。今度は周りも見ろ」
二度目。
相手が近づいてきたとき、俺はすぐに後ろへ下がらなかった。
まず、左右の空間を確かめる。
相手が右へ動いたのを見て、俺は反対側へ移動した。
それから、次の一歩を踏み出す場所を探す。
完璧とは言えなかったが、さっきより長く範囲内にとどまれた。
「そこまで」
東雲さんが訓練を止めた。
「今のほうがいい」
「ありがとうございます」
「ただ、相手の動きに反応するのが少し遅い。見てから考えるだけじゃ間に合わない場面もある。相手が何をしようとしているのか、動き始める前から考える癖をつけろ」
「はい」
俺は息を整えた。
たった数分の訓練なのに、頭も体も疲れていた。
自分が思っていた以上に、周りが見えていなかったのだろう。
*
訓練の合間、俺は壁際で水を飲んでいた。
そこへ、刹那さんがやってきた。
「お疲れさま。どうだった?」
「難しいです。相手を見ているつもりでも、自分のことまで考えられなくて」
「一度に全部やろうとするからだね」
「でも、戦闘中は全部考えないといけないんですよね?」
「最初から全部を完璧にこなす必要はないよ。まずは一つずつ意識する。慣れてくれば、少しずつ同時に考えられるようになる」
刹那さんは訓練室を眺めた。
「それに、現場では一人で全部を把握する必要もない。仲間と情報を共有することも、立派な判断だからね」
「仲間と……」
「自分に見えていないものを、他の人が見ていることもある。自分一人で何とかしようとするのが、いつも正解とは限らないんだ」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。
姉の記録を読んだときにも、似たようなことを感じた気がする。
ただ、今はその話を考え込むより、目の前の訓練に集中したかった。
「……俺、もっと周りを見られるようになりたいです」
「いい目標だね」
刹那さんは微笑んだ。
「でも、焦らないこと。昨日より一つでも気づけたなら、それは前進だよ」
「はい」
「それと、東雲君の言うことはちゃんと聞くように」
「聞いてますよ」
「本当かなあ。君、分からないことがあると、すぐ自分で何とかしようとしそうだから」
思い当たる節があって、俺は言葉に詰まった。
「……気をつけます」
「うん。それがいい」
刹那さんは満足そうにうなずき、訓練室の出口へ向かった。
その背中を見送ってから、俺はもう一度、水を飲んだ。
自分の能力を知りたい。
異知についてもっと学びたい。
その気持ちは変わらない。
けれど、力を身につけることだけが、強くなるということではないのかもしれなかった。
*
訓練の終わり際、東雲さんが俺を呼び止めた。
「雲ヶ谷。最後に一つ、聞いておきたいことがある」
「はい」
「自分の能力が発動したとき、何か覚えていることはあるか?」
俺は少し考えた。
声が聞こえなくなったとき。
周囲の音が遠くなったように感じたとき。
あの現象が起きる直前のことを、何度も思い返してきた。
「……はっきりとは分かりません。ただ、何かに強く気を取られていたことはあります」
「何かに?」
「怖かったり、焦っていたり……。でも、それだけで発動するわけでもないと思います」
東雲さんは、すぐには答えなかった。
「なるほどな。今の段階で、原因を決めつけるのはやめておこう」
「はい」
「次に起きたとき、無理に再現しようとする必要はない。覚えている範囲で、その前後に何があったかを伝えてくれればいい」
俺はうなずいた。
能力を確かめるために、わざと怖い思いをしたり、無理をしたりする必要はない。
今は、分かることを少しずつ集めていけばいいのだ。
「今日はここまでだ。明日は訓練を休んで、資料室で基礎知識の確認をしてもらう。能力のことも、焦らず整理していこう」
「分かりました。今日もありがとうございました」
俺は頭を下げた。
訓練室を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。
昨日より少しだけ、自分の動きが分かるようになった。
それでも、相手の動きを読み切ることも、異知を理解することも、まだ遠い。
けれど、遠いからといって、何もできないわけじゃない。
俺は鞄を肩にかけ、セフィラの出口へ向かった。
次にここへ来るときには、今日見落としたものを一つでも多く見つけたい。
そのために、まずは自分が何を見落としていたのか、忘れないようにしておこうと思った。




