20,見習いの一歩
翌日の放課後。
俺はセフィラの資料室で、異知に関する基礎資料を読んでいた。
候補生としての活動が始まるにあたって、まずは基本的な知識を身につけることになったのだ。
異知の分類。能力の発現条件。コアの基本構造。そして、能力を持つ者が事件に関わった場合の対応手順。
どれも知らないことばかりだった。
特に気になったのは、異知の能力が必ずしも本人の意思どおりに発動するわけではない、という記述だった。
感情や周囲の状況、能力ごとの条件によって、意図せず発動する場合がある。
俺の現象も、それに当てはまるのだろうか。
自分の声が聞こえなくなる。
あの現象が起きたとき、周囲の人間には俺の声がどう聞こえているのか。それすら、まだはっきりしていない。
資料を読み進めても、自分の答えが見つかるわけではなかった。
「……難しいな」
小さくつぶやいて、俺はページをめくった。
「分からないものを、分かったことにするのが一番危ない、か」
昨日ジークが口にした言葉が、ふと思い浮かんだ。
あの人は、こういう資料を読んだうえで言ったのだろうか。
それとも、実際の現場で何かを経験したからなのか。
考えても、当然答えは出なかった。
*
資料室を出て、受付へ向かっている途中だった。
廊下の先で、職員が二人、何かを話しながら歩いていた。
「第三訓練室の確認は終わったか?」
「設備は問題ありません。ただ、模擬標的の反応が少し不安定で……」
「それは担当部署に伝えておけ。今日の訓練は予定どおりだ」
その直後、別の職員がこちらへ急いでくる。
「すみません。第三訓練室の模擬標的ですが、先ほどから制御信号を受け付けなくなっています」
「何だって?」
職員たちの足が止まった。
俺は思わず、そちらを見た。
「原因は?」
「まだ分かっていません。電源を切って再起動させようとしましたが、反応がなくて……」
「なら、いったん使用を中止しよう。訓練中の人間は?」
「まだ入っていません。準備をしていた職員が一人、室内にいます」
「すぐに退室させろ。原因が分かるまでは誰も入れるな」
指示が飛び交い、廊下の空気が変わった。
俺はその場を離れようとした。
候補生の自分が、ここで何かできるわけではない。
そう思った直後、訓練室の方向から声が響いた。
「うわっ、何だこれ!」
続いて、硬いものが床にぶつかる音。
職員たちが一斉に振り返った。
「中の職員と連絡は?」
「応答がありません!」
「退室できていないのか……!」
その場に緊張が走る。
俺の足も、思わず止まっていた。
誰かが危険な状況にいる。
助けに行かなければ。
そう考えかけて、俺は踏みとどまった。
何が起きているのか分からない。
能力が暴走しているのか、それとも設備の故障なのか。そもそも、あの部屋にどんな危険があるのかさえ知らない。
俺が飛び込んでも、状況を悪化させるかもしれない。
「雲ヶ谷君?」
振り返ると、刹那さんが立っていた。
「刹那さん。訓練室で何かあったみたいです」
「うん。今、確認しているところだよ」
刹那さんは落ち着いた様子で、職員たちの話を聞いていた。
「中にいる人との連絡が取れないそうです」
「そうみたいだね」
「俺にも、何かできることは……」
言いかけて、口を閉じた。
何ができるのか。
その答えを、俺自身が知らない。
刹那さんは俺の顔を見て、穏やかに言った。
「今の君にできることは、状況を正確に伝えること。それから、指示があるまで安全な場所にいることだよ」
「……はい」
「助けたいと思うなら、なおさらね」
その言葉に、俺はうなずいた。
悔しくないと言えば嘘になる。
けれど、ここで無理に動くことが勇気なのかどうか、俺には判断できなかった。
俺は訓練室の扉を見つめた。
*
「はいはい、通路を空けてくれ」
不意に、聞き覚えのある声がした。
黒髪の男が、職員たちの間をのんびりと歩いてくる。
ジークだった。
「ジークさん!」
「お、蓮君。勉強中?」
「今はそれどころじゃ……」
「うん、見れば分かる」
ジークは訓練室の扉に目を向けた。
さっきまでの気楽な表情は変わっていない。けれど、視線だけは妙に鋭かった。
「中に一人。外から連絡が取れない。標的の制御系が止まって、原因は不明。そんなところ?」
「はい。現在、設備担当が確認を――」
「電源を落とした?」
「試しましたが、反応がありません」
「外部制御も?」
「同じです」
「そっか」
ジークは短く答えた。
それから、扉の横にある表示盤へ目を向ける。
「こいつ、標的の動力だけ止めても意味がないかもしれないな」
「どういうことですか?」
職員が尋ねた。
「制御が死んでるのに、動力が残ってるなら、止まってるんじゃなくて止められなくなってる可能性もある。中の人が触る前に、確認したほうがいい」
その言葉に、職員たちの顔つきが変わった。
「……確かに。動力系統は独立しています」
「なら、まずそっちを切る。室内に入るのはそのあとだ」
ジークは表示盤の状態を確かめ、職員に具体的な指示を出していった。
先ほどまで廊下を歩いていたときとは、まるで別人のようだった。
声を荒らげることも、慌てることもない。
ただ、必要なことを見極めて、順番に指示している。
職員たちも、余計な質問を挟まずに動き始めた。
「動力系統、遮断します!」
数秒後、表示盤のランプが一つ消えた。
続いて、室内から声が聞こえた。
「おーい! こっちは大丈夫だ!」
「応答ありました!」
廊下に安堵の空気が広がった。
ジークは小さく息を吐く。
「よし。慌てて突っ込まなくて正解だったな」
「はい。ありがとうございます」
職員が頭を下げる。
「礼はいいから、原因を調べといて。次も同じことが起きたら困るだろ」
「承知しました」
ジークはそれだけ言うと、こちらへ振り返った。
「で、蓮君」
「は、はい!」
「そんなに身構えなくてもいいって。俺、別に怒ってないから」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、何?」
「……何でもないです」
「そっか。ならいいや」
ジークは笑った。
その笑顔は、昨日会ったときと何も変わらない。
けれど俺には、さっきの一連のやり取りが頭から離れなかった。
あの人は、状況を見ただけで危険の可能性を考え、何を先に確かめるべきか判断した。
能力を使ったわけでもない。
ただ、知識と経験で、危険な状況を切り抜けたのだ。
「……ジークさんって、普段からああいうことを?」
「ん? ああいうことって?」
「状況を見て、すぐに判断することです」
「さあなあ。必要なら考えるよ」
「それだけですか?」
「それだけって、結構大事だぞ」
ジークは軽く俺の肩を叩いた。
「分からないときに、分からないって言えること。知らないことを、知ってるふりしないこと。あと、手に負えないなら手に負える人を呼ぶこと」
彼は指を折って数えた。
「案外、それだけで防げる失敗もあるんだよ」
俺は、すぐに返事ができなかった。
難しい技術や強い能力だけが、人を助ける方法ではない。
自分にできることと、できないことを見極める。
それもまた、必要な力なのだろう。
「……ありがとうございます」
「おう。まあ、俺も報告書を忘れないようにしないとな」
「そこはちゃんとしてくださいよ」
横から刹那さんが口を挟んだ。
「げっ、刹那。まだいたのか」
「最初からいるよ。さっきの対応は見事だったけど、報告書の件は別だからね」
「はいはい、分かりましたよ」
「本当に分かってる?」
「……努力します」
「提出期限は今日だよ」
「厳しいなあ!」
ジークが大げさに肩を落とす。
刹那さんは楽しそうに笑っていた。
俺も、思わず笑ってしまった。
さっきまでの緊張が、少しだけほどけていく。
*
帰り道。
俺は今日の出来事を思い返していた。
訓練室で何が起きたのか、詳しい原因はまだ分かっていない。
それでも、あの場で何をするべきだったのかは、少し理解できた気がする。
危険を見つけたからといって、すぐに飛び込めばいいわけではない。
状況を知り、自分にできることを考え、必要なら適切な人に任せる。
それは、何もしないこととは違う。
俺はまだ候補生だ。
能力の仕組みも分からないし、現場で何ができるかも分からない。
けれど、何もできないと決めつける必要もないのだろう。
今の俺にできることを、少しずつ増やしていけばいい。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
刹那さんからのメッセージだった。
『今日はお疲れさま。明日から、基礎訓練の見学もできるようにしておくね』
俺は画面を見つめた。
基礎訓練。
能力を使うことだけではなく、判断や安全確認についても学べるのかもしれない。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』
返信を送って、スマートフォンをしまった。
明日から、また一つ新しいことを学べる。
そのことを、俺は少し楽しみに感じていた。




