18,候補生の立場
翌朝。
目覚ましが鳴る少し前に、俺は目を覚ました。
枕元に置いたスマートフォンを手に取り、時間を確認する。いつもと変わらない朝だった。
それなのに、頭の中には昨日までとは違う考えが残っていた。
姉の記録を読んでから、俺は何度も考えていた。
姉さんがセフィラでしていたこと。
自分の判断だけに頼らず、周囲の意見を聞き、状況に合わせて行動すること。
俺には、まだ難しい。
そもそも、自分の能力がどういう仕組みで発動しているのかさえ、はっきり分かっていないのだ。
姉さんと同じようにできるかどうかを考えるのは、まだ早いのかもしれない。
それでも、何も知らないままでいたくはなかった。
俺はベッドから起き上がり、制服に着替えた。
*
昼休み。
「なあ、雲ヶ谷」
弁当を食べていると、佐伯が机の横にやってきた。
「この前の数学の小テスト、どうだった?」
「普通。別に良くも悪くもない」
「それ、結局どっちなんだよ」
「自分で考えろよ」
「冷たっ」
佐伯は大げさに肩を落とした。
いつもどおりのやり取りだった。
少し前なら、こういう会話のあとに自分の声が聞こえなくなったことを思い出して、必要以上に気にしていたかもしれない。
今でも、あの現象が気にならないわけではない。
けれど、いつ起きるか分からないものを、ずっと警戒しているわけにもいかなかった。
「そういや、お前、最近よく出かけてるよな。放課後とか」
佐伯が何気なく尋ねてきた。
「まあ、ちょっと用事があって」
「塾?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
「……説明しにくい」
セフィラのことを、簡単に話すわけにはいかない。
佐伯は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「ま、何か面白いことがあったら教えろよ」
「面白いことならな」
俺は弁当箱の蓋を閉じた。
秘密を抱えているという感覚には、まだ慣れない。
けれど、知らないことを何でも話していいわけではないのだと、少しずつ理解し始めていた。
*
放課後。
俺は刹那さんから届いた連絡を確認し、セフィラへ向かった。
今日は詩織の記録を見せてもらう約束ではない。
前回、姉と一緒に働いていた職員の話を聞きたいと頼んだ。その件について、何か分かったのかもしれなかった。
受付で名前を告げると、職員は端末を確認した。
「神楽坂執行官から連絡を受けています。こちらで少しお待ちください」
「分かりました」
待合スペースの椅子に腰を下ろす。
周囲では職員たちが行き交い、端末を手にした人が足早に廊下を通り過ぎていく。
以前よりも、この場所の雰囲気に慣れてきた気がした。
もちろん、ここで働く人たちと自分とでは、立場が違う。
俺はまだ候補生で、異知に関する知識も経験も足りない。
それでも、ここに来るたびに、自分が知らなかった世界の輪郭が少しずつ見えてくる。
「雲ヶ谷君」
声をかけられて顔を上げると、刹那さんが立っていた。
「お待たせ。少し話そうか」
「姉さんの記録の件ですか?」
「それもあるけど、今日は別の話もね」
刹那さんはそう言って、俺を廊下の奥へと案内した。
*
通されたのは、小さな会議室だった。
机の上には端末が一台置かれている。
「まず、詩織と一緒に働いていた職員の件だけど、話を聞けそうな人が見つかったよ」
「本当ですか?」
「うん。ただ、今は別の任務に就いているから、すぐに時間を取れるとは限らない。日程が決まったら連絡するね」
「ありがとうございます」
「そんなに急がなくても大丈夫。記録を読むことと、実際に話を聞くことは、分けて考えたほうがいいからね」
俺はうなずいた。
すぐに姉のことを知れるわけではない。
それでも、少しずつ前に進んでいる。
「それで、もう一つの話というのは……?」
刹那さんは椅子に座り、端末を操作した。
「君は今、自分の能力について調べているだろう?」
「はい」
「でも、セフィラに来るたびに記録を見たり、僕に質問したりするだけでは、分からないこともある」
「それは、そうだと思います」
「だから、君が今後どういう形でセフィラに関わるのか、そろそろ整理しておこうと思ってね」
俺は背筋を伸ばした。
セフィラに関わる。
その言葉が、思っていたよりも重く感じられた。
「俺は、これからどうなるんですか?」
「今すぐ正式な職員になるわけじゃないよ。君はまだ候補生だ。知識も経験も足りないし、能力についても不明な点が多い」
「……はい」
「だからこそ、何ができて、何ができないのかを理解する必要がある。能力を使えるかどうかだけじゃない。危険な状況で、自分がどこまで対応できるのか。それも大切なんだ」
刹那さんの声は、いつもより少し真面目だった。
「君は、人を助けたいと思っているんだろう?」
「はい」
「なら、その気持ちだけで現場に出ようとしないこと。助けたいと思うことと、実際に助けられることは違うからね」
俺は言葉を返せなかった。
交差点で子供を助けたとき、俺は考えるより先に身体を動かしていた。
あのときは、それでよかったのかもしれない。
けれど、次も同じようにできるとは限らない。
自分の判断が、誰かを危険にさらす可能性だってある。
「……分かりました」
俺はゆっくりとうなずいた。
「俺、自分にできることをちゃんと知りたいです」
「うん。それなら、まずはそこから始めよう」
刹那さんはいつもの笑みを浮かべた。
「まあ、君が何でも一人で背負おうとしたら、僕が止めるけどね」
「そんなつもりは……」
「本当に?」
「……気をつけます」
「よろしい」
刹那さんは満足そうにうなずいた。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
セフィラに関わるということは、ただ能力について教えてもらうことではない。
自分の力を知り、その限界を知り、何をするべきかを考えること。
それも必要なのだ。
*
帰り際、受付で手続きを済ませていると、廊下の向こうから数人の職員が歩いてきた。
その中の一人が、別の職員に書類を渡しながら話している。
「次の候補生の対応、担当は決まったのか?」
「まだ調整中だそうです。現場経験のある人にも協力を頼むみたいですよ」
「そうか。なら、あの人に声をかけてみればいいんじゃないか?」
「暇そうにしているときなら、引き受けてくれるだろう」
職員たちはそんな会話を交わしながら、廊下の角へと消えていった。
夕方の空は、少しずつ暗くなり始めていた。
駅へ向かう道を歩きながら、刹那さんの言葉を思い返す。
人を助けたいと思うことと、実際に助けられることは違う。
その言葉は、簡単には割り切れなかった。
それでも、今の自分にできることはある。
知らないことを知る。
自分の限界を理解する。
そして、必要なときに誰かの力を借りられるようになる。
俺は鞄の中のノートに触れた。
姉のことも、自分の能力のことも、まだ分からないことばかりだ。
けれど、焦って答えを出す必要はない。
一つずつ、前に進んでいけばいい。
そう考えながら、俺は家へと歩き出した。




