17,知らない姉
2日後の放課後。
俺は鞄の中に、昨日から使い始めた小さなノートを入れた。
自分の能力について記録しているノートとは別のものだ。
こちらに書くのは、姉について知りたいこと。
セフィラで何をしていたのか。どんな事件に関わったのか。どんな人たちと一緒に働いていたのか。
一昨日、刹那さんから見せてもらった記録を読んで、知りたいことがいくつも増えた。
家での姉は、俺にとって当たり前の存在だった。
困ったときには助けてくれる。俺が失敗すれば笑いながらからかう。時には、こちらが呆れるほど無茶をすることもあった。
けれど、セフィラで働いていた姉は、俺の知らない顔を持っていた。
それを知ることが、今の俺にできることの一つなのだと思う。
スマートフォンを取り出し、刹那さんにメッセージを送った。
『今日も記録を見せてもらうことはできますか?』
返事は、思っていたより早く届いた。
『もちろん。今日は少し違うものを見せようと思っていたところだよ』
俺は画面を見つめた。
違うもの。
その言葉が気になったが、刹那さんはそれ以上説明してくれなかった。
*
セフィラの受付で手続きを済ませ、案内されたのは前回と同じ資料室だった。
扉を開けると、刹那さんが端末を操作していた。
「やあ。ちゃんと来たね」
「そりゃ姉さんの記録見せてもらいたいので…」
「そうだった、そうだった。いやあ、ごめんね」
「……からかわないでください」
「はは、ごめんごめん」
刹那さんは端末の画面をこちらに向けた。
表示されていたのは、姉の名前と、いくつかの記録番号だった。
「今日は、詩織と一緒に現場に出ていた職員の報告を見てもらおうと思ってね」
「姉さん本人が書いた記録じゃないんですか?」
「今回は違う。本人の報告書だけでは分からないこともあるからね。別の人間から見た詩織が、どんな人物だったのか。それを知るのも悪くないだろう?」
俺はうなずいた。
刹那さんが画面を操作すると、短い報告書が表示された。
そこには、ある異知関連事件の対応について書かれていた。
現場にいた複数の職員の名前。その中に、姉の名前もある。
俺は記録を読み進めた。
事件の詳細は、一部が伏せられていた。それでも、現場で混乱が起き、職員同士の連携が必要だったことは分かった。
そして、報告書の後半に、気になる記述があった。
『雲ヶ谷詩織は、現場状況の変化に応じて他班への情報共有を実施。予定されていた対応手順に固執せず、現場職員の意見を取り入れたことで、二次的な被害の発生を防いだ』
「……姉さんが、ほかの人の意見を聞いた?」
「意外だった?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど」
俺は少し考えてから答えた。
「家では、結構自分の考えを押し通すこともあったので」
「それは知らなかったな。詩織にも弟の前では違う顔があったんだね」
刹那さんは楽しそうに笑った。
「でも、現場では自分の考えだけが正しいと思わなかったんだろう。状況が変われば、正しい判断も変わる。自分より詳しい人間がいれば、その人の意見を聞く。そういうことができる人だったんじゃないかな」
俺は記録をもう一度読み返した。
姉は強かった。
それは、俺が知っていたことだ。
でも、強いからこそ自分の判断を押し通していたわけではないらしい。
必要なら、ほかの人間の意見を受け入れる。
自分の考えに固執しない。
俺には、それが少し意外だった。
「姉さんって、セフィラでも周りの人とよく話していたんですか?」
「そうだね。もちろん、意見がぶつかることもあったよ。でも、詩織は相手の意見を聞いたうえで、自分がどうするべきかを考えていた」
「……そうなんですね」
俺はノートを取り出した。
そこに、今分かったことを書き留める。
――姉は自分の判断に固執せず、他人の意見も取り入れていた。
書き終えて、少しだけ考える。
俺だったら、どうするだろう。
自分が正しいと思ったとき、相手の意見を聞けるだろうか。
特に、自分が焦っているときや、感情的になっているときに。
佐伯に苛立ったときのことが、頭をよぎった。
あのとき、俺は自分の苛立ちに気づいていた。
けれど、気持ちをうまく整理できたわけではなかった。
もし、あの場で別の判断が必要だったら。
俺は自分の感情に引っ張られずに行動できただろうか。
「何か考え事?」
刹那さんの声で、俺は顔を上げた。
「……俺、姉さんのことを知っているつもりだったんです」
「うん」
「でも、こうして記録を読むと、知らないことばかりで」
刹那さんは、すぐには答えなかった。
「家族だからって、相手のすべてを知っているわけじゃないからね。むしろ、近くにいるからこそ、当たり前になって見えなくなることもある」
その言葉は、不思議と胸に残った。
姉が俺に見せていた姿も、セフィラで働いていた姿も、どちらかが偽物というわけではない。
俺が知らなかっただけなのだ。
*
資料室を出る前、俺は刹那さんに尋ねた。
「姉さんと一緒に働いていた人たちって、今もセフィラにいるんですか?」
「何人かはね。異動した人もいるし、別の部署に移った人もいるよ」
「その人たちから話を聞くことはできますか?」
刹那さんは少しだけ目を細めた。
「どうして?」
「記録だけじゃ、分からないこともあると思ったので。実際に姉さんと働いていた人なら、もっといろいろ知っているかもしれない」
「なるほどね」
刹那さんは椅子の背にもたれた。
「ただ、誰にでも好きなだけ話を聞けるわけじゃない。仕事の都合もあるし、話せない内容だってある。そこは理解しておいてね」
「はい」
「それに、君が聞きたいことを、相手が全部覚えているとも限らないよ」
「それでも、聞いてみたいです」
刹那さんは、しばらく俺を見ていた。
やがて、いつものように軽く笑う。
「分かった。話を聞けそうな人がいるか、確認しておくよ」
「ありがとうございます」
「お礼は、話を聞けてからでいいよ」
俺は資料室を後にした。
セフィラの廊下を歩きながら、姉について書いたノートを開く。
最初は、姉がどんな仕事をしていたのか知りたかった。
今は、それだけではない。
姉が何を考えて判断していたのか。どうしてその行動を選んだのか。周囲の人間と、どんな関係を築いていたのか。
記録を読めば読むほど、知りたいことが増えていく。
いつか、姉が目を覚ましたとき。
俺は、姉に直接聞きたい。
セフィラで何をしていたのか。
何を大切にしていたのか。
そして、俺の知らない姉自身のことを。
その日が来るまでに、少しでも多くのことを知っておきたいと思った。
俺はノートを閉じ、鞄にしまった。
まだ、何かが変わったわけじゃない。
けれど、姉を知るための道は、少しずつ見え始めていた。




