5 勇者の贈り物
壁や手すりを使えばゆっくりと自力で歩けるようになったリュートは、エレノアが執務で訪れない時間を狙い、黙って部屋を抜け出した。
そうして手持ちの小金貨を握りしめ、城の衛兵や使用人を相手に商をする行商人のもとへ向かう。
「予算はこれで全部か。……よし、わかった。あんたの意気込みに免じて、この枠の銀指輪から好きなのを選びな」
商人はリュートの手のひらにある小金貨をさっと引き取ると、控えめだが品のある銀指輪をいくつか並べた。
「ただ、指輪ってのは指の太さが合わなきゃ嵌めても落としてしまうぞ。サイズは分かるのか?」
「……大丈夫です。数日前に彼女が持ってる指輪を借りて、こっそり、僕の小指と同じ太さだって確かめてきました」
「へえ、ぬかりないねぇ」
そのやり取りを聞いていた若い兵士が、ニヤッと笑ってリュートの肩を並べた。
「おいおい、城の庭でこんな甘ったるい商談に出くわすとはな。あんた、新入りの使用人か何かか?
見かけない顔だが……まあいいや!
惚れた女のための買い物なんだろ? 良いのが見つかるといいな!」
兵士はパンッと力強くリュートの背中を叩くと、親指を立てて去っていった。
その日の夕方。
リュートは、指輪を買う行きかえりで時間を使ったのと、買える範囲の指輪の中から似合いそうなものを選ぶのに時間を使い、遅くなってしまった。
一方で「リュート様の姿が見えません」と侍女から報告を受けていたエレノアは、顔面を蒼白にして部屋で待ち構えていた。
「リュート……!? どこに行っていたの!? 心配したのよ……!」
涙目で駆け寄るエレノアに、リュートは緊張した面持ちで、そっと右手を差し出した。
その手のひらには小さな銀の指輪が載っていた。
「あの……エレノアさん。
僕は自分が誰かもわからない、何も持たない空っぽの男です。力もなく……君が話してくれる『昔の僕』には、一生追いつけないかもしれない。
……昔の僕が、君をどう愛していたのかも思い出せない……」
リュートは真っ直ぐ彼女の瞳を見つめながら、掠れた声で続けた。
「こんな身体じゃ君の支えにもなれないし、これからも迷惑ばかりかけてしまう。
だから一緒になろうなんて、そんなおこがましいことは言えない。
だけど今、僕は君のことが好きです。過去の勇者としてじゃなく、今の僕として……君が好きです。
だから……こんな僕だけど、君を想うことを、許してくれますか?」
エレノアは息を呑み、目を見開いた。
奪われたはずの愛が。
神の呪いによって完全に消し去られたはずの想いが。
形を変えて、再び自分に向けられている。
「ああ……っ、あああ……っ!」
エレノアは叫ぶように泣き出し、倒れ込むようにリュートの胸に飛び込んだ。手渡された指輪を固く握りしめ、彼の背中に手を回して、声をあげて涙を流した。
「いいの……! いいのよ、リュート……!
あなたがわたしを愛してくれるなら、何だって……何だっていい……!
わたしの愛する人は、あなただけよ……!」
二人は薄暗い部屋の中で固く抱き合い、失われたはずの時間を思う存分かみしめた。
◇
しかし――この幸福を手にしたと同時に、リュートは気が付いてしまった。
抱きしめたエレノアの身体が、驚くほど軽く、骨が浮き出るほど痩せ細っていることに。
リュートは、エレノアの様子を注意深く観察した。
彼女の目の下に差す濃い陰影、看病の合間に見せる呼吸の乱れ、そして振り返ってみれば何度かふらつく場面に慌てたこともあった。
「エレノア、どこか具合が悪いんじゃないか? 顔色が悪いよ……」
リュートは耐えかねて尋ねた。だけどエレノアは困ったように小さく首を振ると、いつもの優しい微笑みを浮かべてみせた。
「いいえ、大丈夫よ。少し寝不足なだけ。心配してくれてありがとう、リュート」
あからさまに自分の体調の悪さを隠そうとする彼女に、リュートの胸は痛んだ。
おそらく自分の看護や毎日のリハビリに付き合わせていることが、彼女の身体を削る大きな負担になっているのだろう。
「エレノア……僕の看護やリハビリに付き合うことが、君の負担になっているんじゃないかな。
僕はもう、一人でゆっくりなら動けるようになった。だから……毎日こうして僕の部屋に見に来なくても大丈夫だよ。
君も少し身体を休めてほしいんだ」
自分のせいで倒れてほしくない一心で発した提案だった。しかし、それを聞いたエレノアは痛切な眼差しでリュートを見つめ、そっと首を横に振った。
「そんな……そんな寂しいことを言わないで、リュート」
エレノアはリュートの手を包み込むと、愛おしそうに指先を絡めた。
「負担だなんて、そんな風に思ったことなんて一度もないわ。
……あなたとこうして過ごす時間は、今のわたしにとって唯一心が安らぐ、楽しい時間なの。だからお願い、わたしからこの時間を奪わないで」
彼女の気持ちに嘘偽りがないことは、その澄んだ瞳を見れば伝わってきた。だが、だからこそリュートの苦悩は深かった。
◇
——エレノアは普段、一体どれほどの重荷を抱えて生きているのだろうか。彼女の助けになれるようなことは、本当に何一つないのだろうか。
抑えきれない焦燥感に駆られたリュートは、真実を確かめるべく動いた。
エレノアが来ない時間帯を狙って、部屋を抜け出す。城内を巡りながら、庭師やメイド、顔なじみになった給仕や護衛の兵士たちに声をかけた。
「エレノアという方は普段、どんな仕事をされているのでしょう?」
「城の外や国はいま、どんな様子なんだろう。僕に何か手伝えるような雑用はないかな」
リュートに返ってきた答えは息を呑むような事実だった。
自分をただ一人の男性として愛し、甲斐甲斐しく看護してくれている彼女――エレノアは、単なる貴族ではなく、この国の第一王女その人だったのだ。
そして城の外に広がる世界は、魔王軍との戦いによって焼き払われた家屋、断絶した流通、そして深刻な食料不足に苛まれ、今なお民たちは飢えと貧困の不安に晒されていた。
その状況から人々を救い出すため、エレノアが中心となって、終わりの見えない膨大な執務をその肩に背負って動き続けているのだという。
国の命運を左右する判断を下し、書類の山と格闘し、民への救援策を練る日々。
過酷を極める激務の合間を縫い、彼女は自身の休息時間すら削ってリュートのもとへ通い、笑顔でスープを口へ運び、夜通し身体を擦ってくれていたのだ。
(あんなにも華奢な身体で……彼女は、国全体の運命と僕の命を、同時に背負っていたというのか……?)
突きつけられた現実に、リュートは立ち尽くした。
自分の無力さを恥じる言葉すら出ないほどの、圧倒的な重荷。その現実を知った瞬間、胸を締め付ける焦燥感は、罪悪感と絶望へと変わっていった。
ある日の夕刻。
書記官の荷物持ちとしてエレノアの執務室を訪れると、容赦なく押し寄せる難題と山のように積まれた書類を前に、エレノアは険しい表情で数人の執務官と激しく言葉を交わしていた。
飛び交う専門用語や複雑な国政の議論は、記憶を失ったリュートには到底理解できるものではなかった。しかし、その場を包む切りつめた空気、エレノアの固く結ばれた唇と眼光から、そこで扱われている問題がいかに難解で、国の存亡を左右するほど重大な決定であるかという重圧だけは、肌が痺れるほどに伝わってきた。
(彼女は僕を守ると言って、笑ってくれていた。
……だけど実際は、僕の看病と国の重圧に身も心も削り削られ、今にも倒れてしまいそうじゃないか……!)
リュートは必死に考えた。何とかして彼女の助けになりたい、あの重荷を少しでも分かち合いたいと。
だが、自分に何ができるだろう。書類の一枚すらまともに読めず、政務の知識もなければ、国の財政を潤す金もない。外へ出て民のために働くことすら叶わない。自分のことすら満足にできない男の存在は、どれほど取り繕おうともエレノアの貴重な時間と体力を削り、彼女を追いつめる「負担」でしかないのだ。
彼女を救いたいのに、自分が傍にいること自体が彼女の「負担」になっている。その現実が、リュートの心を刃のように苛んだ。
その時、リュートの脳裏に、エレノアが語ってくれた言葉が巡った。
――あなたはあの時、秘宝を使って奇跡を起こしてくれたの。
(そうだ……あの『秘宝』を使えば、どんな願いでも叶う。彼女を、彼女が愛するこの国の人々を、一瞬で救えるんじゃないか?)
リュートは日常の何気ない会話の中で、エレノアに探りを入れていた。
「昔言っていた……『秘宝』は、この城のどこかにあるの?」
エレノアの視線の動き、保管場所についての言葉の濁し方から、リュートは確信を得るに至った。
彼女が「二度とリュートに使わせない」と固く誓い、肌身離さず鍵を持ち歩いていること、そして秘宝そのものは執務室の机の引き出しに厳重に封印されていることまでも。
その日の深夜。エレノアが過労と安堵で深い眠りに落ちたのを見計らい、リュートは静かにベッドを抜け出した。
彼女の首元へそっと手を伸ばすと、その胸元に潜められていたチェーンの先に、小さな鍵がぶら下がっていた。呼吸を押し殺しながら、リュートは静かにそのチェーンを外し、鍵を奪い取った。
そのまま足音を殺してエレノアの執務室へと向かう。暗がりの中、秘宝が眠る大きな机の引き出しへ歩み寄り、鍵を差し込んで封印を解いた。そこに鎮座していたのは秘宝『魔猿の手』だった。
「エレノア。君は僕を忘れないと言ってくれた。……今度は、僕が君とこの国を守る番だ」
過去の記憶を失っても、肉体と愛を奪われても、自分がかつて秘宝の代償で何を得て何を失ったかを聞かされていても――リュートの魂の根底にある「他者のためにすべてを捧げる」という歪みのない本質は、何一つ変わっていなかった。
リュートは『魔猿の手』を強く握りしめ、静かに願いを唱えた。
(魔王軍がいなければ、国が荒れ果てることも、エレノアがこれほど苦しむこともなかったはずだ……!)
リュートは確信を込めて望みを言葉に乗せた。
「……世界を、魔王軍が攻めてくる前の……平和な時に戻してくれ……!」
ギチギチと、『魔猿の手』の三本目の指が折れ曲がる。
直後、王城全体を呑み込むほど圧倒的な白い輝きが激しく弾けた。輝きは壁をも通り抜け、リュートの部屋で眠っていたエレノアすらも跳ね起きてしまうほどの強烈な光だった。
その光の渦の中で、リュートの指先が金色の光の粒子となってサラサラと空気中に溶け始めていく。時を巻き戻す代償に、彼の存在そのものが失われようとしていた。
「リュート……!?」
異変と目を跳ね起きたエレノアが執務室へ飛び込んできた。身体が透けていく彼を見て狂ったように叫ぶ。
「嫌! 嫌よリュート! どうしてそれを持ってるのっ!?」
エレノアは必死にリュートを抱きしめようとしたが、手は光の粒子をすり抜けた。
リュートが消滅しつつある。
その恐ろしい現実を悟った瞬間、エレノアの顔は絶望に染まりきった。
「リュート!! リュート、お願いだから行かないで!! わたしを置いていかないで!!」
「泣かないで、エレノア。……どうか、幸せになってくれ。
君が笑って生きていけるのなら、僕はどうなったっていいんだ」
消えゆく身体、薄れゆく意識の中で、リュートは優しく微笑んだ。
二人は重なり合わない手を幾度も伸ばし合い、必死に届かぬ温もりを求め合う。
「リュート!! 失いたくない! あなたを、わたしのリュートを失いたくないの!!」
泣き叫び、必死に手を掴もうとするエレノアの姿を見つめながら、リュートはそっとエレノアの顔に手を伸ばした。自分の存在が消滅するのと引き換えに、エレノアの幸せと世界の平和が訪れるのだという安堵――。
リュートは穏やかで、慈愛に満ちた笑みを彼女へ向けた。
「二回も君に恋ができて……僕は、本当に幸せだったよ……」
エレノアの絶叫も虚しく、リュートの身体は光の粒となり、時が巻き戻る濁流の中へ跡形もなく消滅した。




