3 勇者の犠牲
魔王軍の軍勢そのものは塵と消えた。しかし、それまでに彼らが王国全土にもたらした爪痕は、あまりにも深く、凄惨を極めていた。
復興のため村々を見て回ったエレノアは、絶句した。視界に広がるのは、どこまでも焦土と化した大地だった。
魔獣の毒気によって腐敗した水源からは悪臭が立ち込め、焼き払われた街や村の跡地には、腕や脚を失い瘴気に侵されて皮膚が黒く爛れた何千人もの傷病者が横たわっていた。食糧は底を突き、このままでは数万の民が飢えと疫病で野垂れ死にするのが明らかだった。
記憶を失って、かつて自分が救おうと誓った人々の顔さえ思い出せなくなっていたリュートにとっても、目の前の光景は胸を刺すように痛む現実だった。
そんな状況の中、軍の通信具を通じて、国王から命令が伝わった。
「エレノアよ、国内の被害状況は絶望的だ。傷病者を治すための医者も施設も薬も不足し、都市群では万を超える民が疫病に侵されている。もはや通常の手段での救命は不可能だ。
……すぐに勇者リュートに秘宝を使わせ、病と傷に倒れゆくすべての民と兵士を治癒させよ」
「父上、何を仰るのですか!」
エレノアは通信具の向こうの国王に叫んだ。
「リュートは魔王軍を壊滅させる代償として、すでに己の記憶を失ってしまっているのです! これ以上秘宝を使わせれば、今度は命や存在そのものを失うかもしれません!」
しかし、国王は吐き捨てるように非情に言い放った。
「『魔猿の手』は一度でも発動すれば、三度、願いが成就するまでは最初に願った者――すなわちリュート以外の願いは聞き入れぬ。
故に、二度目の願いを叶える者も奴でなければならん。
……それにな、勇者一人の命を躊躇って、数万の民の命を見捨ててしまえと、お前はそれを民の前で言えるのか? それが王族の決断として、正しいと思うのか?」
「そ、それは……」
「もう一つ、教えておこう。
魔王軍がいない今、過大な力を持つ『勇者』は、もはや王国の統治において危険な存在でしかないのだ。
秘宝を使わせて民を救い、救国の英雄として消えてもらうのが、奴にとっても幸せなのだ」
通信を切られたエレノアは、あまりの理不尽さに激しく打ちひしがれた。
民を救わねばならないという王族としての在り方と、愛する人の存在を失いたくないという自身の願いで、心は千々に引き裂かれ、声をあげて涙を流した。
その時リュートが、静かに歩み寄ってきた。
彼は国王の声は聞き取れなかったものの、エレノアの必死な声と悲痛な叫びから、話の状況を正確に把握していた。
リュートはエレノアの前に膝をつくと、彼女の震える手を優しく、力強く包み込んだ。
「エレノア、泣かないで。 ……秘宝を使おう」
「リュート! ダメ! わたしは絶対に嫌!」
エレノアは首を激しく横に振った。
「『魔猿の手』を使って何が起きたか覚えているでしょう!? あなたは記憶を失ってしまったのよ……!
今度秘宝を使えば、わたしのことだって忘れてしまうかもしれない……。
わたしはあなたを失いたくないの!」
泣き叫ぶエレノアを、リュートは愛おしそうに見つめ返した。己の過去も愛の思い出も失った彼だったが、その心に宿る高潔な光と慈愛だけは、何一つ変わっていなかった。
「エレノア、君が教えてくれただろう?
一つ目の願いを唱える時、君は自分が代償となって消えてしまうかもしれない恐怖を呑み込んで、僕に秘宝を託してくれたんだと」
「……っ」
「君は自分を犠牲にする覚悟を持って、みんなの未来を僕に繋いでくれたんだ。
……だったら、今度は僕の番だ。
過去や思い出を失った僕だけど、君が自分のすべてを懸けて民と僕を守ろうとしてくれたことだけは、僕の魂がちゃんと覚えている。だから、僕も自分が消えることを恐れて立ち止まるわけにはいかないんだ」
リュートは穏やかに微笑み、こぼれる彼女の涙をそっと拭った。
「たとえ僕の命や存在が消えることになっても……僕の根底にある『君やみんなを守りたい』という想いだけは絶対に消えない。
君も見ただろう?
大勢の人が苦しみの中で助けを求めている。君が愛し、僕たちが命がけで守ったこの国の人々だ。
……彼らと君を救うために、『魔猿の手』の力を使わせてほしい」
エレノアは胸が詰まり、言葉にならなかった。どれほど記憶を奪われようとも、他者のためにすべてを捧げようとする彼の美しく誇り高き魂は、何一つ変わらない。
彼女は溢れる涙を止められないまま、リュートの胸に顔を埋め、彼の決意を受け入れた。
「……約束する。たとえあなたがわたしを忘れても、わたしは……わたしは絶対にあなたを忘れないわ。命をかけて、あなたを愛し続ける……!」
「ああ、ありがとう、エレノア」
ふたりは固く抱き合い、リュートは決意とともに『魔猿の手』を取り出した。そして、禍々しいその手を強く握りしめた。
「願いを叶えろ!
戦いに傷つき、病に倒れゆくすべての民、兵士たちの怪我と毒を癒やす奇跡を!」
ゴキリ。
二本目の指が折れ曲がり、その瞬間、魔王軍が蹂躙した全ての地域に、純白の神聖な癒やしの光が優しく解き放たれた。その奇跡の光は山をも突き抜け、焦土と化した王国全土をやさしく包み込む。腐敗していた水源は清らかな水へと戻り、瀕死だった無数の傷病者たちの傷や爛れた皮膚が、一瞬にして完治していった。
リュートは、深く息を吐きながら自分の両手を見つめた。
身体に激痛が走るわけでもなく、体調も悪くない。前回と同じように、自分の身体は確かにそこに存在していた。
「……よかった。今度も、命までは奪われずに済んだみたいだ」
安堵の笑みを浮かべるリュートと、奇跡の光に包まれながら涙をぬぐうエレノア。
だが――一度目と同じように、呪いは目に見えぬ足取りで、静かに彼に牙を剥いた。
◇
異変の芽生えは、願いを行使した翌日の昼下がりのことだった。
奇跡の力によって活気を取り戻した街の広場で、リュートは復旧作業を手伝っていた。山のような瓦礫を一腕で軽々と持ち上げてる彼の腕力は、兵士たちにとっても希望の象徴だった。
「勇者様、そちらの大木をあちらの補強材へ運んでいただけますか!」
「ああ、任せてくれ」
リュートはいつものように快く応じ、倒壊した城壁の太い木柱に手をかけた。力強い脚を踏み込み、一気に引き上げようとする。
――ぐ、っ……。
木柱は微動だにしなかった。
それどころか、腕の筋肉がみしりと悲鳴をあげ、ひざがガタガタと震えだした。かつては指先ひとつで支えられたはずの重量が、まるで巨大な岩塊のように彼の上に重く伸しかかる。
「……? おかしいな、少し手元が滑ったようだ」
リュートは気まずそうに苦笑し再び全力で腕に力を込めた。しかし持ち上がるどころか自分の体重すら支えきれず、ガクリと膝をついて床に手をついてしまった。
周囲の兵士たちが「勇者様!?」「どこか具合が悪いのでは!」と慌てて駆け寄ってくる。
(疲労……なのだろうか? )
その日の夕刻、さらなる異変が彼を襲う。
前線指揮所でエレノアが机から書類を落とした時だった。
「あ、ごめんなさい、リュート。取ってもらえるかしら?」
「ああ、すぐ取るよ」
リュートは床に散らばった羊皮紙に手を伸ばしたが、床へかがみ込んだ瞬間、膝の力が不自然に抜け、ガクリとバランスを崩して床に両手をついてしまった。
「リュート……? どうしたの?」
「いや……足元が少しもつれてしまったみたいだ。少し、踏ん張りがきかなくてね」
リュートは苦笑いを浮かべ、何でもないように取り繕いながら立ち上がった。だが、その動作はどこか覚束ない。
力が入らないだけではない。身体の動きがぎこちなくなり、すべての身体能力が失われているように感じた。踏ん張りがきかなかったのも、体幹と筋力が減衰したからだった。
三日目には、剣を振るうこともおぼつかなくなり、四日目の朝の鍛錬では、いつもなら十キロ走っても息切れしなかったランニングを、百メートルの時点で膝を追って立ち止まるハメになった。
そして五日目。
朝食のスープを口に運ぼうとしたリュートの手から、カランと音を立てて木製のスプーンがこぼれ落ちた。指先の筋力すら削ぎ落とされ、物を握ることすら困難になっていた。
「……リュート! もしかしてスプーンを握れないの……!?」
悲鳴をあげて駆け寄るエレノア。
リュートは震える己の手を見つめ、それからゆっくりとエレノアの方へ視線を向けた。彼の瞳ははっきりと彼女の姿を捉え、その声も鮮明だった。だが、その表情には困惑が広がっている。
「剣を振るう力も……走る力も……僕の中から削ぎ落とされていく。……体力が、身体の強さが、何もかも消えていくんだ……」
かつて魔王軍をも蹂躙した身体能力を奪われていくリュート。エレノアは己の髪をかきむしり、激しい吐き気に襲われながらその場に崩れ落ちた。
使用者の最も大切なものを代償とする――。
(『魔猿の手』は……彼の勇者の力を奪っているんだわ……!!)
過去を失った彼に残されていたのは、民を守るための驚異的な身体能力と、目の前の女性を愛おしいと感じる感情だった。『魔猿の手』はその残された輝きの一つを、容赦なく貪り食っていたのだ。
「リュート……! わたしが……わたしがまたあなたに秘宝を使わせたから……!
ごめんなさい、ごめんなさいリュート……!」
エレノアは泣き叫び、動かなくなったリュートの手を抱きしめて自分の頬に擦り寄せた。
リュートは彼女の涙をしっかりと見つめ、その悲痛な泣き声を耳にしながら、困惑したように自身の胸元に手を当てた。
「……ねえ、エレノア。おかしいんだ」
「え……?」
「さっきからなんだか、君が泣いているのに何も感じない……」
その瞬間――。
リュートの表情から、最後にとどまっていた感情がすっと消え失せた。削ぎ落とされたのは、勇者としての力だけではなかった。
「――あ」
エレノアの口から、絶望の悲鳴が漏れた。
リュートは自身の胸を押さえたまま、どこか遠くを見るような虚ろな目で何度か瞬きをした。そして、ゆっくりと目の前にいるエレノアへと視線を戻す。
エレノアへ向けていた熱い輝きは、その瞳に存在しなかった。ただ、見知らぬ他人を眺めるような無の感情だけが映っていた。
「……あの。申し訳ありません」
リュートの瞳に静かに灯っていた最後の一筋の光が、ふっと息を吹き消された燭台のように消え去った。
――エレノアは理解できてしまった。
困惑も情愛も消え、黒く澄んだ硝子玉のような虚無だけが残される。彼は首を傾げ、他人に向ける無感情な瞳でエレノアを見つめた。
「……あなたは、一体どなたですか? 僕と、何か関係のある方なのでしょうか」
「……っ……!?」
エレノアの息が止まった。ドクン、と心臓が破裂しそうなほど大きく跳ね上がり、全身の血が一気に引いていく。
(消えた……?
……わたしという存在そのものが……彼の世界から……!?)
二人で重ねた唇の温もりも、身分を越えて愛し合った夜の誓いも、名前を呼び合った記憶も――そのすべてが彼の中のどこにも存在しない。
かつて命を賭して愛してくれた人は、目の前で自分を他人として見つめている。
「リュート……!!
冗談でしょう……? わたしよ……エレノアよ……っ?
あなたの愛した、エレノアよ……!?」
エレノアは狂ったように首を振り、彼の手を強く握った。だが、リュートは嫌がる風でもなく、ただ不思議そうに己の手元を見つめるだけだった。
「エレノア様……とおっしゃるのですね。
ですが……すみません。そのようなお名前の方は……知らないようです」
彼の声には、拒絶すら存在しなかった。ただ純粋な無関心があるだけだった。それが何よりも深く、鋭く、エレノアの心を切り刻む。
(ああ……神様、なんて、なんて……。
リュート……! そんな……そんな目でわたしを見ないで……!)
胸を押し潰すような絶望に襲われながら、引き千切れそうな声でエレノアは泣き叫んだ。そして、戸惑いながら自身を見つめるリュートの腕に、必死で縋いたのだった。
王国の未来と引き換えに、勇者はすべてを失い、エレノアの愛は虚無の中に落ちていったのだった――。




