2 奇跡の代償
光の余韻が去り、静寂が前線砦を包み込んでいた。
地平線を埋め尽くしていた軍勢は跡形もなく消え去り、大地の上には澄み渡る青空が広がっていた。数日間もの間続いた呪詛の怒号も、地鳴りのような咆哮も、嘘のように止んでいる。
「……き……消えた……? 魔王軍が、消えた……!?」
前線を覆う緊迫が、静寂から歓喜の嵐へと一変した。傷ついた兵士たちが抱き合い、貴族の騎士たちが空に向かって剣を突き掲げて咆哮する。
その狂喜の渦の中で、エレノアだけが己の胸元に両手を当て、早鐘を打つ心臓の鼓動を聞いていた。
(わたしは……、わたしは生きている……?)
『魔猿の手』の代償。
己が世界から消え去る恐怖に、エレノアは歯を食いしばって耐えていたのだ。だが、彼女の命はまだあり、身体のどこにも異常はない。
(じゃあ、代償は一体……? まさか……!?)
血の気が引いたエレノアは、慌てて前方へと視線を向けた。
光の渦の中心に立ち聖剣を収めたリュートが、笑顔でこちらへ振り返る。その足取りに乱れはなく、全身の血色も至極良好だった。身体からは先ほどまでの荒れ狂う神気が静かに収まり、外傷一つなく、呼吸の乱れすら見られない。
「やったな、エレノア。僕たちは、勝ったんだ!」
リュートは喜びを爆発させて彼女のもとへ歩み寄ると、その手を包み込むように握りしめた。温かい、血の通った、いつものリュートの手だった。
「リュート……! 無事なのね? どこも痛まないのね……!?」
「ああ、平気だよ。少し不思議な感覚だったけれど、身体に問題はない」
(きっと神様が奇跡を下さったんだ……!)
胸を撫で下ろし、涙を拭うエレノア。
リュートは「最も大切なものが奪われる」という代償の存在を知らない。
エレノアもまた、余計な不安を与えたくないという思いと、何も起きなかったという安堵から、それを彼に語らなかった。
誰もが奇跡のような勝利を喜び、地獄の終わりを祝っていた。
――しかし。
狂乱のような歓喜が去り、日常の泥臭い戦後処理が始まると同時に、異変は静かに忍び寄ってきた。
◇
奇跡の勝利から二日が過ぎた夕刻のことだった。
前線砦の復旧作業の合間、エレノアはリュートと共に温かいスープを口にしていた。
「そういえばリュート。先ほどレイモンド歩兵長が意識を取り戻したそうよ。一番にあなたに会いたがっていたわ」
レイモンド。
彼はリュートが平民志願兵として入隊した日に出会い、幾度も死線を共に潜り抜けてきた男だ。
「僕の背中を任せられる、信頼できる親友だ」と、リュートがどれほど誇らしげに語っていたか。
スープを口に運んでいたリュートの手が、ピタリと止まった。
「……レイモンド? ……誰だい、それは?」
リュートは真顔で、首を傾げた。
「え……? 冗談でしょ、リュート。あなたの同郷の、大きな体の……」
「……ああ、ごめん。そうだね、同郷のレイモンドか」
リュートは気まずそうに苦笑し、己の額を指先で押さえた。
「戦いの疲れが残っているみたいだ。少し、頭がぼんやりしている」
その時のエレノアは、極限の戦い、連日の激戦による過度な疲労、それが彼の思考を妨げているのだとそう思ったのだ。
だが、三日目、四日目。
疲労という言葉で片付けるには、異変はあまりに歪で不気味な形を取り始めた。
リュートは愛用している己の鎧の外し方を、一瞬迷うようになった。司令官室へ向かう途中で何度も足を止め、迷子になったように周囲を見渡すようになった。
(おかしい……。疲れにしては、段々と頻度が高まっている……。)
異変に気が付いたエレノアは、人知れず軍医を呼び寄せリュートの身体を詳細に診察させた。しかし、軍医が出した答えは「至極健康。脈拍も脳の反応も正常」というものだった。
病気でもない。疲労でもない。
では、この緩やかに、しかしはっきりと現れた彼の異変は何なのか。
そして五日目の夜、異変は明確な形となった。
「……おかしいんだ。エレノア! 助けてくれ……おかしいんだよ……!」
自室で書類を検分していたリュートが、突如として頭を抱え、床に膝をついた。その顔は青ざめ、額からは尋常ではない量の冷や汗が噴き出している。
「リュート!? どうしたの!?」
慌てて駆け寄ったエレノアに、リュートは真っ赤に充血した目で訴えた。
「僕が……僕が生まれ育った故郷を思い出せない……! 緑の川があって、麦畑があったはずなんだ。だけどどこにあるのか場所も名前も、思い出せないんだ!」
「そんな……っ!」
「それだけじゃない! 父さんや母さんの顔や名前も、僕がどんな子どもだったかも思い出せない!
どうして僕は勇者と呼ばれているのか、どうして国軍の総司令官として働いているのかも、まったく思い出せないんだ!
僕の頭は、おかしくなったんじゃないだろうかっ……!?」
リュートの絶叫を聞いた瞬間、エレノアの脳裏に雷鳴が響いた。
(違う……病気じゃない……!!)
頭の中で、リュートの異変の原因に思い至った。
(……『魔猿の手』!!)
エレノアは息ができなくなるほどの衝撃に襲われ、その場に崩れ落ちそうになった。
願いの代償は、わたしではなかった。奪われたのは彼の記憶、彼の人生だったのだ。
「リュート……聞いて……! 聞いてちょうだい!」
エレノアは震える手でリュートの頬を両手で強く包み込んだ。涙が溢れて視界をぐしゃぐしゃに濡らす。
「あの『秘宝』には、代償が必要だったの……! どんな願いも叶える代わりに、使い手の『一番大切なもの』を奪うという代償が……!
ごめんなさい! わたしは……私は自分が消えるのだと思ってた……!
だって、あなたの一番大切なものは自分だって、信じていたから!
わたしは自分が消える覚悟でいたのに、そんな……あなたの記憶を奪うなんて……!」
エレノアは声を上げて泣きじゃくった。己の愚かさを呪い、秘宝を使わせてしまった後悔で胸が張り裂けそうだった。
リュートは、自分を抱きしめて号泣しながら謝罪を繰り返すエレノアを、茫然と見つめていた。そして彼女が語る『代償』の事実を静かに反芻すると、悲しそうに、けれど慈しむような穏やかな笑みを浮かべた。
「……そうだったのか。……ねえ、エレノア。泣かないでくれ」
リュートは優しく彼女の涙を親指で拭った。
「教えてくれてありがとう。でもね……僕は後悔なんてしていないよ。あのままじゃ、どのみち僕も、君も、砦のみんなも死んでいたんだ。
僕の記憶と引き換えに、君やみんなが生き残れたんなら……そんなの、お釣りが出るくらい安い代償じゃないか」
「そんなこと言わないで……! 安いわけないでしょう!? あなたの人生なのよ!?」
「平気さ。過去を忘れたって、僕は今ここにいる。君が隣にいてくれる。
だから――」
強がるように微笑むリュート。しかし、その言葉は途中で途切れた。彼は自分の胸元に手を当て、何かを探すように、深く、深く困惑した表情を浮かべた。
「あ……れ……?」
「リュート……?」
リュートは自分の胸を強く掴み、信じられないものを見る目でエレノアを見つめ返した。その瞳には、先ほどまで確かに存在していた深い愛おしさの代わりに、戸惑いの揺らぎが漂っていた。
◇
「リュート……?」
リュートは慌てたように身体を強張らせ、一歩後方へと身を引いた。エレノアの手から、彼のぬくもりが離れていく。
「あ……あの、王女様……? お身体に触れていたようで、申し訳ありません……」
「……え……?」
エレノアの思考が固まった。かつて二人の間にあった身分の壁を象徴する、硬く折り目の正しい「王女様」という呼び方。
それがリュートの唇から漏れ出たという事実に、彼女は血の気が引いていく気がした。
「王女様……うっ……!?」
直後、リュートは激しい頭痛に耐えるように頭を抱え、苦しげに掠れた声を漏らした。リュートは自身の胸を強く握りしめ、混乱と切なさに溢れた瞳でエレノアを見つめた。
(なぜ、平民である自分が王女様と二人きりに……。)
(……おかしい。彼女との記憶を思い出せない。)
エレノアとの思い出はすべて消え去っていた。だが、彼女を誰よりも愛おしく思い、失いたくないと強く望む衝動だけは、彼の胸の深底に残されていた。
(……どうして彼女の不安そうな顔に、胸のこんなにも締め付けられるんだ? )
「――あ」
エレノアの口から、声にならない悲鳴が漏れた。
奪われていく。
リュートの見せた戸惑いから、エレノアは察してしまった。
彼と築いた絆も努力の軌跡も、そして二人で命を懸けて育んできた想い出すらも――『魔猿の手』の願いの代償として、根こそぎ奪われたのだ。
だが、エレノアは絶望の深淵で、溢れ出る涙を力強く拭った。
エレノアは引き下がろうとするリュートの手を強く引き寄せ、真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。
「『王女様』なんて冷たい呼び方はやめて、リュート。お願いだから……いつもみたいに『エレノア』って呼んで」
「えっ……? でも、そんな恐れ多い……」
困惑するリュートの言葉を遮るように、エレノアは自ら身を乗り出した。そして、彼の胸元にしがみつくと、迷うことなくその唇へ己の唇を重ね合わせた。
「――んっ……!?」
突然の出来事に、リュートは目を見開き、全身を硬直させた。甘く切ないぬくもりが重なり合い、ふたりの呼吸が混ざり合う。
「……ねえ、リュート?」
ゆっくりと唇を離したエレノアは、赤く染まった頬に愛おしさを込めた笑みを浮かべ、囁くように言った。
「思い出せない……? あなたと私は、こうして想いを確かめ合うような仲だったのよ」
リュートは呆然と己の唇に指先を触れさせた。記憶の引き出しは空っぽのはずなのに、その柔らかい感触と胸を突く温もりは、当たり前のように自分の魂に馴染んでいた。
(僕の心が、彼女を求めている……!?)
驚き丸くなったリュートの瞳が、やがて優しく細められていく。
リュートは穏やかな微笑みを浮かべると、いつもより遠慮がちに、両手でエレノアをやさしく引き寄せた。




